異変の始まり




 新年を迎え、里の共同風呂建設は順調に進み、そのお披露目から実に盛況な様子を見せていた。

 例年ならば静かに過ぎていく冬らしからぬ活発な様子は、これからの里の未来が明るくなるのではないかと期待を抱かせるようだ、と年寄衆は目を細めてその様子を眺めていた。


 しかしそんな穏やかな里の中とは打って変わって、里の外の様子は大きな変化を見せていた。




「――せああぁぁッ!」


 裂帛の気合と共に振るわれた刀が魔物を斬り裂き、その身から紫がかった血を噴き上げて刀の持ち主であるリクハルドの頬を染め上げる。

 しかしリクハルドはその血を煩わしげに拭うような素振りすら見せず、即座に周囲を見回した。


「チィ……ッ! アルノルド! 南西方面カバー!」


「応よッ!」


 叫ぶリクハルドの指示に、アルノルドが野太い声で応じつつ駆け出す。

 その先ではクレトとルカが魔物と戦っており、その横合いから今にも襲いかかろうと魔物が駆けて迫っていた。


 大地を蹴り、飛び上がる狼型の魔物。

 そのがら空きになった腹部に、アルノルドの手甲に包まれた剛腕が打ち抜き、成人男性程の大きさもあろうかという狼型の魔物が吹き飛んだ。


「――ッ、アルノルドさん……!?」


「バカモノォッ! 何を油断しているッ! 早く体制を整えろ!」


「っ、は、はい……っ!」


 横合いから現れた魔物に慌てて態勢を崩したルカが礼を口にするより早く、アルノルドの怒号が鳴り響く。

 その光景を見ていたリクハルドは、アルノルドが間に合った事に安堵した様子で小さく息を吐き出しつつ、しかし険しい表情を浮かべたままようやく頬についていた魔物の血をやっと拭った。


 周囲を見回せば、喉を鳴らし、涎を垂らしながら威嚇してくる多くの狼型の魔物たち。

 狡猾に隙を狙い、群れの勝利を優先すべく囮役が次々に現れては、僅かな隙を突いて今のように横合いから奇襲をかけてくる。下手に背を向ければここぞとばかりに襲いかかってくるのは自明の理、すでにこの場から脱する余裕すらない。


 再び、今度はアルノルドに向かって奇襲を仕掛けようとしていた大髪型の魔物の前へとリクハルドが飛び出し牽制してみせれば、喉を鳴らしながら狼型の魔物がその場でじりじりと後方に下がっていく。

 単調に突っ込んでくるだけならば斬り捨てて活路を見出す事もできるが、こうもじわじわと削り続けられている状況は体力的にはもちろん、精神的にも負荷がかかる。群れによる狩りというものをよくよく理解している姿に、改めてリクハルドは舌打ちした。


「……クソ……っ! どうなってやがる……!?」


「春が近くなったとは言え、異常だ……。雪解け前にここまで大量に魔物が現れるなんて、今までに経験がない。何が起きている……いや、今はまず、生きてこの異常を知らせせねばならん」


「それはそうだが……どうする?」


「フン、決まっている。邪魔をするのなら、叩き潰すのみ」


「……それはそうだが……」


 アルノルドと声を掛け合いつつちらりと視線を巡らせてみれば、連れてきた男衆の若手であるクレトとルカの二人が肩を大きく上下させており、体力も尽きかけようとしているのが見て取れる。

 しかしまだまだ魔物は多く、逃げに徹するにしても今の数的不利な状況では、無事に逃げられるとも思えない。


 このままでは誰かが犠牲になるのでは。

 そんな考えてしまった、その時だった。


「――【乱れ風】」


 斜め上、木の上から放たれた苦無が狼型の魔物たちの眼前に突き刺さる。同時に、無感情に呟かれた一言と共に呼応するようにそこに括られた術符が輝きを放ち、強烈な風が吹き荒れて砂塵や木の葉を舞い上げた。

 奇襲によって視界を潰された狼型の魔物たちの間に、木の上から飛び降りた一人の男が刃の長い刀――太刀を振るう。


「――シッ!」


 身体もろとも回転させながら振るわれた太刀の刃が、狼型の魔物達の首を次々と刎ねる。その刃の範囲から離れている狼型の魔物たちには棒手裏剣が投げられて突き刺さり、次の瞬間には爆発して、包囲網を食い破っていく。


 次々と淀みなく行われる、一方的な蹂躙。

 今しがたまで苦労していた狼型の魔物の群れは、突如として現れたたった二人によってあっさりと蹂躙されていた。


 そんな光景を目の当たりにしていたクレトとルカが目を丸くして見つめる横で、リクハルド、アルノルドは安堵した様子で表情を緩めた。


「はは……っ、さすがだな……」


 クレトとルカ、そしてリクハルドとアルノルドといった四人がじわじわと弱らせるように戦っていた狼型の魔物たちの群れが、たった数十秒の間にみるみる瓦解していく。そんな光景を目の当たりにしている。

 その光景は、もはや戦いと呼べない作業のような代物、あるいは蹂躙と呼ばれるような一方的なものであった。


 ――分かってはいたつもりだが、これ程・・・とはな。

 助かったと素直に喜びたいところではあるが、それ以上にリクハルドが感じたのは、圧倒的な実力差に対する呆れ、あるいは羨望とも言えるようなものであった。


 この二人・・・・が素晴らしい実力を有している事は知っている。

 実際、若い男衆たちはもちろん、そんな男衆の中でもトップの実力者と言えるようなアルノルドよりも圧倒的な力を有している事が見て取れた。


 初手での目潰しは、あくまでも突っ込む一瞬の隙を生み出すためのものと割り切っていたのだろう。

 狼型の魔物たちの視界が戻ったところで、その中心で流れるように太刀を振るって一刀のもとで屠り続けている姿は何も変わらない。


 狩る側から狩られる側へと回ったと気が付いて逃げ出そうとした魔物の目の前に棒手裏剣が飛来し、そこから炎の渦が舞い上がって逃げ場を潰し、足を止めた次の瞬間には舞い上がる炎が踊り、意思のある獣のように襲ってくる。

