第11話

 翌日も、その翌日も、笑は姿を現さなかった。

「笑さん、今日も休み?」

「みたいね」

 凛と美波はひそひそと話をする。ホワイトボードの出欠表には、「休み」とだけ書かれていた。

 窓の外は曇りだ。予報では、午後から雪が降ることになっている。

「みんなも聞いていると思うけど」

 百合は朝礼の場で報告する。

「次期防災大綱で、うちの方針が変わることが正式に決定された。これまでの消極駆除から、積極駆除、積極調査に変更になる」

 一同が少しざわめく。

「ま、やることは変わらない、とは言い切れないけど、しばらくはこのままだと思う。変に動揺せずに、これまで通り仕事を続けてほしい」

 防災大綱に記載する基本的対処方針の変更は、昨日行われた会議で正式に決定された。反対意見もあったが、PPIという夢の薬がそれを封じたのだという。

 当然、百合に参加の声はかかっていない。すべては上官である東山からの受け売りだ。

「じゃ、今日の朝礼は以上。今日も元気に頑張りましょう」

 百合は隈だらけの目を見開きながら、そう言った。

「喧嘩でもしたのかい?」

 朝礼が終わったあと、飛鳥がそっと百合に声をかける。

「顔、ひどいよ。寝てないみたいだ」

「寝てないんだよ」

「おおっと、当たっちゃったか。それで、なにしたんだい?」

「わかんない」

 百合は首を横に振った。

「よくわかんないけど、笑が家出したんだよ。電話にも出なくて、どこにいるのかわからないんだ」

「はぁ」

 飛鳥は嘆息する。

「それで休みか。さすがに職権乱用が過ぎやしないかい? 勝手に有休使ったことにするなんて」

「同居人として申請したまでだからセーフ」

「それで、君はいいのかい? 市原君を探しに行かなくて」

「……大事な会議がある」

「……そういうところじゃないのか?」

 飛鳥は真面目な顔で指摘した。

「ま、痴話喧嘩に巻き込まれる気はないから、勝手によろしくやってくれたまえ。京子君、行こう」

「わかりました」

 飛鳥も京子を引き連れて、自分のデスクへと言ってしまった。

「どこ行ったのかなあ」

 百合はため息をつきながら、統括官室へと引っ込む。

 怪獣出現のサイレンが鳴ったのは、その時だった。

『観測室より各員。怪獣が第一孔第一隔壁を突破。総員、緊急駆除態勢へ移行せよ』

「マジか」

 百合はすぐに観測室へと走る。他の職員もあわただしく駆け回り始めた。

「状況は!」

「カメラと赤外線、振動計に感ありです! 間違いなく怪獣です」

「カメラの映像から、大型の哺乳類型怪獣と見られますが、すぐにカメラがやられたので種の同定には至っていません!」

「怪獣、すでに第二隔壁に到達。隔壁に対して攻撃を行っているもようです」

 観測室のオペレーターたちが叫ぶ。

「砲車展開急いで!」

 百合は指示を出しながら、自身も駆除服に着替える。

 そして観測室から直結している倉庫に走ると、次々出撃する駆除砲車の合間を縫って、指揮車に飛び乗った。

「出して!」

「了解!」

 陣形を展開しながら、指揮車や駆除砲車は第一孔へ向かう。

「火力駆除隊はA陣形。所定の場所に到着次第直ちに砲撃準備を開始。機動駆除隊は機関砲を展開し、火力補助並びに不測の事態に備えて」

 百合の指示で、砲車や機動駆除隊員たちが動く。訓練の甲斐もあってか、混乱はまだ起きていない。

 コンクリートで新調されたばかりの第一孔第二隔壁は、すでに無数の亀裂が出来ていた。

「……手形?」

 百合は亀裂を見て呟く。それはまるで、人間の手形のようだった。隔壁はすでに破断しかけていた。轟音が周囲に響く。

「早いな……」

 怪獣出現の報からまだ数分。駆除砲の展開すらいまだに終わっていない。ここまで早く怪獣が隔壁を破ることは想定外だ。

「各員に次ぐ。この怪獣はかなり特殊かもしれない。気を引き締めて」

 百合は無線を通して呼び掛けた。

 ガシン、という音とともに。隔壁が破られた。中から怪獣が現れる。

 その姿に、百合は絶句した。

「なんじゃこりゃ……」

 それは人型をした、のっぺらぼうのような怪獣だった。

 直立二足歩行で、しっぽの類はない。シルエットは完全に人間だ。男性と女性の中間のような、丸みを帯びつつも角ばった形をしている。

表面はつるつるとしたゴムのような質感で、体毛の一本も見られない。体表はグレー。目や口、鼻のような器官もなく、生物として異様な雰囲気を漂わせていた。

その怪獣は、身をかがめて特環孔を出るとすくりと立ち上がる。体長にして60メートルほど。手足はすらりと長い。

「……飛鳥」

『知らない』

 助けを求めた飛鳥から、きっぱりと言われてしまった。

『私はこの怪獣を知らない。聞いたこともない。……新種だよ』

「北総特環の第一層だよ!? そんなのが出てくるわけないだろ!」

『現に出てきてるだろ! 現実を見ろ、水留!』

「っ!」

 飛鳥の言葉に、百合は自分の失態に気が付く。

 現場指揮官が現場を見なくてどうする。頭を振って冷静さを取り戻す。

「いいか、相手は未知の怪獣だ。これが市街に出れば、どんな被害が出るかわからない、やる事はいつもと同じだよ。……これより害獣駆除法に基づく緊急害獣駆除を執行する! 撃ち方用意……」

