お姉さんとボクの、最後の夏

さすらいのヒモ

お姉さんと嘘つきなボクの、最後の夏

 暑い日だけど、去年を思えばまだまだ全然暑くない、そんな夏の日のこと。

 大きな野山の中に設立された自然公園で、四阿(あずまや)の一角でボクはお姉さんと向かい合うように座り込んでいた。ちょこんと座ったベンチの横には虫かごと虫取り網を置いて、ボクはいつものようにお姉さんのなんでもない話を聞いていく。

 この野山にはキャンプ地も併設されているほど巨大な自然公園で、少し奥まで行けば虫もよく見つかるために虫取り少年たちのメッカなのだ。

 その虫取り少年ではないボクだけど、この自然公園によく足を運んでいる。

 今年は中学受験のためにこの自然公園に寄ることも少なくなったけれど、それでも暇があればボクはこの自然公園に向かって、この四阿でお姉さんと話をするのだ。

 理由は単純。

 ボクはお姉さんのことが好きだからだ。


「昨日ね、少年が帰ってからのことなんだけど───」


 くせ毛一つないきれいな黒髪に麦わら帽子を被っているお姉さんは、ミンミンと短く鳴くセミをバックコーラスにしてそんなことを呟いた。

 ベンチに座っているお姉さんは、ここのところ毎日この公園に着ているというのに日焼け一つしていない真っ白な肌を、同じくらい真っ白なワンピースに纏っている。ボクはもうすでに黒のTシャツが湿り始めているというのに、お姉さんの肌には汗一つ流れていない。



「────少年とは別の男の子に、防犯ブザーを鳴らされたんだよ」



 そんな幻想的なお姉さんは、昨日警察沙汰を起こしかけたことをボクに告白してきたのだ。


「なんで?」


 ミンミン、と。

 他人事であるために必死に鳴いているセミの声に負けないように、ボクは大きな声で問い返した。


「よくわからないんだ」


 お姉さんは本気で落ち込んでいる。

 肩を落として、麦わら帽子でそのきれいな顔が隠すように俯いて、それでもうっすらと覗ける顔は憂いを帯びており、その表情によく似合った気落ちした声で、こんなきれいな人が言うとは思えない言葉を続けていく。


「私はいつものようにこのベンチに座って、元気に虫取りをしている男の子を見ていただけ……なのにね、そのうちの男の子が私のことをじぃっと見てたから、なんとなく手を振ったんだよ。だけどその子は、いきなり腰にかけてた防犯ブザーの紐を引っ張ったんだ。

 私、あんな大きな音なんて初めて聞いたなぁ。なんで、あの子は私を見て防犯ブザーを鳴らしたんだろう? ひょっとして、幽霊かと思われたびっくりしたのかな?」

「不審者だと思ったんじゃないかな」

「不審者!?」


 ガタリ、と。

 聞いた話ではお婆さんが外国人だったということで西洋のお人形さんみたいに整った顔が、間抜けにも思えるほど目と口を大きく開いた表情に染まった。

 こんな顔でもびっくりするぐらい綺麗なんだから、美人というものはボクのような普通の人間とは別の生き物なのだろうと感じてしまう。


「なんで!?」


 密かにお姉さんの綺麗さに嫉妬混じりに見惚れているボクに対して、お姉さんは先ほどボクが問いかけた言葉と同じ言葉を、だけど、全然違う感情が籠もった声で口にしたのだ。

 これが夏休みの前に習ったばっかりの、『同音異義語』というものなのだろうか。少し、違う気がするけれど。


「だって、お姉さんは何をするでもなくこの公園のベンチに座ってずっと男の子を見ていたんだよね」

「そうだよ。少年と出会ったばっかりの頃ぐらいの歳の男の子かな。元気いっぱいでセミを追ってて、可愛かったなぁ。思わず頬が緩んじゃってね。少年と初めて会った時にも思ったけど、あの年頃の子供って凄いよねぇ、一時間近く走り回れるんだから。もうすっかりおばさんなお姉さんには、到底無理なことだよ」

「一時間近く見てたんなら、お姉さんは不審者だよ」

「不審者!?」


 先ほどと同じ言葉を、やはり、先ほどと同じようにお姉さんは口を半開きにしてしまう。

 もしも同じ表情をボクがしたら、ボクに対してだけ非常に意地悪なワタルくんに向こう一年はこの馬鹿面に絡めた屈辱的なあだ名をつけられてしまうこと間違いない顔だ。なのに、お姉さんがするとまるで漫画の一コマのようなどこか様になった顔だから不思議だ。

