蛇解きの巫女

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蛇解きの巫女

 夕闇が町を包み込む時間帯。

 もう数十分。

 いや、ものの数秒で日が山向に沈んでしまうだろう。

 そんな夕暮れの中、一人の少女が歩いていた。

 ブレザータイプの制服を着ていた。ネイビーのブレザーは光沢のある生地で作られ、フロントには2つのゴールドのボタンが留められている。

 スカートはチェック柄で、シンプルなAラインのデザインで膝丈になっていた。

 装飾も邪心もない心を宿した瞳。

 セミロングに切り揃えられた黒髪。

 髪を留める赤いリボンは未だに、少女心を表しているようでもある。

 身体は華奢だが、それでもどこか芯が入ったような印象があった。

 左肩には居合刀ケースを背負っている。

 名前を紅羽くれは瑠奈るなという。

 瑠奈は小学生の時は剣道をしていたが、刀に触れてみたくなり、中学生になってから居合道を始めた。

 中学一年生になったばかりの頃に、近所の道場に入門し、今ではすっかり居合道に熱中している。


【居合道】

 日本武道の一つ。

 これは、刀を鞘に収めて帯刀した状態より、鞘から刀を抜き放つ動作で相手に一撃を与え、続く太刀捌きでさらに攻撃を加えたのち、血振るい残心、納刀するに至る形・技術を中心に構成された武術・居合術を現代武道化したもの。

 形の演武による試合形式を本旨として、試合は実際に斬りあうのではなく、段位ごとに、連盟の規定技や流派の形を演武し、審判員の旗の掲示による多数決や採点で評価することで勝敗を判定する。

 自ら作り上げた仮想敵と斬り合う。

 抜刀から納刀に到るまでを含めた技術を一つの武道と成すのは世界的に見ても特殊だ。


 瑠奈は、まだ武道の持つ精神性よりも刀の持つ格好良さへの憧れが勝っているかもしれない。

 ただ、剣道をし居合道を始めてから、心身共に鍛えられてきたことは事実だった。

 居合道は武道であり、スポーツではない。

 精神統一から始まり、身体の鍛錬、技術の向上、集中力の強化など、様々な要素が含まれている。

 だから、心が乱れていては意味がない。

 瑠奈は稽古の最中、そういったことを意識して行なっている。

 今日も居合道の稽古を終えて、帰路を辿っていた。

 この時間帯はいつも一人だが、気の強い彼女にとって孤独を感じることはなかった。

 むしろ、一人でいることを好むくらいだ。

 だから、こうして今日もいつもと同じように歩いている。

 しかし、この日だけは違った。

 一台のトラックが前方から迫り、瑠奈のすぐ脇に近づく。

 歩道のない道だ。

 ――まずい!

