第2話 転校生

 新学期が始まって間もない四月の朝、葉月はづきすばるは学校へと続く長い坂道を自転車で軽快に駆け上がっていた。

 晴天の下、若々しい緑の葉が生い茂る木立の間を風を切って走るのは実に気持ちがいい。できることなら、この爽快感を同居人の少女や親友とも分け合いたかったが、彼らに言わせれば、こんなところを自転車に乗ったまま駆け上がるのは不可能ということだった。

 この道の終点に位置する陽楠ようなん学園は洒落た景観が「アニメや漫画に出てきそう」と好評だったが、いざ通うとなると毎日のように長い坂道を汗水たらして上らねばならない。

 そのため彼の友人は「俺が学校を拒んでいるんじゃない。学校が俺を拒んでいるんだ」などと言って、たびたびこの坂をサボりの口実として利用していた。

 学校をサボるかどうかは別としても、彼と似たような感想を持つ学生は多く、この坂に対する不満やぼやき声は年中無休で流れている。

 実際、自転車通学生の大半が坂の下に位置する、駅前の駐輪所に自転車を預けてから、徒歩で坂を上っていた。一部には、この坂道を駆け下りる快感に取り憑かれて、自転車を押して上がってくる者も居るには居たが、それも少数派だ。

 これほどまでに在校生の大半を苦しめている坂道だが、昴はまったく苦にしない。彼は昔から人並み外れた運動能力がある上、毎日のように身体を鍛えており、体力だけは有り余っていた。

 とはいえ彼はべつに筋骨隆々の大男ではなく、パワフルなスポーツマンにも見えない。手足はスラリと長く顔立ちも整っていて、秘かに女子に人気があるのだが、本人はまったく気がついていない。

 やがて坂の終端に校門が見えてくると、昴はそこまで一息に駆け上ってグラウンドの脇を通って自転車置き場へと進んでいく。

 本来ならば全校生徒の大半を占めるはずの自転車通学生に合わせて、二階建てになっているそこは、前述した理由からいつも閑散としていた。

 その短く急なスロープを一気に上って二階に上がると、なんとなく定位置にしている一番奥へと自転車を止める。

 自然に込み上げてくるあくびを堪えながら荷台から鞄を取り出すと、教室に向かって歩きはじめた。ここまでは何もかもがいつも通りの朝だった。

 平々凡々で退屈なぐらい平穏な日々は、凄惨な記憶を持つ昴としては歓迎すべきものだったが、やはり多少の物足りなさは感じていた。

 悲劇的なものなど求めるはずもないが、良い意味での刺激が欲しいものだ。

 それも贅沢だとは思いながら、どのみち今日もいつもと変わらぬ一日になるであろうことは疑ってもいなかった。

 ところが、この日は、いつもとは少々違うことが起きた。

 昇降口の前に見知らぬ女生徒が立っていたのだ。

 学校指定のものとは異なる地味なセーラー服を着て、飾り気のない黒縁眼鏡をかけている。長い黒髪を三つ編みにして背中に垂らし、手にしたスクールバッグにすら飾り気がない。まるで意図的に地味な印象を与えようとしているかのようだが、だとすれば、それはあまり上手くいっていない。

 凛とした顔立ちは美しく、抜群のスタイルと相まって隠しきれない魅力が全身からにじみ出ていたからだ。

 少なくともその容姿を見て心を惹かれない男子など、ほとんど居ないだろう。一目惚れするほどではなかったが、昴もまた少しばかり見ほれる思いだった。

 いったい誰だろうと考えるが、答えはだいたいひとつに思える。

 おそらく転校生だ。制服の違いもあるが、どこか道に迷っているような素振りが見て取れる。


「転校生か?」


 思ったままを口にすると女生徒はふり返って頷いた。


「ええ。今日来たところなんだけど、職員室はどこかしら?」


 美しい声が鼓膜を震わせた。ここまで完璧な美少女というものも、なかなかお目にかかれないだろう。もっとも、昴にとって最も完璧なのは記憶の中に居る人だ。

 だからといって別の美人を前にしてイヤな気がするはずもない。


「案内するよ。ほとんど通り道だ」

「ありがとう。編入試験のときに一度来たのだけど、職員室には入らなかったから」

「OK、ついて来てくれ」

「待って」

「うん?」


 呼び止められて肩越しに振り向くと、視線の先で彼女がくすりと笑った。


「自己紹介がまだだったわ。わたしの名前は――小夜楢さよなら未来みらい

「俺は昴。葉月昴だ」


 頷くと同時に笑顔で名乗り返したのだが、未来と名乗った少女は、なぜか戸惑ったような顔を見せた。


「えと……。わたしの名前を聞いて、素で流してくれた人は初めてなんだけど……」

「そうなのか?」

「普通に考えて嫌な名前でしょ? わたしの両親も何を考えていたんだかって、ずっと思ってたんだけど……」


 未来は困ったように笑うが、昴はそれにかぶりを振って答えた。


「いや、未来ってのはいい名前だと思うぜ。苗字は変えられないからしかたないけど、少なくともその名前には名付けた人の愛情が込められている気がするよ」


 未来は少しだけ驚いたような顔をして昴の顔をじっと見つめていたが、やがて、その口元にはにかむような笑みを浮かべた。


「ありがとう。そんなこと言ってもらったのは初めてよ」

「ただの素直な感想だよ。思ったままを言っただけさ」

「口が上手いのね。女の子の扱いが上手そうだわ」

「サンキュー。彼女居ない歴=実年齢だけどな」

「とてもそうは見えないわね」


 おどけたように言う昴を見て、未来はくすくす笑った。


「わたしは二年生だけど、あなたは?」

「俺も二年だ。二年D組」

「そう。同じクラスになれるといいわね」

「ああ」


 隣に並んだ未来とともに職員室に向かって歩き始める。

 彼女との出会いにときめきめいたものを感じたからというわけでもないだろうが、不思議と今日は何かが起こりそうな――そんな予感がしていた。

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