 ボクはお姉さんのことが好きだけど、お姉さんのきれい過ぎるところはあんまり好きじゃない。ボクとは違う世界の人なんだと、嫌でも意識してしまうから。 


「例えば、お姉さんがお姉さんじゃなくておじさんだとするよね? おじさんが何をするでもなくこの四阿の中で、虫取りをする男の子をニヤニヤ眺めていたら、どう思う? ボクだってこの防犯ブザーを鳴らしてから、急いで自然公園の管理人さんのところに逃げていくよ」

「ニヤニヤじゃなくてニコニコって言ってね! で、でも私はおじさんじゃなくてお姉さんなんだよ!?」

「一時間もニヤニヤ見てたら、お姉さんでもおじさんになっちゃうってことじゃないかな。

 虫取りしている少年をニヤニヤと見ているお姉さんの正体はね、おじさんなんだよ。あそこの男の子に聞いてもいいよ。君はどう思う?」


 通りがかった少年がいたのでそんな言葉を口にする。もちろん、返してくれるどころか聞いているとは思わなかったため、そのまま気にも止めずに走り出すだろうと思っていた。

 なのに、虫取り網と虫かごを抱えた男の子はピタリと脚を止め、ボクとお姉さんをじっと睨むように見つめた。



「そんなやつ不審者だよ!」



 大きくそう叫んだ後に防犯ブザーを『ブブーっ!』と一度だけ鳴らして、すぐに再び栓をして音を止めると立ち去っていった。あの男の子の防犯ブザーは栓を差し直すことで音が止まるタイプのブザーのようだ。

 思わず、ポカンと少年の背中を見つめる。

 ミンミン、と。

 相変わらずボクとお姉さんには関係のないミンミンゼミだけが鳴き続けていた。


「おかしい……! こんなことは、許されない……!」


 ギシリ、と。

 たっぷり二分間は沈黙していたお姉さんは、歯を鳴らすように噛み締めながら重々しくそんな言葉を口にしたのである。

 そう。

 お姉さんは変態だ。

 同じぐらいの年頃の男の人でもなく、自分よりも年上のイケメンなオジサマでもなく、もちろん女の人でもなく、男の子が大好きなのだ。それを知り合って二年目の夏に教えてくれた。ボクは、お姉さんが男の子に恋をする変な人だと知ってショックを受けた。それから三日間この大好きな公園に近づくことをやめたけど、それでも、変態であるとわかってもお姉さんに会いたくてこの公園に来てしまった。

 ボクの初恋のお姉さんが、虫取りをしている少年をニヤニヤと見つめるのが趣味な変態さんなの、は受け入れたのである。


「うぇぇ……お姉さん、おじさんと同じだと思われる可能性があるんだ。どうすれば、お姉さんはおじさんに思われないで済むかな?」

「ジロジロ~、って男の子を見るのやめればいいんじゃないかな」

「男の子ウォッチングやめたらお姉さん死んじゃうよぉ!」

「じゃあ、おじさんに思われるのは我慢しなきゃ」

「おじさんは嫌だなぁ……」


 うんうん、と。

 羨ましいぐらい豊満な胸の下に両腕を潜り込ませる形で腕組みをして、考え事をしだした。

 本気で悩んでいるお馬鹿なお姉さんを見て、ボクは、日焼けしたうなじをポリポリとかいて諦めたように会話を続けることにした。


「つまりさ、お姉さんは理由がわからないから駄目なんだよ」

「……うん? どういうこと、少年?」

「お姉さんがなんでここにいるのかわからないから、その男の子は怪しんだんじゃないかな。この人は何かをしている人なんだなって思われたら、その男の子だって防犯ブザーを鳴らさなかったと思うよ」

「…………………ああ! なるほど! やっぱり少年は頭がいいねぇ!」


 お姉さんは頭が悪いもんね、と生意気な口を叩く『勇気』なんてボクにはない。そういった軽口を叩きあうことがコミュニケーションなのだと、お姉さんとは違ってボクそっくりな平凡なお姉ちゃんが言っていたけれど、そんなことをしてお姉さんに嫌われたらと思うと、口には出来ない。

 ボクだってボクに酷いことばかり言うワタルくんのことが嫌いなんだから、どこまでが軽口でどこまでが悪口なのかわからないボクがそんなことを言えば、お姉さんだって酷いことを言うボクのことを嫌いになってしまうはずだ。


「でも、どうすればいいんだろう……カメラとかかな?」

「それは怪しまれると思う、盗撮とか」

「じゃあ、バードウォッチングとか?」

「それも怪しまれると思う、盗み見とか」

「ええ~、じゃあどうすればいいんだよぉ~! 少年、なにか考えてよ!」


 麦わら帽子に白ワンピースなんて、それこそ選ばれた人にしか似合わないものを見事に着こなしている美人さんのくせに、どこか抜けているお姉さんはボクに抱きつくように縋ってくる。

