足の震え

 僕は今、都内の一等地に店を構える『マスカルパレット』という名前の美容院の前にいる。

美容師専門学校を卒業してから早三ヶ月。この美容院で研修がてら色々なことを学び、ついに今日からお客さんを交えてのカットが始まるのだ。緊張しているせいか僕の足は震えていた。

――開店準備までそう時間はないから早く入らないと。

 震えている足を前に進め、入り口のドアノブに手をかける。さあ開けようと思った瞬間、ガチャとドアノブが回って扉が開いた。


「うおっ!びっくりした……。なんだ波瑠くんか。おはよう」

「!?あっ店長。お、おはようごさいます!」


 どうやら扉を開けたのは店長のようで僕と分かった瞬間、表情を元に戻して挨拶をしてきた。僕はワンテンポ遅れて挨拶する。ふと下に目線を向けると、開店準備のために外に出ようとしたのだろう。店長の足下には美容院の看板が置かれていた。


「開店まで後三十分しかないから早く入って入って!」


 そう店長に促されて店内に入る。中には忙しそうに準備する先輩たちがいた。僕も早く着替えて準備を手伝わないといけないので、ロッカールームへと急ぐ。この美容院は都内でも有名なので、朝から沢山のお客さんがくるのだ。のんびりしてる暇はないのでさっさと着替えて先輩たちを手伝った。


 三十分後、バタバタと慌ただしい店内は一応の落ち着きを取り戻し、僕は店の奥で準備をしながら、お客さんが入ってくるのを待った。そわそわしながら待っていると先輩の一人にシャキッとしろと言われる。


――仕方ないだろう。今日が初めてのカットなんだから。


と内心愚痴りつつも先輩の言うことはもっともなので、背筋をぴんっとする。

 そうこうしないうちに、本日のお客様第一号がやってきたらしく、入店のベルが鳴った。

 どんな人が入ってきたのだろうか。そんなことを考えながら、店長とお客さんの会話が終わるのを今か今かと待つ。

数分後、店長とお客さんがやってきたので下に向けていた顔を上げる。接客業は笑顔が基本なので営業スマイルを浮かべて第一声を発しようとするが声が出なかった。


「今日はよろしくね」

「よ、よろしくお願いします。本日カットを担当する往田波瑠です」


 笑みを浮かべたその人は誰もが知っている大物女優・東原楓だった。彼女は数々のドラマやバラエティに出演しており、最近では主演優秀賞を獲得している。そんな人がこの美容院にくるとは思ってもみなかったので声がうわずってしまう。元々、コミュ障なせいか話す順序を間違えてしまった。


――研修で何度もカットは練習してきた。その通りにやれば大丈夫。

 

そう自分を鼓舞してから東原さんを座らせ、事前に聞いていた注文通りに切っていく。



カットを始めてから十分が経った。


――まずい。ここまで何の会話もしてない。なんか喋らないといけないのに!


内心焦っていると、沈黙を遮るかのように東原さんが口を開いた。


「やっぱり噂通りの腕前ね」

「えーっと……?」

「あなた、今年の美容師コンテストで優勝したんですってね。店長さんから聞いたわよ」

「い、いえ……。そんな褒められるほどのことでもないですよ……」


突然のことに驚いて思わず、恐縮してしまう。褒められたら素直に受け入れろとあれほどネットの記事に書いてあったのに情けないなと反省する。今日の業務が終わったらなんでコンテストで優勝したことをわざわざ漏らしたのか店長に聞いてやろうかと内心考える。


「優勝なんてなかなかないんだから、もっと自信を持った方がいいわよ」

「そうですかね……」

「ええ。それに無理に会話しなくたっていいのよ。お客はカットにきているのであってお喋りに来ているのではないのだから」

「なるほど。確かに一理ありますね」


会話が苦手なことがバレてしまって、内心ドキッとする。やっぱり長年、人と関わってるとわかるものなのかなと思い、東原さんの言葉に頷く。


「でも、会話に慣れるのって場数を増やすしかないのよね。あなたがもし、上手くなりたいと思っているのなら何でもいいから取り敢えず話しかけてみることをおすすめするわ」

「はい。そうしてみます」


東原さんのアドバイスを受けた僕は、次のお客さんの時はそうしてみよう。そう思いながら笑顔を浮かべるのだった。

 緊張の糸が解れたのだろう。その後は東原さんの話に耳を傾けつつ、着実にカットを進めていき、十五分もしないうちに注文通りの髪型にすることができた。


「今日はありがとう。次に来た時もよろしくね」


会計を済ませた東原さんは去り際にそう言い残して店を出ていく。それを聞いた僕は心からの笑みを向けて見送った。その頃にはもう足の震えは消えていたのだった。

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