 怪獣は何をするまでもなく、悠然と立っていた。その姿には畏怖の感情すら湧く。

 だが、百合は咽頭マイクに手を当てて、叫んだ。

「撃て」

 それを合図に、砲撃音が響いた。

 怪獣に砲撃が加えられる。動かない怪獣への攻撃は簡単だった。全弾が命中し、煙に包まれる。

 しかし、

「嘘だろ……」

 怪獣はまったく無傷で立っていた。先ほどまでと寸分変わらない姿で、こちらを見下ろしている。

「……怯むな。撃て!」

 第二射、第三射が加えられる。この基地の最大火力である76ミリ砲の直撃を受けてもなお、怪獣はびくともしない。

「……攻撃停止!」

 百合は初めての命令を出した。砲撃が止む。隊員たちも動揺しているのが、指揮車の上からも見て取れた。

「西條、本部に繋いで。映像と一緒に」

「はい!」

 指揮車に乗っている部下に指示する。すると、すぐに悲鳴のような声が聞こえてきた。

「ほ、本部より連絡。関東各地の特異環境で怪獣が出現!……出現した怪獣、こいつと同じ特徴の、新種怪獣です……」

「はあ!?」

 百合は思わず叫んだ。

「本部繋ぎます!」

 部下が言うのとほぼ同時に、百合は言う。

「こちら北総特環水留統括官。現在種別不明の怪獣が出現、駆除実行中だが火器効果見られず。指示を請う!」

 だが、帰ってきた声は平淡な物だった。

『日本政府、並びに地上人類に次ぐ』

「……は?」

 明瞭な声。女性の声。そして聞き覚えのある声。

『これは、我々からの要求である』

『我々は、我々の生存権を確保するために行動する』

『地上人類は、地下への干渉を一切やめよ』

『これは要求である。要求が聞き入れられない場合、我々はさらなる行動を実施する』

『我々にはその能力がある』

『これは脅しではない』

 それきり、無線は沈黙した。

「電波がジャミングされてます! どのチャンネルも不通です!」

 部下が叫ぶ。

「す、スマホも圏外になってます。……もしかしたら、無線の電波だけじゃないかもしれません」

 百合はスマホを見る。市街地に近いこの場所は、普段なら電波が入るはずだが、今は圏外になっていた。

「各班長をここに集めて。今後の対策を協議する。火力隊は警戒を維持。怪獣に動きがあれば即時駆除! 以上伝達!」

「で、伝達ってどうやって」

「走って!」

「は、はい!」

 指揮車に乗っていた部下たちが、弾かれたように車両を降りると駆けていく。

「……笑」

 百合はぽつりとつぶやく。

 無線の向こうから聞こえてきた声は、笑の声そのものだった。

「またエラいことになったね」

 班長として召集された飛鳥は、開口一番言い放った。

「76ミリが効かないとなると、奥秩父か渡良瀬から127ミリか155ミリ砲を借りてこないといけないな。ま、76ミリ砲で傷一つついてないから、効くとは思えないけどね」

「そもそも連絡手段がない」

 百合は頭を抱える。

「調べたけど、無線は駄目、スマホはもちろんテレビもラジオも、電波を使うものは全滅してる」

「電話は?」

「これも不通だよ」

「こりゃEMPかな?」

 飛鳥は怪獣を見上げた。

 EMPは電磁パルスと呼ばれる現象のことだ。強力な電磁波の波が発生することによって、電子機器や通信機器に甚大な影響を及ぼす。

「EMPならそもそもスマホも無線機も故障するだろう。何か別のものだよ、これは」

「まったく、未知の種類に未知の能力とは。面白いねえ」

 百合の指摘に、飛鳥はにやりと笑う。

「それにこの体型、直立二足歩行じゃないか。人類みたいだね」

 飛鳥が嘆息する。現れた怪獣は、まさに巨人といった風貌だ。これまで、ダイダラボッチのような類人類型の怪獣は確認されていたが、ここまでヒトに似た種は発見されたことがない。

「まさか、これが地下人類?」

 百合が怪獣を睨む。それに対し、飛鳥はふっと笑った。

「知性は感じないけどねえ。どっちかといえば、道具といった感じもするけど」

 表情どころか顔面のない顔を、二人はじっと睨む。

「で、だ」

 飛鳥は声を潜めた。

「無線の声、水留は気が付いたかい?」

「……ああ」

 ほかの班長も息を飲む。百合は降参のポーズを取った。

「あれは笑の声だ。間違いない」

「どういうつもりなんだろうね」

 飛鳥は言う。

「可能性は3つだ。たまたま市原君の声に似ていたか、市原君の声を怪獣が何らかの方法で採取して模倣したか、市原君本人が言ったか」

「いずれにせよ決定的な証拠がない以上、何とも言えない……。私情を挟まずに行っても、こう結論付けるしかないと思うんだけど」

 百合の言葉に、飛鳥は頷く。

「確かにね。ゆえに市原君には直ちにここに来てもらう必要があるんだが」

「連絡の取りようがない」

 百合は顔を横に振った。そして顔を引き締める。

「とにかく情報と連絡手段の確保が必要だ。本部と連絡が取れない以上、独断で動かなきゃいけない。怪獣の動向も心配だしね」

「よし、じゃあ機動隊から人をねん出して、電波障害の範囲を調べる。他の特環、あと本部に人をやって、状況を確認することも必要だろうね」

「飛鳥、委細任せた」

「承知した」

 機動駆除隊はそれぞれ各特環と本庁に向けて出発する。百合は加えて指示を飛ばした。

「私たちは現場対応だ。ひとまず北総市と千葉県、それに警察、消防に事態の詳細を伝えなきゃいけない」

「それ、私が行きます!」

「頼んだ」

 百合の指示のもとに、各々がそれぞれの行動を開始する。

 怪獣はそれを、じっと見下ろしていた。


 被害は甚大だった。

 電波障害は、特環を中心に半径10キロ圏内に及んでいることが判明。その中では、電話やインターネットを含んだあらゆる通信、電波機器が使用不能になっていた。

 北総特環の10キロ圏内には成田空港も含まれる。おかげで空港は使用不能となり閉鎖された。

 その他の交通にも大きな影響が出ている。鉄道は当然不通。高速道路は料金所が不具合で閉鎖されたため、こちらも不通。一般道路も信号機が故障したせいで事故が相次ぎ、通信途絶圏外に出ようとする車で大渋滞を起こしていた。