 そのときにお姉さんの豊満なおっぱいがボクの体でムギュぅと潰れて、思わず胸が高鳴る。鼻孔にお姉さんの香りが匂い立ってきて、思わず頭がおかしそうになったのだけれど、その後にスンスンとお姉さんがボクの臭いを嗅いでいる気配を感じてスンとボクの心は収まった。

 お姉さんは変態だ。

 男の人ではなく、おじさんでもなく、女の子でもなく、男の子に興奮する。

 お姉さん曰く、ボクという素敵な日焼けをした少年に興奮しているのだ。

 ボクは、いつかお姉さんにとっての少年でいなくなる。

 それは絶対だ、覆しようのない現実なのだ。


「絵」

「うん?」

「絵を描いたら良いんじゃないかな。鉛筆でのデッサンでも良いから、風景とかそういうのを描いてたら、絵を描いてる人なんだなって思われるんだと思う」


 絵を描くお姉さんは、それこそ絵になるほどにきれいだろう。

 こんなことを言ってるけど、結局はボク自身が絵を描いているお姉さんを見たいだけなのだ。


「おぉ……おぉっ! さすが少年! 確かに、それなら怪しまれないね!」

「怪しまれる怪しまれないって言っちゃったね」

「いやぁ、頼れるものはインテリ少年だなぁ。ありがとうね!」


 お姉さんはこの青空に燦々と輝く太陽のような、素敵な笑みを浮かべてみせる。その顔はボクには眩しすぎて、思わず視線を反らしてしまう。


「……お姉さんって、本当に男の子が好きなんだね」

「そう! だから、少年のことも大好きだよ!」

「…………そっか、変態さんなんだね」

「ふごぉっ!? ちょ、直球で言われると……き、傷つく! 特に、少年みたいな中性的ショタに言われると、ぐぉぉ……!」


 ああ、言ってしまった。

 嫌われただろうか、変態なんて言われて悦ぶ人がいるとは到底思えない。

 お姉さんの顔が見れずに、ボクは逃げるように空を眺める。先程も言ったように、お姉さんは変態だけど太陽みたいに素敵な人だ。


「……ボクとは、違う」


 同じ変態でも、ボクはあんなに輝いていない。ジメジメとしてて、不快感だけを催すものだ。

 ボクはひょいとベンチの上から立ち上がって、ここから立ち去ることに決めた。


「帰るね」

「え、もう?」

「うん、宿題もしなきゃいけないし。じゃあね、お姉さん。素敵な男の子と会えると良いね」

「少年ぐらいの美少年はなかなか居ないからな~……お姉さんの精神安定のために、もうちょっと遊んでいかない?」

「今年、中学受験だから。塾がなくてもあんまり遊んでたらお母さんに怒られる」

「うへ~、インテリだ~。あの中学って制服は学ランなんだよね? 学ランの少年、見たいなぁ。この一年で馬鹿みたいに成長しなかったら、かなりいい感じの絵になると思うんだけど」

「……じゃあね、お姉さん」


 そんな会話をしながらも、中性的なんていう言葉だけがボクの頭をグルグルと回っていく。

 お姉さんは変態で、ボクも変態だ。

 ボクはお姉さんにとっての理想の少年では、もう居られなくなる。

 でも、お姉さんはいつまでもボクにとっての理想のお姉さんだ。

 それは、お姉さんはボクに嘘をついていないけれど、ボクはお姉さんに嘘をついているから。


 いつか言わなければいけないのだろう。

 ボクが着るのは学ランじゃなくてセーラー服なんだよ、って。

 お姉さんは男の子にしかそういう感情を抱かない変態だけど、ボクは女の人にしかそういう感情を抱けない変態なんだよ、って。


 変態っていったら、きっと怒られるんだろう。

 でも、ボクは女の子のまま女の人を好きになった。

 学校に通う時はスカートを履くようになったくせに、お姉さんと会う時は決まってズボンを履くボク。

 卑怯なボク、変態なボク、怖がりなボク。


 お姉さんはのんきに鼻歌を歌っている。

 成長が遅かったボクだけど、そろそろ胸が膨らんできた。

 今日のように抱きつかれたら、きっと気づかれてしまうだろう。

 予感がする。

 今までと同じ夏は、きっともう来ない。

 虫を追って、お姉さんと出会った夏から始まった、ボクの初恋。


 ミンミン、と。

 他人事にすぎないミンミンゼミの鳴き声だけが、今までもこれからも変わらないのだろう。

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