 危ないと思って、瑠奈は身を避けると共に運転手の方を見るとスマホを見ながら運転しているのを見た。

 居合道で鍛錬した動体視力により、辛うじて避けることが出来た。

 ほっと胸を撫で下ろすと共に、非常識な運転をしている運転手への怒りが込み上げてきた。

 瑠奈は、走り去るトラックを見ることしかできない。

 その時だった。

 トラックが突然、衝撃音を発したかと思うと横転したのだ。

 突然の衝撃と金属の激しい擦れる音に、瑠奈は驚いて耳を塞いだ。

 トラックは完全に停車し、道路脇に停まった。

 瑠奈はスマホを見ながらのながら運転かと思ったが、何も無い直線道路で事故を起こすとは考えにくい。

 すると、トラックの前方に黒く蠢くものの存在を見た。

 漆黒の鱗で覆われた身体に、赤く光る目。

 鋭い牙を持った口。

 蛇だ。

 だが大きさが尋常ではない。

 人間の胴体を二人分合わせたくらいの太さがあった。

 昔話に登場する蟒蛇うわばみのように巨大である。

 瑠奈は息を吞んだ。

 身体が硬直して動けない。

 鼓動が激しくなるのを感じた。

 呼吸が荒くなり、額に汗が滲む。

 怖い。

 蟒蛇うわばみは、ズルズルと巨体を引きずり道路を横断するように通り過ぎる。

 そして、そこにあるのは先程横転したトラックだけであった。

 少女の声が聞こえた。

「ねえ。あなた大丈夫?」

 瑠奈は我に返り、声の方を向いた。

 そこには、一人の少女がいた。

 透けるような白さを持つ少女だ。

 年の頃は、自分と同じくらい。

 顔立ちはどこか神秘的で、額はきれいに広く、上品な眉毛が上げられている。鼻は高く通り、小さな口元は上品な形を描いていた。

 前髪は程よい長さで、髪は白く長く艶やかに垂れ下がる。時折風に揺れる姿は、まるで小川のせせらぎように美しい。彼女の瞳を上品に覆っている。

 その瞳は深い蒼色で、穏やかな表情を映す。

 時折、力強い決意を感じさせる輝きを放ち、まるで星空を眺めているかのような澄んだ美しさを持っている。

 彼女の肌は白く、透明感がありまるで月の光を浴びているかのように輝いていた。

 服装は瑠奈と同じブレザーの制服であったが、彼女が着ると高貴な雰囲気を感じさせられる。

「どっち。アレはどこに行ったの?」

 少女は瑠奈に尋ねる。

 瑠奈は驚きながらも、彼女の訊く意味が分かり、答えた。

「ト、トラックの前を通り過ぎて、木々の中に入っていったわ」

 それを聞いた瞬間、少女は走り出した。

 瑠奈はしばらく呆然としていたが、ハッと我に返った。

 少女は、トラックの前に到達すると、しゃがみこんで草が押し潰されてできた地面を触った。

 そこに瑠奈も追いつく。

 彼女は立ち上がって振り返り、言った。

 その表情には強い意思が込められているようだった。

「私はあの化け物を追いかけます。あなたはすぐにここから逃げて下さい!」

 少女はそれだけ言うと、木々の中に飛び込もうとしたが、うめき声が彼女を呼び止めることになった。

 それは、横転したトラックからだ。

「大変。人がまだ中に!」

 瑠奈は慌てて、フロントガラスから額から血を流している運転手の姿を認めた。

 中には、男性がいた。

 意識はあるようだが、苦痛で顔を歪めていた。

「救急車に連絡を。あと、警察にも!」

 少女の声に、瑠奈は頷いて、スマホを取り出した。

 瑠奈は、素早く番号を打ち込むと、電話はすぐに繋がった。瑠奈は簡潔に事情を説明した。

 その間に、少女は横転したトラックの運転席ドアを開いて、運転手に呼びかけてた。


 ◆


 運転手は瑠奈と少女の手によって助け出された。

 警察への事情聴取を終えて、二人はようやく帰宅することが出来た。

「何だか慌ただしかったわね」

 瑠奈は、少女に呼びかける。

 すると少女は、疲れのある微笑みをみせながら頷いた。

「そう言えば、まだ自己紹介をしてなかったわね。私は、神崎かんざき葉月はづきよ。葉月でいいわ」

 それを聞いて、瑠奈も名乗った。

「私は、紅羽瑠奈。瑠奈でいいよ」

 お互いに名乗り合ったところで、不意に瑠奈の腹の虫が鳴った。

 思わず赤面してしまう。

 そんな瑠奈を見て、葉月はクスクスと笑った。

 恥ずかしさのあまり顔を赤くしながら俯く瑠奈だったが、空腹なのは事実なので素直に認めることにした。

 すると、葉月は言った。

「家に来ない? ご馳走してあげるわよ」