 それが北総だけでなく、関東各地の特環でも同じ事態が起きていた。湘南特環は東海道新幹線と東名高速、渡良瀬特環と赤城特環は東北・上越新幹線に関越・東北自動車道。そして東京湾口特環の通信途絶圏は羽田空港を離発着する飛行機の航路に被っている。

 事実上、関東地方は封鎖されていた。

 今のところ目立ったパニックは起きていないが、それも時間の問題だ、と百合は感じていた。

 パニックが起きていない理由は、『我々』を名乗る何かしらの声明が、一般人には聞かれなかったからだ。

 あの声明は、環保関連施設と政府の上層部関係者のみに届けられたらしい。マスコミへの公表も、今のところ差し控えられている。

 今一般人が知っているのは、正体不明の怪獣により、大規模な電波障害が起きている、という事だけだ。

『今日午前8時ごろ出現した怪獣について、特異環境保安庁は緊急の記者会見を行いました。その中で石田長官は、『これまでの駆除法での駆除の見込みが立って居らす。この獣害の解決のめどは……』』

「解決のめどはたっていない、か」

 百合は深く息を吐いた。

 災害対策本部は、通信が可能になっている千葉市の総合防災公園に置かれることになった。百合も指揮官の一人としてそちらに移動している。

 10キロ圏内にはすでに避難指示が発令され、住民の避難が始まっていた。これほどの広域避難は、ここ何年か例がない。

 自衛隊にも災害派遣命令と怪獣駆除行動命令が発令され、住民避難の援助と、駆除のための武器集積を行っている。その影響で、この防災公園にも自衛隊の車両が行きかっていた。

「定時連絡です。一三〇〇現在、怪獣に動きはありません」

 立っていたのは柏京子だ。百合は敬礼で返す。

「ご苦労様」

 時計を見ると、現在13時半前だった。

 現地との通信手段が失われたため、連絡は伝令に頼っていた。15分に一度、こうして伝令役の隊員が現地から訪れる仕組みになっている。

「ま、コーヒーでも飲んでいきな。疲れたでしょ、さすがに」

「大丈夫です」

 京子は断る。

「指示に何か変更はありますか?」

「ない」

 百合は短く言う。昼食を取るようにという指示はもう出してあるから、京子に伝える指示や命令はなかった。代わりに現況を説明する。

「今回の獣害に際して、総理官邸に緊急災害対策本部が設置された。今後、この怪獣の駆除は官邸が指揮を執る。現在は対処プランを検討中、ってところかな?」

「今日中に駆除完了は宣言されますか?」

「上はそのつもりだよ。すでに経済的損失が数千億円に達しているらしい。夜を明かすということは、今のところは考えていない」

「承知しました。では怪獣の要求を呑むということはないのですか?」

「……ない」

 京子は再び敬礼をした。

「では北総特環怪獣駆除隊は、これまで通り駆除警戒態勢を取り待機します」

「よろしく頼んだ」

 とはいえ。

 百合は内心付け加える。

 砲撃でびくともしなかった怪獣に、これ以上打つ手があるとは思えない。自衛隊が出張ってきても、結局は同じ結末だろう。

 実は自衛隊にも、環保を超える砲火力はほとんどない。最大火力だった207ミリ自走砲が退役した今、自衛隊の保有する火力は、環保と同じ155ミリ砲だけだ。長砲身ゆえ威力は多少上だが、『多少』の差でどうにかなるほど、新型怪獣は柔らかくはない。

 そのうえ本州に唯一配備された火力部隊は富士教導団だが、ここに配備されている19式155ミリ自走砲は数が限られる。まとまった数を揃えようとすれば、北海道、あるいは九州から、数日がかりで呼び寄せなければならない。

 それ以上となればミサイル攻撃だが、そもそも自衛隊のミサイルは長射程が売りであって、攻撃力自体がとてつもなく強いといったわけではない。

 航空宇宙自衛隊による航空爆弾を使用した駆除も考えられるが、市街地のど真ん中である北総特環や湘南特環でそれが可能であるか、百合は懐疑的だった。

 そもそもそういった兵器に装備された通信システムが、まともに作動するかもわからない状況なのだ。

「残る切り札はPPIか」

 すでに現場も上層部も、PPI(粒子透過阻害剤)を利用した駆除に傾いている。

 そう、駆除に傾いていた。

 怪獣が出した(とされる)要求事項は、庁内でも官邸内でも、全く検討されていなかった。そもそもそんな要求があったこと自体、黙殺されている。誰もが、なかったことにしようとしていた。

