ババジャス

かなぶん

第1話 引っ越し

 引っ越しに事情はつきものだが、目下、72歳の馬場ばば鈴子すずこが問題にすべきは、そもそも引っ越し先があるかどうかだった。

 何せこちとら生涯独身。兄弟あっても生き残りなし。

 友と呼べる相手はそもそも少なく、保証人も厳しい身の上。

 実際、不動産屋に突撃すれば、遠回しの言い回しで、年齢を理由に断られること……さて、どのくらいだったか。


 だからと今の住所を終の住処とする訳にもいかず、じたばたもがいていたなら、どこの誰が耳に入れたのやら、昔の知り合いが声を掛けてきた。昔と言ってもそこまで古くなく、知り合いと言っても同年代ではなく40代の丸頭だが。

 知り合ってから変わらない軽さでヤツは言う。


「ババりん、部屋探してんなら、丁度いい物件あるぜ」


 そうして大して期待なく向かった物件は、驚くほど良い物件だった。

 一人暮らしに丁度いい広さに、使い勝手の良さそうな諸々の配置。

 交通の便も悪くなく、近くには某ショッピングモールが建っている。

 しかも、この好条件にもかかわらず詐欺広告並に安い。

 近くに似たような高さのマンションがあるせいか、少し薄暗い部屋ではあったが、そんなマイナス面は訴えるだけ贅沢というもの。


 決めてしまえば嘘のようにトントン拍子に話は進み、さして多くない荷物を手に、鈴子は新しい我が家の前に立つ。

(本当に……今日からここがアタシの家)

 正直、紹介者の軽薄さもあって、割と最初から信じていなかった鈴子。

 それがここまで来てようやく実感を伴ったことに、妙にふわふわした気分を味わう。少し変わったデザインの鍵を差しめば、より強く、すんなり回れば、更に強く、夢のような心地に包まれる。


 だが、その気持ちは部屋に入った直後、扉を閉めた瞬間に終わりを迎えた。


(暗い……?)

 マンション廊下の光が届かなくなった途端、異様な暗さに気づく。

 内見の際、確かに少し薄暗いとは思ったが、今日はそれよりも早い時間に来たはずで、あの日よりも天気は良いはずなのに。

 思わず鈴子の目が、奥にある窓を見て――ソレを見つけた。


 垂れ下がる、長い黒髪を。


 驚きに目を見開き、そろそろと顔が上向く。

 目が、合った。

 天井に四つん這いで張り付く、逆さのその顔と――。


 瞬間、この良物件の、反して安い意味を察した鈴子は、絶叫した。

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