 その言葉に瑠奈は思わず目を輝かせた。

 こんな美人の家に行けるなんて。そう思うと心が躍った。

 しかし、それと同時に不安もあった。

 自分は今、非日常の中にいるのだ。もし、何かが起こったら……。そんなことを考えるだけで、恐怖を感じるのだった。

 瑠奈が戸惑っているのを見て、葉月は優しく微笑むと言った。

「大丈夫よ。何かあったら私が守ってあげるから。それに、私も一人で寂しいのよ。話し相手が欲しいの。だから、ね?」

 葉月は瑠奈の手を取った。

 その優しい手の感触に、瑠奈は安心感を覚えた。

 この人なら信頼できる。そう思った。

 瑠奈は頷くと、彼女の手を握り返した。

 葉月は嬉しそうに微笑んだ。

 そして、瑠奈の手を引っ張るようにして歩き出した。

 こうして、瑠奈は彼女の家に向かうことになった。

 しばらく歩くと、石段が続く長い階段が見えてきた。

 石段横には社号標があり、白巻神社と書かれていることから、葉月が神社の神職であることが連想された。

「葉月って、巫女なの?」

 瑠奈の質問に、葉月は頷く。

「そうよ。白巻神社の神主の娘なのよ。もっとも、両親は仕事が忙しいから今は一人暮らしだけどね」

 葉月は少し寂しそうにそう言った。

 それから、彼女は瑠奈の方を振り返ると、ニッコリと微笑んで見せた。

 葉月の笑顔を見ていると、瑠奈は不思議と幸せな気分になった。

 そして、階段を登りきると、立派な鳥居が見えた。

 境内は綺麗に掃き清められており、雑草一つ見当たらないほど清潔だった。

 その先に、木造の拝殿があり、その奥に本殿が見える。

 瑠奈は、少し緊張しながらも、葉月の後に続いて、敷地内に入っていった。

 拝殿を横に見ながら、葉月は社務所の引き戸を開けると、そこには廊下が伸びていた。

 廊下を進んで襖を開けると、そこは居間となっていた。

 畳が敷かれ、中央にテーブルが置かれているだけのシンプルな部屋だ。テレビやソファーなどはなく、必要最低限の家具しか置かれていないようだ。

「楽にしてて」

 葉月に促されて、瑠奈は座布団の上に座った。

「うどんでいいかしら?」

 葉月の問いかけに、瑠奈は頷いた。

「うん。大丈夫よ」

 葉月は、キッチンに立つと、冷蔵庫から食材を取り出して調理を始めた。

 しばらくすると、テーブルの上には、温かな湯気が立ち上る、きつねうどんが置かれた。

 その丼には、きつねうどんの香りが漂っていた。

 真っ白なうどんが、澄んだ出汁に浮かび、ほんのりと金色に煮た厚揚げが添えられている。

 そして、その上には薄く切った青ネギと、蒲鉾が添えられていた。

「おいしそう」

 瑠奈は、思わず感嘆の声を漏らした。

 その声に、葉月はクスリと笑う。

「冷凍うどんだけどね」

 そう言いながら、葉月もテーブルについた。

 二人は向かい合うように座ると、いただきますと言って食べ始めた。

 瑠奈は箸を手に取り、まずは丼の表面に浮かぶ薄い油膜をかき分ける。その瞬間、甘辛い香りが鼻をくすぐる。ほっと微笑むと、丼に浸ったうどんを口に運んだ。

 しっかりとしたコシのある麺が、ほんのり甘く柔らかな出汁に絡みつく。口の中に広がる温かさと旨味に舌鼓を打つ。

 瑠奈は夢中で食べた。

 こんなに美味しい食事は初めてかもしれないと思ったほどだ。

 葉月はそんな瑠奈の様子を見ながら、自分もゆっくりと味わっていた。

 やがて、葉月も完食すると、二人で食器を片付けた。

 その後、二人はお茶を飲みながら一息ついていた。

「ねえ、瑠奈。私を助けてくれない。ううん、みんなをだけど……」

 葉月が突然切り出した言葉に、瑠奈は首を傾げる。

 どういう意味だろうと思っていると、葉月は再び話し始めた。

「この白巻神社は蛇を祀っているの。蛇と聞くと恐ろしいイメージがあると思うけど、命の源である水を司る神獣なの。蛇は豊穣をもたらし子孫繁栄の霊力を持つ水神信仰の原点でもあるのよ」

 葉月の言葉に、瑠奈は驚く。

「蛇を祀る……。あ、もしかして白巻神社の白巻って、白い蛇を意味してるの?」

 葉月は微笑みながら頷く。

「察しがいいわね」

 どうやら、その通りらしい。

 蛇や大蛇を神として祀る地域は実在する。


【蛇を祀る神社】

 宮城県の金蛇水神社は、御神体は金属製の蛇で病気平癒を祈願する。福井県吉田郡の弁財天白龍王大権現は地元では《へびがみさん》と呼ばれる白蛇を御神体とする神社があり、福井県最強のパワースポットとされる。