 特環には、地上人類と異なる知的生命体が存在している。

 その可能性に向き合う事を、誰もが恐れていた。

 百合は自分の足元を見る。

 北総特環の深層は、ここまで広がっているはずだ。とすれば、『敵』がすぐ足元にいるのかもしれない。

 百合はぞくりとして、思わず足を浮かせた。

「……笑」

 笑に会いたい。今何をしているのだろう。どこにいるのだろう。なぜ、彼女の悩みをわかってあげられないのだろう。

「水留統括官」

 突然声を掛けられ、百合は驚いて振り返った。

「なんだ柏か。まだ帰ってなかったんだ」

「僭越ながら……」

 京子は表情の読めない顔で言った。

「市原主任は、優しい方です」

「…………」

「あの時、私を助けてくれたのは、市原主任じゃないかと思う時があります。あの声や口調は、主任のものとそっくりでしたから」

「あ、あの時って」

「その主任と、向き合ってあげていただきたいです。人類や、怪獣と関係なく」

「柏……?」

「では、失礼します」

 京子は一礼すると、そのまますたすたと行ってしまった。

「何だったんだ……?」

 百合は京子の発言の意図が分からず困惑する。

 その時だった。無線類からハウリングの音がして、突然沈黙した。先ほどまで映っていたテレビの画面も真っ暗になる。

「なっ!?」

 百合はスマホの画面を見る。圏外になっていた。

「ここは通信途絶圏外だぞ……」

『人類に次ぐ』

 無線から声がした。

 朝の時と同じ、笑の声だった。

『我々は要求している。我々の要求に答えないのならば、我々にも用意がある』

『18時までに結論を出すことを、我々は希望する』

『我々の要求が受け入れられない場合、我々は更なる行動に出る』

 それだけを伝えると、無線は何の音も出さなくなった。

「…………」

 周囲は騒然としていた。百合も呆然と立ち尽くすしかない。

「水留百合さんですね」

 声を掛けられた。

振り向くと、パンツスーツ姿の女性が立っていた。特に特徴のない顔で、面識はない。

「えっと」

「内閣情報調査室の佐藤と申します」

 佐藤を名乗った女性は名刺を差し出した。そこには確かに、「内閣情報調査室調査官 佐藤美咲」の文字があった。

「……何用ですか?」

「市原笑さんについて、お伺いしたいことがありまして」

「…………。今、忙しいんです。後で」

「あの声。私も初めて聞きましたが、市原笑さんのものですよね?」

「…………」

「ぜひ、お話聞かせて頂けませんか?」

 佐藤美咲は、柔らかな物腰だったが、有無を言わせぬ雰囲気でこちらを見た。百合は黙って頷くほかなかった。


「通信途絶圏は20キロまで拡大したみたいですね」

 シルバーのプリウスに揺られ、百合は美咲とともに都心に向かっていた。

 曇り空はますます暗くなり、今にも降り出しそうだ。

「この気温なら雪になりそうですね」

 ハンドルを握る美咲は、どこか楽しそうに言う。

「みんな都心から逃げ出したいけど、どこに行ったらよいのかわからないみたいです。首都高も外環道も、郊外につながる道路はすべて閉鎖されましたしね」

 百合たちは、車のいない首都高を走っていた。特別な許可のおかげで走れているのだという。

「こんなに空いてる首都高は初めてです。いつもこうならいいのに」

「笑のこと、どこまで知ってるんですか?」

 百合はしびれを切らして尋ねた。

 自動車に乗って数十分。美咲は一度も笑の話題を口にしなかったのだ。だが、黙って彼女の話を聞いているのは限界だった。

「どこまで知ってると思いますか?」

 美咲はからかうように答えた。

「質問に答えてください」

 百合が凄むと、美咲はくすくすと笑って言う。

「ではお答えします。あなたと交際している、怪獣人類の疑いがある女性というところまでです」

「…………」

「驚きましたか? でも、今回までの一連の獣害が怪獣人類の可能性であると唱えたのは元々貴女でしょう?」

「……笑が、そうだとは」

「気づいていなかった。でしょうね。貴女には市原笑の何かしらの術中にはまっていた可能性があります」

 百合は目を閉じる。

「……いつから?」

「これは機密事項ですが、環保の幹部になる人間は、一度ウチのクリーニングを受けているんですよ。貴女もです」

「つまり私の交際相手だから、露見したと」

「話が早い」

 特異環境保安庁が運用する武力は、純粋な火力だけで言えば自衛隊に匹敵するものだ。それゆえ、クーデターやテロなどを画策しないよう、幹部登用された人間は必ず思想や交友関係、家族関係が調査されるのだという。

「それで、笑が引っかかったんですか? うそでしょう。そんなそぶりや気配は」

「まったくありませんでしたよ。彼女の経歴は綺麗そのものでした」

「じゃあ、なぜ」 

「3月7日、湘南特環」

 美波は突然言った。

「7月23日、北総特環」

「何を」

「10月11日、奥秩父特環……。そして12月3日、渡良瀬特環。今年だけでも、市原笑が各特環に出張名目で立ち寄った日に限って、獣害が発生しているんですよ」

「そんなの……、偶然じゃないんですか?」

「我々は偶然という言葉を信じません。人間の行動には特に」

 美咲は冷静な口調で言う。

「そのうえ、市原笑の行動には謎が多かった。水留さん。あなた、今月3日の市原の出張理由、覚えていますか?」

「……現地特環の、視察」

「なぜ市原が行ったんです? せいぜい統括官室付の主任官じゃないですか、彼女は。一人で視察なんて行う立場じゃないですよね?」

「…………」

「不明瞭な理由による出張があるということで、会計検査院から通報があったんですよ、最初は。それから調べていくうちに、彼女と獣害がリンクしていることに気が付いたんです」

「なるほど」

「バカにしたような理由なのに、貴女も上官である東山首席官も判を押してある。北総特環全体が横領でも画策しているのかと思いましたが、出張は実際に行われ、出張先の各特環も特に何か言うことなく彼女を受け入れていました」

 百合は目を瞑って、シートにもたれる。

「怪獣人類には、相対した人間に何らかの暗示をかける能力があるようです。……何か思う所でも?」

 美咲が問う。

「別に、何も……」

「ま、あなたも恋心を操作されていたと知れば、それはショックですよね」

「…………」

 百合は何も言い返すことが出来なかった。

 自分はいつから、どこまで操られていたのだろう。その自覚すらない。美咲に指摘されるまで、至極当然のことと思い込んでいた。

 笑が出張に行くことも、笑と一緒に暮らしていることも、笑を愛していることも。

 だけど、それは作られた心なのか。

「水留さん、ショックなところ申し訳ありませんが、もうすぐ到着しますよ」

 車はインターチェンジを降りたところだった。交通規制が敷かれているのか、一般車両は端に寄せられ、他には一台も走っていない。

「この辺りは電波障害圏の外ですね」

 美咲はラジオをつける。

『繰り返しお伝えします。政府は13時50分、災害緊急事態を布告しました。また政府は首都大規模広域災害対策特別措置法に基づく全面交通規制を実施すると発表し、国民に対し、屋内に退避し、行政からの指示に従うよう呼び掛けています』