 そうして、一方的な戦いになっておよそ五分程度で、狼型の魔物たちは言葉通り全滅したのであった。


 数多くの狼型の魔物の死体の中央で、太刀を肩に担ぐようにして振り返った男が頭に撒いたバンダナと口元まであげていた布を外し、にやりと笑ってみせる。


「よお、無事か?」


「あぁ、お前たちのおかげでな。助かったぞ、クラース」


「なに、近くをたまたま通ったんでな」


「そのおかげで命を拾ったよ、感謝する」


「気にすんな。つかリヒトがいなきゃ逃げられてただろうし、そもそもここで戦ってる事に気が付いたのもリヒトだからな。礼ならアイツに言ってくれ。――リヒト、どうだ?」


 クラースが斜め上の木の枝を見上げて声をかければ、枝に腰掛けていたリヒトが枝を支点に膝裏を引っ掛けたまま後ろに倒れ込むようにぐるりと回転しながら下りて着地する。


「リクハルド、無事?」


「お陰様でなんとかな。助かった、感謝する」


「ううん、気にしなくていいよ。それより、クラース、この辺りは今の群れで最後。ただ、やっぱりまだ多いみたいだよ」


「ちっ、まだいやがるのか。一体何がどうなってんだ……?」


「やる事は変わらない。里に来る前に全滅させる」


「ま、そうなるわな」


 淡々と告げてみせるリヒトと、そんなリヒトの言葉をあっさりと受け入れてみせるクラース。

 リクハルドやアルノルド、クレトやルカといった面々にとってみれば強がりや無茶にも聞こえそうな発言だというのに、特に気負う様子もなく、さも当然の事であるかのように口にして、受け入れてみせるのだから目を丸くするのも無理はなかった。


「そんな訳だから、リクハルド、それにアルノルド。俺とリヒトはしばらく狩りに回るから、里まで送ってやれる余裕はない。大丈夫か?」


「それぐらいなら大丈夫だが……二人で戦いに回るつもりなのか?」


「二人で、っていうより二手に分かれて、だな」


「……は?」


「効率が悪いからね。何故か魔物たちがあちこちから惹き寄せられるように集まってくるような動きを見せているみたいだし、方向を絞れないから。クラース、これ、罠用の術符ね。適当な間隔で木の洞だったり岩に貼り付けていって」


「おう、有効距離は?」


「だいたい目で見える範囲って思っておいてくれればいいよ。一応ゆとりは持たせてるけど」


「了解」


 困惑するリクハルドの様子を意に介す事もなく、淡々と答えつつリヒトがポーチから術符の束を取り出す。およそ百枚程はあろうかというもので、紐で縛られていたそれをクラースに手渡して説明していく姿を唖然としたまま見つめていたリクハルドは、はっと我に返ったように改めて口を開いた。


 しかし――――


「まてまてまて……! だったら俺達も――!」


「――足手まといはいらないよ」


 ――――リヒトは見下した様子もなく、先程までの説明となんら変わる事のない淡々とした物言いで、あっさりと断言する。


「リクハルド、アルノルドの実力じゃ数的不利を覆せない。まして森の奥から来てる魔物もいるからね」


「――っ、ちょっと待て、リヒト! アルノルドさんやリクハルドさんなら!」


「クレトは知らないかもしれないけど、キミ達が苦戦してた狼型の魔物の群れは、森の奥の魔物に追われて逃げてきた魔物たち。つまり、森の奥の魔物にとっては弱者そのものだよ。あの群れ相手に圧勝ぐらいできるようじゃないと死ぬだけだよ。だから、さっさと里に戻って防衛用の術の見回りと強化をしてくれた方がいい。間引きは僕らで充分だから」


「な……ッ」


「よせ、クレト。……クラース、お前もリヒトと同意見なんだな?」


「あー……。まあ、こう言っちゃ悪いんだが、こと戦いにおいてリヒトの分析能力は確かだ。少なくとも、俺なんかよりもよっぽど冷静に物事を見ていて、判断も正しい」


 身も蓋もない言い方をするリヒトの物言いに呆れた様子で苦笑を向けつつも、しかしクラースはそう言い切ってみせた。


「魔物の特性、勝つための準備さえ戦いの中で完成させるのがリヒトだぞ? そんなリヒトが無理だって言うなら、まぁ無理ってこった。大人しく里に戻ってオババに報告と、防衛強化に回ってくれ」


「クラースッ! いくらお前でもそんな言い方――!」


「――やめんか、ルカ」


「っ、アルノルドさん!」


「今の戦いを見たであろう。あの二人の実力は、明らかに俺達のソレを大きく上回っている。そもそも人数の少ない里の戦士だからこそ、下手なプライドで里を危険に晒す訳にはいかんのだ。俺達が里に戻る、それが最適解だというのなら、それに従うに他あるまい」


「けど……ッ!」


「ルカ、アルノルドの言う通りだ。お前たちも疲労している。いずれにせよ、里には一度戻らなければならないのは間違いない。……クラース、リヒト。後は頼む」


「了解。行くぞ、リヒト」


「うん。クラースは南を回って西へお願い。僕は北を回って西に向かうから」


「おう」


 短く声を掛け合い、そのまま去っていく二人。

 そんな二人を見送って、リクハルドは深く溜息を吐き出した。





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