第5話 蛇足

 そして始まる世にも奇妙な同居生活――の、その前に、と誰かが嗤った。


* * *


 男にとってそのババアの存在は、何とも言い難いものであった。

 出会いはちょっとした隣人関係から。

 用があったのは、ババアの隣に住んでいたヤツだったのだが、コイツを張るのにババアの家をちょいと借りようとしたところ、とんでもない目に遭った。


 あと少しで声帯が千切れていた、と知り合いの医者は笑う。


 そんな目に遭いながらもババアを訴えもせず、ともすれば慕う風であるのは、自分でも不思議に思うところではあるが、恨みがない訳でもない。

 でなければ、曰く付きの物件を耳にして、嬉々としてババアを宛がおうとは思わなかったはずだ――たぶん。


(まあ、それでもあのババアが死んだら、泣くかもしれねぇな)


 恨みがなくてもやりそうな自分を棚に上げ、そんな風に心の中で笑った男は、辿り着いた扉を、気持ち優しくノックした。

 ついでに、既に死んでいる可能性を考えて、自分に害が出ないよう振る舞う手順をなぞったなら、ガチャリと開く扉。


「よ、ババりん。荷物、持ってきてやったぜ」

「……ああ、運んどくれ」

 

 一瞬だけ、鋭い目を向けられた気もしたが、このババアは元々男に対して愛想の欠片もない相手だ。ひやりついでに喉の古傷をひと撫でしては、これを払い、一緒に連れてきた荷物運びを部屋へ誘導する。

 そうして自分もババアの新居へ足を踏み入れ――。


「っ!!?」


 瞬間、肌が総毛立つ。

 この部屋に入ったのは二度目で薄暗いのは知っていたが……この息苦しさは何だ?

 思わず、もう一度喉に触れようとするが、こちらを見るババアに気づいたなら、手を止めて笑いかける。ただしそれは、自分でも分かるほど引きつっていたが。


* * *


 ――とっとと終わらせて帰ろう。

 そう思っていたのに、天気の良い初夏の日差しとババアの荷運び、そして妙な空気感でかいた汗は多量で、あれよあれよと男はババアより先にシャワーを浴びることになった。

 ババアの珍しい親切心にうっかり乗ってしまった、とも言える。


(……何やってんだ、俺は。まあいい。とっとと上がって――ん?)


 気が変わったババアに冷水を浴びせられる前に。

 そう思ってささっと汗を流した男は、ふと排水溝の違和感に気づいた。

(虫……? いや、これは――)

 思わず手を伸ばしてつまんだのは、黒く長い数本の髪の毛。

 丸めた自分の頭にもなければ、ほとんど白髪のババアにもないような……。


「ひっ……いっ!!?」

 急いで手を振って払うが、長いせいで髪の毛は簡単には離れない。

 その内に風呂場の鏡が目に入れば、風呂場の扉越しに見慣れない姿があることに気づいた。

 長袖の白いワンピースを着た、長い黒髪の人物。

 そう、丁度この手に絡みつく黒髪に似た――。


「くそっ、ババアが!!」

 大方、どこかでこの部屋の曰くを聞き、自分を脅かそうとしているのだろう。

 この格好をしたヤツとて、ババアの変装に違いない。


(全く、どこまでもたちの悪いババアだな!)

 幽霊の正体見たり枯れ尾花。

 企てに気づけば、自然と口が笑いに歪む。

 怒りよりも先立つ愉快な気持ちのまま、黒髪が佇む扉を勢いよく開き、


「ババア! よくも人を脅かし――やがっ……て?」


 誰もいない。

 簡素な洗面台と洗濯機が並ぶ先には、閉じられた仕切り。

「は、はは……なんて、な……」

 急な動きの連続のせいか、クラクラする。

 汗を流したばかりなのに、また別の汗が滲むのを感じ、誤魔化すように急いで拭く。そんなはずはない、そんなものはないと言い聞かせるように。


 だが、服を着終わり、ふと洗面台の鏡を覗いたところで、ソレに気づいた。

 洗面台の鏡越し、横を――自分を見るソレを。

「!」

 勢いよくそちらを向いてもそこには何もなく、再び鏡を見直したなら、ソレは位置を変えず、向きだけこちらに合わせており――。


「!!!」

 もう、声すら出せず、仕切りへ叩きつけるように自分の身体をぶつけて外へ。

 ――と。


「ああ、丁度いいところに」

 切羽詰まった自分とは正反対の声に、いつもの愛想笑いを貼りつけ損ねた顔を向ければ、見たことのない笑顔のババアがおぼんを手に立ち、

「ほら。珍しくアタシの役に立ってくれたから、こちらも珍しく礼を用意してやったよ。引越祝いも兼ねて、特上のうな重さ。と言っても、アタシと半分こだがね」

 今取り分けてやるから待ってろ――というババアの言葉も聞いた気がしたが、男は「急ぎの用事を思い出したんで!」とだけ言い残すと、全速力で部屋を出た。


 何せ、ババアが誇らしげに見せてきたその重からは、得体の知れない色をした赤子モドキと腕が溢れていたのだから。


* * *


 ちょっとした意趣返しのつもりだったが、やり過ぎたか?

 そうは思っても、その実、鈴子はソレが男に何を見せたか知らない。

 ただ、食べ物を見て逃げた様子から、「食べ物の中に仕込むのは、食べ物への冒涜だから駄目と教えなければ」と決め、とりあえずは、目の前のご馳走にとりかかる。

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