「これは大変ですね。史上初めての事ですし」

 美咲はどこか他人事のように言った。

「こんな大災害が、実は『攻撃』と国民が知ったら、どんな事態になるでしょうか」

 混乱の極みに陥るだろう、と百合は思う。

 怪獣人類の可能性を提唱した自分ですら、まだ心から受け入れられていないのだ。どんな事態になるのか、想像もつかない。

「つきました。降りてください」

 美咲が車をつけたのは、特異環境保安庁の本庁だった。

「取り調べですか?」

「ええ」

 美咲は頷いた。

「貴女には、知っていることを洗いざらい話していただきます。市原のほくろの数までね。そのうえで、市原笑との交渉を担っていただきたい」

「私も連絡はついていませんが」

「構いません。貴女以上の適任はいないと、こちらも踏んでいるんですよ」

 本庁舎の中も、あわただしい雰囲気に包まれていた。その中で美咲は、勝手知ったる様子ですたすたと歩いていく。

 案内されたのは、庁内でも最も奥まったところにある会議室だった。関係者以外立ち入り禁止と書かれた手書きの張り紙が、ドアの前に無造作に張られている。

 美咲はドアを開けた。

 中には散乱したコード類と、それらを接続している機械たち、そしてスーツや環保の制服、そして自衛隊の迷彩服を着た男女が数十人ほど作業をしていた。

 奥にはスクリーンが駆けられ、テレビ会議システムがつなげられている。画面の向こうにも、大勢の人間たちが右往左往しているのが見えた。

「交渉室です」

「交渉?」

「市原笑との回線が、唯一繋がっている場所なんですよ、ここ」

「っ!?」

 驚く百合をよそに、美咲が言った。

「水留百合さんを連れてきました」

 交渉室にいた全員がこちらを見た。不気味なものを見るような、何とも形容しがたい表情をしていた。

 百合は居心地が悪くなり、視線をずらす。

「アウェーですね」

「あまり気にしないでください。みんな気が立ってるんですよ」

 美咲が笑う。

「ではこちらへ」

 百合は無線機の置かれた長机に案内された。そこにあったパイプ椅子に座らされる。

「貴女にお願いしたいことはたった一つです」

 美咲は人差し指を立てて言った。

「PPIの噴霧開始まで、これ以上の『攻撃』を止めさせること」

「……要求を呑むことはないと」

「誰が呑むんですか、あんなの」

 美咲は鼻で笑う。

「我々には切り札があります、わざわざテロリストもどきの話など聞かなくてもいいでしょう。という上層部の判断です」

「PPIの噴霧開始まで、どれぐらいかかりますか?」

「必要量の確保に時間がかかっていますが、ひとまず今晩中には。特環研で大急ぎで製造中です」

「ではそれまで、これ以上電波途絶圏を広げたり、新たな攻撃を仕掛けないよう説得すればいいんですね」

「できますか?」

「出来るわけないでしょう」

 百合は思わず笑った。

「ここにいるプロの方々が出来なかったことですよ? 私はただの駆除屋だ。無茶を言わないでください」

「……一つだけ、わからなかったことがあります」

 百合の言葉を無視して、美咲は百合の顔面に顔を近づけた。

「なぜ市原笑は、貴女の恋人になろうとしたのか、です」

「は?」

「同性カップルという存在は、同性婚が法制化されたとはいえ珍しい存在です。しかし地下のスパイだった市原は、目立たないよう過ごす必要があるにもかかわらず、貴女のパートナーになることを選んだ」

「私が幹部保安官だったからじゃないんですか?」

「幹部保安官はあなた以外にも大勢いますよ。もっと高位で、より権限や抱えている機密の多い人間もね。中世じゃあるまいし、同性愛者であることが弱みになるわけでもないでしょう」

「あなたねえ!」

「ま、とにかく内調としては、市原笑が貴女に執着する理由が、何かしら存在していたのではないかと考えています。何に、というのはわかりませんが」

 美咲は微笑んだ。

「と、言うことで、市原笑が執着するあなたなら、交渉を優位に進められるんじゃないかと思っているんです。今までの交渉は全部失敗に終わっているので」

「…………」

「貴女の双肩に、この国の命運がかかってるんですよ?」

「……わかりました」

「ありがとうございます」

 美咲は慇懃に礼をした。

「この無線機は、スイッチを押せば市原笑と通じるようになっています。というよりそうさせられたという方が正しいですが……。とにかく、怪獣側とのホットラインです」

 百合は無線機に触れる。環保で一般的に使用されているものだ。マイクとスピーカーが別になっているタイプで、今、スピーカーは様々な機械に繋がれていた。

 百合はマイクの位置を調整する。

「では、いきますね」

「はい、お願いします」

 百合は無線機の通話スイッチを入れた。

「……笑?」

 無線の向こうに話しかける。

「笑、私。百合だよ」

 少しだけ間をおいて、返答があった。

『……要求を受け入れるのか?』

 相変わらず、笑の声だった。百合はマイクにしがみつく。

「ちょっとお話しよう。笑」

『要求受諾以外に話すことはない』

「ねえ笑、聞いて!」

 しかし、無線はぷつりと切れてしまった。

「……笑」

 百合は項垂れる。美咲は解析班に尋ねた。

「解析は?」

「発信元は南関東という所までは絞れましたが、それ以上は……」

「進展はなし、ですか」

 美咲もため息をついた。

「しかし取り付く島もありまえんでしたね。私情は挟まないということなんでしょうか」

「こんなもんでしょう」

 百合は諦めたように言った。

「笑は、私の事なんかどうとも思ってなかったんですよ」

「またまた」

 美咲は百合の言葉を笑い飛ばすと、資料を何枚か渡した。

「これ、一応今までわかっていることです。発信元は南関東と思われますが、基地局をいくつか経由しているらしく、今までの交信時間では詳細な位置を探るのが難しい状況です」

