誓い
「それ、わたしに?」
待ち合わせ場所に着くと、拓海が小ぶりなサイズの花束を抱えて待っていた。
赤い
「ちょうど花屋の前を通ってね。君に似合うと思って」
「うれしい。実はわたし、いちばん好きな花が薔薇なの」
麗子は花束を受け取ると二人して歩き出した。
金曜の夜だった。麗子にとっては、今日は仕事帰りという設定だ。拓海には、虎ノ門にある会社で事務の仕事をしていると伝えてあった。実際、以前少しばかり勤めたことのある知人の会社だったので、仕事の話を振られても難なく返すことができた。
二人して向かっていたのは、拓海が推すイタリアンの店だった。待ち合わせた駅から、七、八分ほどの場所にあるとのこと。談笑しながら歩いていていると、横に長い、古びた建物にたどり着く。白い外壁の二階建ての建物で、二階部分は居住用らしく、道路に面した一階部分にいくつもの店舗が入っていた。目的のレストランは、そのうちの一つだった。隣は雑貨店のようだ。拓海が開けてくれたドアを抜けて麗子は店内に足を踏み入れる。
週末の夜とあって、店内はほぼ満席だった。照明がぐっと落とされていて、大人の雰囲気を醸し出している。拓海の勧めるだけあって、いい感じに小洒落た店だった。
奥の席がリザーブされていた。テーブルには白いクロスが掛けられていて、中央にはキャンドルが灯っている。隣の席とは
メニューを見て、とりあえず赤ワインとピザを注文した。ワインはすぐに運ばれてきた。「お疲れさま」と互いにグラスを合わせた。
軽い会話を交わしていたところで、頼んだピザがやってきた。会話を一時中断して、熱々のピザをさっそく口に運ぶ。とてもおいしかった。自然と幸せな気持ちになっていく。拓海とピザの味を絶賛し合う。さすが店内の窯で焼き上げているだけあって、デリバリーするピザとは味がまったく違う。薄い生地のピザはすぐに食べ終わり、別の種類のピザを追加で注文した。
いつものように会話は弾んだ。まずは先日の舞台について互いに語り合った。麗子が印象に残ったシーンを話すと、拓海は嬉しそうに、そのシーンの考察などを語って聞かせてくれた。それから共通の趣味である映画の話題に移り、しばらくしてまた舞台の話に戻った。麗子は拓海から、次回作の構想を聞かせてもらう。先日、演出家と脚本家を交えて三人で打ち合わせをしてきたらしいが、半年後の上演を目指しているとのことだ。麗子は次の舞台も観にいくことを約束した。
ワインを何度かおかわりして、ほどよく酔いも回りはじめたところで拓海が聞いてきた。
「麗子さん。前の飲み会のときにも聞いたけど、本当に付き合ってる人、いないの?」
「ええ、いないわ。しばらくフリーで、デートらしいデートもずっとしてないわ。拓海さんは、いるの?」
「いないよ。この前、言わなかったっけ?」
「ええ。でも、いそうに見えるけど」
「そうかな?」
「そうよ。逆にいないほうが不思議なくらい。背が高くて清潔感もあって、優しくて気遣いもできて、それにこういうお洒落なお店も知ってるし。間違いなくモテると思うわ」
「そんなことないって」
拓海が照れ笑いを浮かべて謙遜する。
ここで、スーツ姿の団体客がやって来て、店内がいくらか騒々しくなった。
「麗子さん、時間はまだ大丈夫?」
「ええ。わたしは平気よ」
麗子は時計を見て答えた。
「なら、店を変えない? ちょっとここ、うるさくなってきたからさ」
「そうね。別のところで、飲みなおしましょうか」
拓海に連れられて小さな雑居ビルに入っているバーに足を運んだ。今までいたイタリアンの店から数分ほど歩いた場所だった。
店内は割と手狭だったが、真新しい高級な調度品でまとめられていて上質な空気が流れていた。ディナーデートの締めにぴったりの場所だといえた。
二人してカウンター席に座り、麗子はマティーニを頼み、拓海はバーボンを頼む。手早く用意されたグラスを軽く合わせて乾杯した。
「いい感じのお店ね」
麗子は店内を見回して言った。
「ここもお気に入りの店なんだ。たまに来るんだけど、ここに来ると、リセットされるっていうか、リフレッシュされるっていうか、心が整っていく感じがするんだよね」
「わかるかも。こういう高級そうなお店って、背筋を伸ばしてくれるものね。大人の
「そう、それ。まさに大人の嗜みってやつなんだよ。学生がこんな店に来ても、身の丈に合わないと思うんだよね。だからここは、大人のための空間なんだよ」
「そうね。確かに、大人のための空間ね」
しばらく店内に流れているジャズに耳を傾けた。こういう落ち着いた空間は会話を必要としない。無言の時間が気詰まりにならず、むしろ心地よかった。
麗子はカクテルピンに刺さるオリーブを口に含んだ。
拓海が空いたグラスを見て、おかわりは、と聞いてくる。麗子は同じものを頼んだ。
新しいグラスが置かれたところで、拓海が大きく身を寄せてきた。額が触れ合いそうなほどの距離。彼の体温が伝わってくる。この距離感、嫌いではない。
拓海が静かに口を開く。
「ぼくら、まだ数回しか会ってないけど、ぼくは君に、すごく親近感を感じてるんだ」
「わたしもよ」
「趣味も近いし、君となら、何時間でも話していられる」
「そうね。話は尽きないわよね」