 奈良県桜井の大神神社には巳の神杉みのかみすぎというご神木があり、神の化身の白蛇が棲むことから、蛇の好物の卵が参拝者によってお供えされている。


 葉月の白巻神社は、白い大蛇を祀る。

 遠い昔、この地には邪悪な蛇が恐れられていた。

 その蛇は真っ白な鱗で覆われ、赤い目をしていた。巨大な体を持ち、人々に害を及ぼしていました。彼らはこの蛇を《白巻はくまき邪蛇じゃじゃ》と呼び、恐れおののいていた。

 勇敢な武士や祈祷師が、その蛇に立ち向かったが、誰一人倒すことはできなかったと言われている。

 そんな時、旅の巫女が訪れる。

 巫女は不思議な力を持っており、白蛇が放った最後の獰猛な攻撃によって彼女は身体を欠損する程の重傷を負うが、欠損した肉体を引き換えに白蛇を封じることに成功した。

 そして、白蛇を神として祀ることで荒ぶる力を鎮め、この土地に平和をもたらしたのだった。

 これが、白巻神社の由来とされている。

 しかし、蛇を封じるために戦った巫女は、蛇の闇の力によって呪われてしまい、髪は真っ白に染まってしまった。その代償として、蛇の力を受け継ぐことにもなってしまった。

 蛇の力を解くことから、《蛇解きの巫女》とも呼ばれるようになったのだった。

 葉月もまた、同じ力を持っているのだった。

 瑠奈はその話を聞いて、驚くが然程でもなかった。

 瑠奈の反応に葉月は意外そうな表情をする。

「気味悪がらないのね」

 葉月の言葉に、瑠奈は微笑んでいた。

 葉月は、自分の正体について打ち明けたが、瑠奈は少しも動じなかった。むしろ、彼女の正体に親近感を抱いていたのだ。

 瑠奈は、葉月に言う。

「私は居合道をしているんだけど。剣を志す友達にね。魔物の剣を受け継ぐ人が居るって言ったら信じる? 兵法三大源流、陰流・神道流・念流と肩を並べる流派。幻の秘剣術を現代に受け継ぐ宿業を持っているの……」

 瑠奈は、そう言って少し悲しそうな表情をした。

 葉月は、瑠奈の話を真剣に聞いていた。

 瑠奈の目には虚言を吐くような気配はなかった。

 それに対し、葉月は瑠奈を信頼にたる人物だと判断したようだ。だから、彼女の話を信じることにしたのだ。

「瑠奈。あの蟒蛇うわばみを倒す為に、私に力を貸して欲しいの……」

 そう言うと、葉月は頭を下げた。

「今日、トラックを横転させた奴ね」

 瑠奈は、葉月の話から今日の事件の犯人を察した。

 葉月は頷き説明をした。

 白巻神社では、《白蛇の力》を用いて、妖物の封印を警備する役目を負っているが、先日、テレビクルーが無断で取材に来た際に、誤って蟒蛇うわばみを解放してしまったのだ。

 実体のない霊体ではあるが、その力は強大であり、白巻神社を護る使命を持つ者たちだけでは対応しきれない状態だった。

「私が受け継ぐ《白蛇の力》は諸刃の剣なの。私は、その力を使う度に命を削られていくの。でも、今はどうしても必要なの。お願い、瑠奈!」

 葉月は、再び瑠奈に頭を下げる。

 瑠奈は、葉月の必死さを感じ取っていた。

 そして、彼女は葉月の手を取ると、優しく微笑んだ。

「分かった。私の剣がどこまで通用するのか、試すいい機会だしね」

 葉月は、その言葉に驚いて顔を上げる。

 そして、瑠奈の優しい笑顔を見て、葉月は嬉しそうに頷いた。

 二人は、早速、準備に取り掛かった。


 ◆


 二人は町を見下ろす高台に来ていた。

 夜景が美しく見える場所だが、人気がなく静かだった。

 瑠奈はブレザーのままに腰に角帯を締め刀を腰に差していた。その姿は侍の様でもあった。

 一方、葉月の姿は変わっていた。

 純白の装束と緋袴を着ており、髪留めには銀の鈴が付いている。

 二人の間には、タライが置かれ酒が満たされている。アルコール度数の高い酒。

 伝承にある八塩折之酒やしおりのさけだ。

 これは、神話に残る「日本で最初に造られたお酒」であり、スサノオノミコトが八岐大蛇やまたのおろちを倒すために造らせたお酒と言われている。

 「蟒蛇うわばみ」とは、大酒飲み・酒豪を指す。「蟒蛇うわばみ」とは元来、ニシキヘビなどのボア科のヘビの他、神話や伝説に出てくるような大蛇のこと。 日本では、大蛇を「オロチ」と呼んでいたが、15世紀頃から「蟒蛇うわばみ」という言葉が使われるようになったとされている。

 この怪物をおびき寄せるには、酒を飲ませれば良いという逸話がある。

 つまり、八塩折之酒やしおりのさけを提供することで、蟒蛇うわばみを呼び寄せることができるというわけだ。

(これで、本当に現れるのかな……)