 他にも無線の周波数は交信の度に変わっていることや、こちらからの通信は自動的に接続されるよう調整されていることなどが書かれている。

「これでもかなり頑張った方なんですよ? どうも機械ではなく、生体的な電波を使用しているらしくて、既存の技術では解析がかなり難しいんです」

 そして百合の肩を叩く。

「こちらからの通話は、すべて向こうに届いています。返事があろうとなかろうと、呼びかけ続けてください」

「…………」

 百合は返事をしなかった。代わりに体を起こし、マイクのスイッチを入れる。

「……笑。こんなことはやめよう。みんな大変な目にあってる。だから……」

 百合は説得を続けた。だが、もう返事は来なかった。

 十分ほど一人で話し続けたのち、百合はマイクを切った。

「水留さん? まだまだ諦めるには早いのでは?」

 美咲が声をかけるが、百合は無視した。そのまま頭を抱えて俯く。

 百合は無力感に襲われていた。

 笑と交際して3年、同棲を始めて1年と少し。幸せな、良い関係を気づけていると思っていたのに、それが全てうそだったのだ。彼女が受けた衝撃とダメージは大きかった。

「なんでだよ……」

 百合の口から言葉が漏れる。

「ねえ、笑」

 百合は乱暴にスイッチを押すと、叫ぶ。

「笑! 全部嘘だったんでしょ! この感情も、言葉も、全部! なんでだよ、笑!!」

 返事はない。

「もう、やだよ……」

 ごお、という音が、スピーカーからした。

「笑?」

 美咲も首を傾げる。

「なに、今の音は」

「か、解析します!」

 解析班が動く中、百合には一つ、心当たりがあった。

「風の音……」

「わかるんですか?」

 笑と一緒に行った場所。思い出の場所。

 東京湾アクアライン『海ほたる』で聞いた風の音だ。

「……足を貸してください」

 百合は立ち上がると、美咲に迫った。

「できれば二輪車を。すこし出かけてきます」

「どこへ? お連れしますよ」

「……言えません」

 その言葉に、美咲が顔をしかめる。

「それは困りますね。貴女はご自身の立場をご理解していないのですか?」

「笑が呼んでいるんです。行かせて頂きたい!」

「駄目です」

「佐藤さん!」

「これ以上言うようでしたら、調査官の権限でもってあなたを拘束します」

「……くっ!」

 百合は踵を返すと駆けだした。

「捕まえて」

 美咲は冷静に指示する。それに弾かれるようにして、部屋にいたスーツの男たちが百合を追った。

「くそ!」

 部屋を出たところで、百合は簡単に捉えられる。男たちは次々と馬乗りになって、百合を拘束した。

「困りますよ水留さん。そんなことされちゃあ」

 美咲は地面に押し付けられた百合の元へゆっくりと近づく。

「場合によってはこの場で逮捕することだってできるんですよ? お覚悟を」

「…………」

「筑波より緊急電!」

 オペレーターが叫んだ。

「特環研で火災が発生しました! か、怪獣の襲撃を受けた模様です!」

「なに!?」

 美咲は叫んだ。

「観測カメラの映像、出します!」

 スクリーンに映像が投影される。映し出されたのは、轟々と黒い煙を吐き出す、平たい建物だった。煙の中に、蠢く巨大な生き物の姿がある。

「エンマモグラ……」

 百合は呟いた。

 炭酸マギウムで構成された非常に硬い装甲を持つ、モグラ型怪獣の一種だ。大きなものでは20メートルほどになる。

 特環を覆うマギウム層を破って、特環孔のない地域にも出現することもある、獣害被害の多い種でもあった。

 だが今出現したエンマモグラは、もっと大きいように見える。エンマモグラは踊るように、研究所を破壊していた。

 美咲はうろたえて尋ねる。

「じ、自衛隊は何をしているの!?」

「現地の警備に当たる部隊は、研究所内に危険な薬品が保管されているため、重火器類は持ち込んでいないと」

「なんで……」

 美咲は天を仰いだ。

 筑波にある国立特環研究所には、PPIを生産する設備がある。当然、狙われる可能性があると、自衛隊が警備のため出動していた。

 だが、怪獣駆除に有効な重火器は持ち込んでいなかったらしい。

「自衛隊に市街地での重火器を用いた怪獣駆除は難しいでしょ……」

 捕えられながら、百合はため息をついた。

 環保が出払っているが故の措置だろうが、自衛隊の力を過信しすぎた官邸らしい考え方だ。と百合は考える。

 PPIを使用した駆除に暗雲が立ち込めていた。開発されたばかりの新薬だ。他の施設で代わりに生産、というのも難しいのだろう。

「……佐藤さん」

 暗い雰囲気が漂う中、百合は美咲に向かって挑戦的に笑った。

「私を行かせてみませんか?」

「なんで……」

「笑は私にメッセージを残した。私に、だよ。もしかしたら、何かしら解決の糸口がつかめるかもしれない。駆除が絶望的になった今、少ない可能性にでもかけるべきじゃない?」

「…………」

 美咲は悔しそうに唇をかむ。そして少し考えてから、しぶしぶ頷いた。

「水留さんを放してください」

 男たちが百合から離れる。美咲は百合にヘルメットを差し出した。

「駐車場に、陸自の偵察用オートバイが止まっています。それを使ってください。鍵はかかっていないので、どれでも好きなものを」

「感謝します。佐藤さん」

「……本当に、頼みましたよ?」

 美咲の言葉に、百合は黙ってうなずくと、会議室を出た。


 百合は車が一台もいない高速道路を飛ばす。ちらちらと雪が舞い始めている。

 街にはサイレンの音が響き、賑わいを見せる東京は、ひっそりと静まり返っていた。

 私は、どうしたいんだろう。

 百合はふと考える。

 笑と会って、獣害を止めるよう説得する。本来はそうすべきだろう。自分はそのために、今ここを走っている。

 だけど。

 本当にそうなのか?

