第37話 君を助けたい

 冷え切った夜風の中で未来は茫然と立ちつくしていた。なにもかもが失敗だった。長い放浪の末に、ようやく天使を見つけて舞い上がったものの、それは哀れな道化のダンスに過ぎなかった。

 うつむき、肩を落とす。あまりにも自分が惨めな気がした。涙はもとより、自嘲の笑みさえこぼれてはこない。

 そんな彼女に昴は真っ直ぐな視線を向けてくる。その手の中で金色の鎌が鈍い光を放っていた。

 それで自分の首をはねるならそうすればいい。

 戦う手段も力も残ってはいたが、もはや生きる気力もない。ここですべて終わるなら、それがいっそ楽だ――未来はそんなことさえ考えはじめていた。

 しかし昴が口を開いたとき、そこから発せられた声は、未来の予想に反して穏やかなものだった。


「未来」


 名を呼ばれて顔を上げたとき、昴は未来に向けて真っ直ぐに手を差し伸べていた。


「な、なに?」

「迎えに来たんだよ」

「え?」

「待ってるって言われたからな」

「な、なにを言って……」

「君を助けたいんだ」

「助け……?」


 昴の顔には、ふざけているような様子は微塵もない。柳崎はやや意外そうな顔をしていたが、それでも由布子とふたり、事の推移を静かに見守っている。


「な、なにを言ってるの? ……正気? わたしは敵なのよ? あ、あなた、頭が変になったんじゃないの?」


 未来は激しく動揺していた。なにもかもが失敗に終わり、死すら覚悟したというのに、この状況はなんなのだ? 自分の中で渦巻く感情の正体さえわからなくなり、せめて罵倒しようとして発した声も弱々しく震えている。

 そんな未来に向かって昴は穏やかに言葉をかけてくる。


「未来、君はこの世界が好きだって言ったよな」

「……ええ」


 少しの間を開けて、未来は疲れた顔で頷いた。


「好きなら、なんで壊そうとするんだ?」

「だから言ったでしょ。いつか誰かが壊してしまうとわかりきってるなら、いっそ自分の手でって思ったのよ……」

「おかしいだろ、それは。大切なら普通は傷つけるどころか守ろうとするものだ」

「そんなふうに思えるのは、あなたが幸せな人だからよ」

「そうだな。そして君は少なくとも今は不幸せだ。喪失感が胸を埋め尽くして、どこに向かえばいいのかさえ、判らなくなってるんだ」


 決めつけるように言う昴を未来はキッと睨みつけた。


「あなたに、わたしの何がわかるって言うの!?」


 拒絶の意思に満ちた突き刺すような鋭い眼光を向けても、昴は視線を逸らすことなく見つめ返してくる。


「君は世界が好きだと言った。だけど、そう感じられたのは、まだ君が幸せだった頃だ。だから君は、そこから先の世界を認めたくないんだろう」

「そんなこと……」


 否定しようとして、だけど未来にはできなかった。これまで自分でも理解していなかった自分の歪みを、見事に言い当てられた気がした。


「そういう気持ちを俺は知っている。俺も君と同じように感じたことが確かにあったんだ」

「あなた……が?」


 仲間が居て、友達が居て、愛する少女までそばに居て、未来とは異なり幸福そのものにしか見えなかった、この少年に、そんな経験があるようにはとても見えない。


「ガキの頃の話だ。俺はいちばん大切だった人を怪物に殺された」

「え……?」

「その人と居る間、俺はその人を愛し、その人が愛するものを愛し、俺たちを取り巻く、この世界が愛おしいものに見えていた。純粋って言うより単純だったんだろうな」


 昴は相変わらず穏やかな表情を見せていたが、その瞳には確かに翳りがある。そんな目を未来はどこかで見た気がした。


「なのに、その人を失ったとき、俺はこの世のすべてがどうでもよくなってしまった。俺の命も、この世界も、なにもかもが本当に……どうでもよくなってしまったんだ」

「葉月くん……」


 未来は思った。同じだ。少なくともその気持ちは未来の中にあるものとまったく同じだ。でも、ならばどうして――

 うつむき、抑えきれない想いに、か細い肩を震わせる。


「どうして……。どうしてよ……」

「未来……」

「同じ痛みを知ってるなら! 同じ思いをした人なら! なんでわたしの気持ちをわかってくれないの!? なんでわたしを止める側になってるのよ!?」


 未来にはそれが、たとえようもなく理不尽なことのように感じられた。


「未来……」

「未来さん……」


 昴に重なるように、由布子もその名をつぶやく。

 その途端、未来は弾かれたかのように顔をあげ、怒りの形相で由布子を睨みつけた。


「そう、そうなのね。この女がいるから、新しく大切なものを見つけてしまったから――だからあなたには見えなくなったのよ! あの悲しみが! あの苦しみが!」

「それは違う」

「違わないわ! だってあなたは――」

「確かに俺は悲しみの先に、もう一度大切なものを見つけることができた。だけど、それで悲しみや苦しみが消えてなくなったわけじゃない。生きる理由を手に入れて、もう一度未来に希望を抱けるようになっても、この喪失の痛みだけは永遠に消えたりはしないだろう」