 瑠奈は半信半疑だったが、とにかく葉月の作戦に従うしかなかった。

 蟒蛇うわばみに逃げられた以上、追跡は不可能だろう。

 だから、こうして罠を仕掛けて誘い出すしかない。

 瑠奈は、葉月の指示に従って準備を進めた。

 瑠奈と葉月はお互いに目を合わせると頷く。

 葉月はゆっくりと立ち上がり、深呼吸をして精神統一を始める。

 彼女の口から祝詞が流れ始める。その声は透き通るように美しい声だった。

瑠奈は彼女の声に耳を傾けていた。

 すると、葉月の体からオーラのようなものが漂い始める。

 それは、白い光の粒のようなもので、葉月の周りを漂っていた。

 葉月は目を閉じて、意識を集中する。彼女の額には汗が滲んでいた。

 しばらくすると、闇の中で何かが蠢く気配を感じた。

 瑠奈は刀の鯉口を切る。

 抜きつけで斬りつけるつもりだ。

 そして、遂にその瞬間が訪れる。

 暗闇の奥から巨大な影が迫ってくるのが見えたのだ。

 それは、全長8mを超える巨大な蛇だった。

 赤い舌をチロチロと出しながら、こちらに近づいてくる。その巨体からは想像できない程、素早い動きだ。

 まるで黒い濁流のようだ。

 狙っているのは祝詞を上げている無防備な葉月だ。

 その速さに反応できる人間はそうはいないだろう。

 だが、一人だけ例外が居たのだ。

 その人間こそ、居合道を修める瑠奈であった。

 右手を柄に対し下から包み込むようにして握る。こうすることで、抜刀と同時に攻撃を仕掛けることができるのだ。

 柄頭を蟒蛇うわばみの方向に向ける。これを意識することで、鞘に収まっている刀身を素早く抜くことができる。

 柄を握った右手を体の前に伸ばして抜刀。

 抜刀の動作を始め、刀身の切先が三寸(約9cm)ほど鞘に残っているところで、鯉口を切る所作の際に鞘を握っていた左手で鞘を後ろに引く。

 初めは静かに抜かれた刀だったが、急加速し、最後は疾風のごとき速さで蟒蛇うわばみを左から斬り付ける。

 しかし、瑠奈の一撃は空を切った。

 葉月を狙っていた蟒蛇うわばみは、瞬時に身を止めると回避したのだ。

 だが、居合術には躱されたとて二之太刀に繋がる追撃がある。

 今度は右上から袈裟懸けに振り落とす。

 刀は蟒蛇うわばみの左目に向かって振り下ろされる。

 瑠奈は、そのまま体重を乗せて、刀を一気に押し込んだ。

 金属音が鳴り響く。

 瑠奈の刀は、蟒蛇うわばみの鱗を斬り裂き、眼を斬った。

 傷口から血が噴き出す。

 激痛のあまり、蟒蛇うわばみは絶叫する。

 あまりの痛みに鎌首を乱す蟒蛇うわばみ

 だが、それでも致命傷には至らなかったようだ。

 瑠奈はすぐに間合いを取ったため、蟒蛇うわばみの攻撃を受けることは無かったが、次の攻撃に備えなければならなかった。

(くそっ!)