 笑と会って話したいことは、本当にそれなのか?

 違う。

 百合はアクセルをふかして、スピードを上げる。

 笑に伝えたいことは、そんなことじゃない。

 本当に愛してるのかとか、愛してたのかとか、怪獣とか、人類とか、そんなことはどうでもいい。

 操られてもいい。洗脳されててもいい。

 私はただ、笑と一緒にいたい。

 百合の心の中は、それだけだった。

 30分ほどで東京湾アクアラインを通り抜け、百合は人工島『海ほたる』へとたどり着いた。

 海ほたるは東京湾を横断するアクアラインの中ほどに作られたパーキングエリアだ。観光地としても人気があるが、今は鳥一匹いなかった。

 百合は駐車場にバイクを止めると、展望台へと駆けあがった。

「……笑」

 そこに笑はいなかった。代わりに、一匹の怪獣がいた。

 北総特環に現れたのと同じ怪獣。のっぺらぼうの巨人だ。巨人は展望台に立って、じっと百合を見下ろしていた。

「笑なの?」

 百合は怪獣に近づく。怪獣はまったく動かない。

「……よし」

 一歩、また一歩と慎重に距離を縮める。そしてとうとう、手を伸ばせば触れられる距離まで近づいた。

「ねえ、笑」

 百合は見上げて語り掛ける。

「笑と、話がしたいの。たくさん、伝えたいことがあるんだ。聞きたいことだって、いっぱい……」

 怪獣は足元を、百合を見た。

「怪獣とか、人類とかどうでもいい。私は笑と、話したい」

 百合は怪獣に触れた。ゴムのような質感が手のひらに伝わる、と同時に、百合の視界が真っ白になった。

「……笑!」

 気が付けば、百合は白い空間の中に浮かんでいた。百合は何も身にまとっていない。くるくると周りを見ても、誰も、なにもなかった。

「笑! いるの!?」

 叫ぶ。声がこだまする。

「……百合」

 笑の声がした。

「笑!」

 百合は白い空間を泳ぐ。

「……こっち」

 振り向くと背後に笑がいた。笑もまた、何も身にまとっていなかった。

「笑……」

「百合」

 いつもと同じ姿の笑だ。百合は抱き着こうと腕を伸ばす。だが、笑がそれを拒否した。

「私は、貴女に抱かれる権利はない」

「……ねえ、笑。笑に色々、聞きたいことがある」

 百合は伸ばしかけた腕を引っ込めた。

「まず、笑は怪獣、なの?」

「うん」

 笑は頷いた。

「あなたたちが言うところの、怪獣人類。特異環境内で進化した、知的生命体」

「……そう、なんだ」

「私たちは波に干渉する能力がある。怪獣の脳波に干渉して使役したり、電波を止めたりする。今やってるのが、それ」

「じゃあ、これが笑の本当の姿?」

 この質問には、笑は否定で答える。

「ううん。この子は、奥に住む怪獣。電波を操る能力があるから、私たちの能力と掛け合わせて、より強い妨害電波を出してもらってるの」

「そう、なんだ……」

 百合は少しすっきりしていた。

「直接笑の口から聞けて良かったよ。今までの獣害を起こしたのも、笑なの?」

「……うん」

 笑は俯く。

「怪獣は、子を守る本能が強い。だからそれを利用して、獣害を引き起こせないか模索していた。電波を用いて操る方法は『大獣害』を引き起こすには難しいから」

「じゃあ、今も」

「もし、あなたたちが私たちの要求を受け入れないのだったら、関東をブラックアウトさせたうえで、怪獣を進撃させる予定。これが、私たちの計画」

 そんなことになれば、未曽有の大獣害となるだろう。何百万という住民の命が危険にさらされる。

 だが、百合の口から出た言葉が謝罪だった。

「……ごめん、笑」

「なんで百合が謝るの?」

 笑は悲しそうに笑った。百合は目を伏せる。

「私、笑のこと何にもわかっていなかったから……。笑が、怪獣だってことも、笑の悩みも、目的も、全部、全部」

 百合はこぶしを握り締める。

「だから、笑に謝りたかったの。それで、やり直したかった。もう一度、一から……!」

「それは無理よ、百合」

 笑は首を横に振った。

「なんで!」

「……私たちは、人間と怪獣は、一緒に入られない」

笑は静かに言う。

「いずれは、そうなる運命だったんだと思う。仕方のない事なんだって、私は思う」

 笑は微笑んだ。

「私も、百合と一緒にいたかった。二人で過ごした日々は、人生で最良の贈り物だった」

 そして百合の手を取る。

「私の能力はね、ほんの少し、人の判断に介入すること。それを使って、私は地上で色々なことをした。獣害を引き起こしもした。それは、貴女からしたら、許されないことだと思う」