「だったらどうして、あなたは笑えるの? どうしてみんなにやさしくできるの? どうして、こんなわたしにまで……」


 未来が感情を爆発させても、昴は穏やかで澱みのない瞳を向けてくる。同じ痛みを背負っているというのであれば。この彼と自分の差はなんなのだろうか。怒りは次第に霧散し、惨めさと悲しみだけが未来の胸を締めつけていた。


「簡単なことだよ、未来。愛するものを失った悲しみや苦しみが消えないのと同じように、その人がくれた愛情も幸せも、誰にも消すことなんてできないんだ」


 その言葉は自分の価値観を押しつけようとするのでもなく、相手の価値観を否定しようとするのでもなく、ただ伝えるために紡がれていた。

 未来は彼の言葉に触発されるように、それまでずっと閉じていた記憶のふたを開く。

 温かな父と、やさしい母の姿。その声。そのぬくもり。かつて当たり前に感じていたくすぐったいほどの幸せが、胸の裡から噴き出していた。

 涙が後から後から溢れて止まらなくなる。


「ぜんぶ奪われた……失くしてしまった……残っているのは、ただの思い出……思い出だけじゃない……」

「それでも悲しみを感じている限り、俺たちは失ったものをまだ愛している」

「それだけで前に進めるの? 幸せの記憶から永遠に遠ざかり続ける未来に向かって? わたしには無理よ……」

「思い出だけじゃない。少なくとも俺は、その人からたくさんのものをもらって生きてきた。それは確かに記憶かもしれないが、その記憶が今ここに居る俺を形作っているんだ」

「わたしももらったわ……父さんや母さんから、たくさんもらった……。でも、だからこそ痛いのよ。この胸にポッカリと空いた痛みが、どうしようもなく、わたしを追い立てるの……」

「だから、俺たちはここに来た。君の胸の空隙を埋めるために。君の中に残っている温かな記憶を、ただの痛みではなくて君にとっての財産に変えるために」


 昴は今一度、未来に手を差し伸べた。その瞳には、かつて未来を愛してくれた人たちと同じ光が宿っているかのようだ。

 彼に寄り添うように立つ由布子も、空の戦いを眺めていた柳崎も、振り返って偽りのない笑顔を向けてくる。

 未来はまばたきすることさえ忘れて、差し出された手のひらをじっと見つめていた。

 その手に、おずおずと自分の手を伸ばしかけて、そこで躊躇する。

 彼の手は未来には眩しいぐらいに清らかで、汚れた自分にはそこにふれる資格がないように思えたからだ。

 涙を抑えることができないまま、俯いて告げる。


「ありがとう、葉月くん。でも、もう無理……」

「未来?」

「これまでわたしはたくさんの人を殺してきた。初めは身を守るためだったけど、いつの間にか殺すことを楽しんでさえいた。こんなわたしに、あなたの手を取る資格なんてあるはずがない」


 自分の小さな手を未来は見つめた。その白い手を今日まで幾度血に染めてきたのか。そうしなければ生きてこられなかったと理解しつつも、未来は今、初めてそれを後悔していた。あるいはもっと早く彼らに出会えていたなら自分は救われていたのだろうか。

 いや、違う。彼は間に合ったんだ。自分はこれで救われた。たとえ赦されない罪を背負っていたとしても、この心は救われたんだ。

 未来は俯いていた顔をあげると、その泣き顔をなんとか笑顔に変えた。無理やり浮かべた笑みでも、作り笑いとはまた違っている。なぜなら未来は今、本当に嬉しい気持ちでいっぱいだったからだ。


「ありがとう、みんな。わたしはもうじゅうぶんよ」


 心が敏感になりすぎて上手く喋れない。だが、そんな状態でしか言えない言葉もある。


「わたしにも大切なものができたから……あなた達のことが大切になっちゃったから……だから、もう大丈夫……」


 未来は由布子に視線を移して彼女に頭を下げた。


「ごめんなさい、高月さん」

「う、うん。もういいわよ。わたしは大丈夫だったし」


 怪物に殺されかけたり、さらわれたり、裸にされたりと散々だったにも関わらず、由布子は明るく笑いかけてくれた。それを見て、やはり敵わないと未来は思う。それでも、もう二度と会うことがないであろう人に最後の言葉を伝えようと決めた。


「ねえ、葉月くん。高月さんには、とてもかなわないけど……」


 たとえ叶わぬ想いではあっても、


「わたしもあなたが……」


 生まれて初めての恋を、


「あなたが好き……」


 言葉にしよう。

 それが――彼女の最後の言葉となった。

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