「君といると、一瞬たりとも退屈するようなことがない。それに君といっしょにいると、本当に自然体でいられるんだ。わかるかな、この感覚? 二人で一つというか、二人でいることが、とても自然なことのように感じられるんだ。何年も前から親しい間柄だったんじゃないかって錯覚するくらいにね」
拓海はここで、こちらの手を握ってきた。
そして、真剣な顔つきで言った。
「あの写真展で、初めて会ったときから君に惹かれてたんだ。気づくといつも、君のことばかり考えてしまうんだ——。麗子さん、よかったらぼくと、付き合ってくれないかな」
麗子は相手の目をじっと見つめた。
それから、目元に笑みを浮かべて言った。
「ええ。こんなわたしでよければ」
拓海の顔がぱっと輝き、顔をさらに寄せてきた。
「ありがとう」
「実はわたしも、会った瞬間からあなたのことを強く意識していたの」
拓海が握った手を離さずに言ってきた。
「今夜はずっと、君といっしょにいたい」
「ええ。わたしもよ——」
ホテルの部屋に入るなり、互いの体を
ベッドの上で死んだように横になっていると、髪が優しく撫でられるのがわかった。
まどろみから目を覚ます。拓海の端正な顔が目の前にあった。
「寝てた?」
「ううん。少しウトウトしてただけ」
「何か飲む?」
「ありがとう。でも今はいいわ」
拓海はなおも、こちらの髪を優しく撫で続けてくれている。どうして女子という生き物は、こうも男性から頭を触られることに弱いのだろう。しだいに従順な気持ちになっていくのがわかる。目を閉じて、彼の手のひらから伝わってくる微細な刺激に身を委ねる。
麗子は目を開けると聞く。
「ねえ、拓海さん。わたしのどこに惹かれたの?」
拓海は、少し考えるそぶりを見せてから答えた。
「雰囲気、かな……。君のどことなく物憂げな雰囲気に、ぼくは強く惹かれたんだ」
「じゃあ、顔だけじゃないのね?」
「ああ、もちろんだよ。ぼくは外見だけで人を判断するような男じゃないからね。もちろん君はとても美しい顔立ちをしているけれど、それ以上に、ぼくは君の知的な雰囲気に心惹かれたんだ」
麗子は少し間を置いてから聞く。
「それじゃあ拓海さんは、わたしの外見じゃなくて、中身を認めてくれたってことよね?」
「ああ。その通りだよ」
「拓海さんは、わたしの内面を愛してくれてるのよね?」
「ああ、そうだよ」
麗子はここで、いったん視線を外してから、真剣な表情を作って拓海の顔を見据えた。それから声のトーンをいくらか落として、一語一語区切るように言った。
「もしもよ、もしもの話だけど、わたしが事故かなんかで、顔がめちゃくちゃになったとしても、わたしのこと、愛し続けてくれる?」
拓海は一瞬、動揺したように固まった。だがすぐに、力強い声で答えてくれた。
「愛し続けるよ」
「ほんとに?」
「ああ、本当さ。ぼくはどんなことがあろうと、君を愛し続けるよ」
「うれしい!」
麗子は拓海に唇を押しつけた。
濃厚なキスのあと、麗子は相手の目をじっと見据えて言った。
「拓海さん、もう一度聞くけど、わたしにどんなことがあっても、本当に愛し続けてくれるのよね?」
「ああ。約束するよ」
「ううん、誓って。どんなことがあっても、私のこと愛してくれるって」
「わかった。誓うよ。ぼくは君にどんなことがあっても愛し続けると、ここに誓うよ」
今度は拓海のほうから唇を寄せてきた。
子宮はすでに、彼を受け入れるべく潤っていた。相手はそれを嗅ぎつけたようで、すぐに再び一つになった。絶頂はすぐに押し寄せてきた。
頭の中がまっ白になっていくのを感じながら、麗子は拓海の背中に、強く自分の爪を食い込ませていった——。
* * *
あれから三か月が経った。
交際は順調だった。拓海とは趣味も合い、いっしょにいて退屈することがなかった。何より、体の相性がよかった。
彼は前戯にたっぷりと時間をかける。こちらが充分な受け入れ態勢が整うまで、充分に時間をかけて愛撫してくれるのだ。理想的ともいえる献身的なセックスが、彼の魅力の一つだった。そこだけ切り取ってみても、簡単には手放したくないと思えてしまう。
拓海のように、女性側の反応を確かめながら、優しく攻めてくれる男は稀だ。世の中、ルックスのいい男はいくらでもいるが、セックスが上手な男は限られてくる。ほとんどの男がAVが教科書になっていて、自分本位の乱暴なセックスが常識だと思っている。腰を早く強く動かせば相手が喜ぶと本気で信じているのだ。
拓海には夜の営みも含めて、これから先、長く付き合っていけると思える条件が揃っていた。そろそろ、例の儀式を行ってもいい頃合いだ——。
麗子はリムジンの後部座席から声をかけた。
「沢尻さん、例のあれ、そろそろ準備してくれる?」
「承知しました」
〝例のあれ〟ですぐに伝わった。あとはタイミングを見て、沢尻に決行日を伝えればいいだけだ。
「それと沢尻さん、今から銀座に向かってもらえる? 急にあそこのお寿司が食べたくなっちゃった」
「かしこまりました」
沢尻がウインカーを出して車線変更していく。
彼の運転には淀みがない。職人技と言ってもいい。きっと、彼も拓海と同じように、ベッドの上で、女を喜ばせることができる人種に違いなかった。
麗子はハンドルを握る沢尻の指先を見て、拓海との交わりを思い出すのだった。
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