「……でも」

「いいの、許さなくて。許さない貴女だから、私は好きになった」

 笑は続ける。

「まっすぐなあなたが好きだった。優しいあなたが好きだった。不器用なあなたが好きだった。百合の全部が、私は大好きだった。だから、私の事は忘れてほしい」

「忘れない!」

 百合は叫ぶ。

「何勝手に終わらせようとしてんだよ! まだ続いたっていいじゃん! わがまま言ったっていいじゃん! 何諦めてんの!!」

 百合は笑の体を抱きしめた。

「絶対離さない! 忘れない! 私は諦めも意地も悪いんだ! 絶対に連れて帰る!」

「離して! 私はそっちには行けないの!」

「うるさい! うるさいうるさい!」

 そう叫んで、笑の胸の中に顔を埋める。

「なんで……、だよ。私はただ、好きな人と一緒にいたいだけなのに……」

「百合」

「怪獣とか、人類とか、全部どうでもいいんだよ。笑と一緒にいたい、ただそれだけなのに……」

「ねえ、百合」

 笑は語り掛けるように口を開く。

「私もね、貴女と一緒にいたい。貴女と一緒にいられる未来に、駆けてみたい。……でも、私はみんなを守らなきゃいけない。だから」

「創るよ」

「え?」

「やればいいんだろ」

 百合は顔を上げた。

「創るよ、そんな未来、私が」

「創るって」

「人類と、怪獣が共存できる、そんな未来を、私が作る。納得させてやる。従わせてやる。だから……」

 百合は、まっすぐ笑を見つめた。

「私を、信じて」

「…………」

 笑は泣きそうな、嬉しそうな顔で、百合を見る。

「信じても、良い?」

「ありがとう」

 笑はそっと百合を押し出す。そして祈るように両手を組んだ。そして唱える。

「我々は、一にして全。全にして一。我々の命運は、我々に託される」

 そして目を開けると、微笑んだ。

「少しだけ待つね。百合を信じて」

「任せて。絶対に。絶対にやってやるから」

「……待ってる」

 笑の姿が薄くなる。百合は一瞬だけ目を瞑って、それから大声で叫んだ。

「待ってて!」

 気が付いた時、百合は海ほたるの展望台に倒れていた。

 周りを見ても、怪獣の姿はない。足跡だけが残されている。

「笑……」

 スマホが震え、着信を知らせる。慌てて画面を見ると、電波が通っていた。電話は知らない番号からだった。

「はい、水留」

『佐藤です。ご無事でしたか』

「ああ、佐藤さん」

 電話の相手は美咲だった。

 美咲は嬉しそうに言った。

『怪獣はすべて特環内に戻っていきました。貴女、何をしたんですか?』

 それに、百合は少しだけ考えて、静かに答えた。

「約束、です」



 怪獣警報は解除され、日常が帰ってきた。

 とはいえ、未曽有の大混乱を生み出した獣害だ。そう簡単に幕引きとはいかない。

「防災大綱の基本的対処方針は撤回されたそうだね」

「仕事を終えて帰ってきた人間に、最初に言う言葉がそれなのか、飛鳥は」

 百合は隈の濃い顔で、飛鳥を睨んだ。

 百合は獣害終息後、ほとんど一週間、本庁に泊まり込む羽目になった。取り調べに次ぐ取り調べ、会議に次ぐ会議が、彼女に帰宅を許さなかったのだ。

 ようやく北総特環事務所に帰り着いた時、時刻は真夜中に差し掛かっていた。

「まったく、一週間ぐらい休みを取りたい気持ちだよ」

「またまた。働き足りないという顔をしているよ。久しぶりに見たな」

「……そう」

「話には聞いてるよ。対処方針を撤回させたのは君なんだろ?」

 PPIを用いた積極駆除の方針は、表向きPPI製造が獣害によって頓挫したことで撤回された。元々製造に多額のコストがかかるうえ、量産性に難があった薬剤だ。予算獲得のため強引に動いていた特環研への反発もあり、百合の工作の結果、基本的対処方針は今までの消極駆除を維持することに決まったのだった。

「ま、私には切り札もあるしね」

 カードを投げる動作をした百合に、飛鳥は呆れながら言った。

「怪獣人類とのチャンネルを切り札に使おうという豪胆さは見習いたいね。普通ならパーシされるところだよ?」

「そこは組織の恐ろしくも面白いところだよね」

 積極駆除の撤回は、百合が持ち帰った怪獣人類に関する情報によるものも大きかった。いまだ正体不明の存在を敵に回せるはずもなく、また事態は環保の扱える範疇を大きく超えた問題になったのだ。場合によっては国際的な問題にもなりかねない。

 すでにアメリカなどの一部の国は、怪獣人類の存在に感づいたらしく(先の獣害では在日米軍施設も大きな被害を受けたため、当然と言えば当然だろう)、外務省をはじめとする外交当局は対応に追われている。

 しかし現在に至るも、国民には怪獣人類の存在は公開されていない。官邸内で今後どのように取り扱うかを話し合っている最中だという。結論が出る見通しは、今のところ立っていない。

「現生人類以外の知的生命体が、地球に存在するかもしれない。このことが世界に与えるインパクトは大きいからね。上も頭を抱えているみたいだよ」

「そりゃ戦争になりかけたんだからねえ。果たしてこれからどうなる事やら」

「それは偉い人が考えることさ、そして私たちがやることは決まった」

 百合は背負っていたリュックサックの中から、分厚いファイルを取り出した。

「色々頼んだよ、飛鳥。笑を迎えに行かなくちゃいけないから」

「……なるほど」

 ファイルには秘匿の判が押されていた。表題は『特異環境知的生命体探査を目的とする深部特異環境有人調査計画』。

「笑の、怪獣人類との接触は、いまだ私一人しか経験がない。ゆえに判断材料が足りない状態だ。だから、深部調査を提案し、認められた」

「この混乱に乗じてか、やるね」

「すべての特環から調査隊を出して、可能な限り奥まで探索する。怪獣人類、もしくはその痕跡を見つけ出すのが目的」

「なかなか難しいと思うよ? 科学的観測が始まって150年、今まで一度も見つかってないんだから」

「まだ150年。これからいくらでも新発見なんてあるさ」

 それに、と百合は続けた。

「必ず探し出すんだ。笑を。そして、約束を果たす。私はそう誓った」

 百合は窓の外から特環孔を見つめた。

 破壊された特環孔を再び塞ぐべく、証明をつけて工事が進められている。だが、まだ黒い穴がぽっかりと浮かんでいる。

 その奥に、百合は、笑の姿を見た気がした

「待ってて、笑」

 穴に向かって、愛する人に向かって、百合は呟いた。


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百合と怪獣 徒家エイト @takuwan-umeboshi

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