 蟒蛇うわばみは再び瑠奈を襲うべく身をくねらせる。

 そして、大きく口を開けると鋭い牙を向けてきた。

 その動きはまるでムチのようにしなやかであり、予測不能な動きをしてくる。

 その時、葉月は唱え《白蛇の力》を解く。

「白蛇よ!」

 葉月の掛け声と共に、彼女の眼は蛇と同じ赤く染まり身体から吹き上がった霊気から白い霧となって現れる。

 その霧の中から現れたのは、体長5mほどの白い大蛇。

 《白巻はくまき邪蛇じゃじゃ》だ。

 葉月はこの白い大蛇の力を借りて戦うのである。

 白蛇は濁流のような勢いで蟒蛇うわばみへと襲い掛かる。

 白蛇の突進によって、蟒蛇うわばみの巨体は大きく吹き飛ばされた。

 葉月は、すかさず術名を唱える。

「朱舞!」

 すると、白蛇の周りに小さな光の玉が、1つ現れた。

 それは、蟒蛇うわばみの周囲をぐるぐると回る。

 光の玉は、それぞれ異なる軌道を描きながら蟒蛇うわばみの身体に当たる。

 まるで、花火のように光の粒が弾け飛んだ。

 光の粒に触れた箇所は、黒く焦げたように変色していた。

 葉月の使う術だ。

 その光は熱を持ち、敵の身体を焼くことができるのだ。

「凄い。これが《蛇解きの巫女》……」

 瑠奈は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。

 葉月の持つ力は圧倒的だった。

 瑠奈一人では勝てなかった相手も、彼女なら倒せるかもしれないと思ったほどだ。

 だが、瑠奈はまだ気を抜かない。

 まだ戦いが終わった訳ではないからだ。

 蟒蛇うわばみは、葉月に激しい敵意を向けると再び襲いかかってきた。

 今度は噛みつこうと大口を開けて飛び掛かってくる。

 それに対し、白蛇は葉月を守ろうと前に出る。

 蟒蛇うわばみの鋭い牙は、白蛇の体に食いつき、血飛沫が飛び散る。

 その途端に葉月は苦しみだす。

 彼女は肩を抱えて膝をつくと、苦しそうに呻き声をあげる。

 白蛇は葉月の身体の一部であり、白蛇に受けたダメージはそのまま彼女自身にも反映されるのだ。

 それに留まらず蟒蛇うわばみは白蛇の体内から、血と霊力を吸い始めたのだ。

 葉月は激痛のあまり悲鳴を上げそうになるが、唇を噛んで我慢する。

 ここで声を上げれば、瑠奈に心配と不安を与え、相手に更なる隙を与えることになってしまう。

 それに、この程度の傷では死ぬことはない。

 それよりも、今はどうやって反撃するかを考えるべきだ。

 葉月は蟒蛇うわばみを睨み上げる。

 このままでは葉月が危ないと感じた瑠奈は、すぐに助けに入ろうとする。

「葉月、今行くわ!」

 瑠奈は、刀を手に蟒蛇うわばみの背に向かって走り、そこに向けて刀を突き立てた。

 切先は鱗を貫き、深く突き刺さる。

 しかし、蟒蛇うわばみは、尻尾で瑠奈を薙ぎ払った。

 瑠奈は吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられる。

 衝撃で肺の中の空気が吐き出される。

「く……」

 瑠奈は痛みに耐えながらも、なんとか立ち上がろうとした。

 だが、蟒蛇うわばみは休む暇を与えず瑠奈に襲いかかる。

 立ち上がれていないことから、瑠奈は避けることもできない。

(どうしたら……)

 瑠奈は気づく。

 今こそ居合道の精神を発揮する時だと。

 居合道は、刀を用いて身を護り敵を倒す心技の修錬を通して、旺盛な気力と強靭な体躯を養う剣道修行の一つ。

 技の上の「敵」は「仮想の敵」であり、仮想敵を「自分の心(自我)」に見立て、「自我を斬り、自我を殺す」ことが精神修養になる。

(自分を斬って、心を殺せ!)

 そう念じた瞬間、瑠奈の意識は自然と研ぎ澄まされていった。

 周囲の音が消え去り、景色はモノクロになり色を失う。

 見えるものは、自分と蟒蛇うわばみのみだ。

 自分を斬って殺した瑠奈には、目の前の敵がはっきりと見えていた。

 いや、それどころではない。蟒蛇うわばみが放つ殺意や憎しみさえも感じ取れるほどだった。

 そして、自分が何をすべきかも理解できた。

 瑠奈は座したまま、刀を納刀する。

 居合術では鞘に収まった刀は構えなのだ。

 巨大な顎門が瑠奈に食らつこうとした瞬間、その口に瑠奈は、鞘引きとともに刀を抜き出し、鞘放れ寸前に刃を水平にし、腰を伸ばして右脚を踏み込むと同時に蟒蛇うわばみの右側頭部に鋭い一閃が叩き込まれた。

 居合刀の刀身は折れることなく深々と切り裂き、その衝撃によって蟒蛇うわばみの頭殻が割れて血が噴き出す。

 それで終わりではない。

 瑠奈は刀を振り上げ両手で柄を握ると、蟒蛇うわばみの頭部を正面から縦に振り下ろす。

 制定居合十二本・一本目

 それであった。

 蟒蛇うわばみの頭が割られた。

 脳漿が飛び散り、眼球が眼窩からこぼれ落ちた。

 大量の血液が流れ落ちると、蟒蛇うわばみの身体は力を失い崩れ落ちた。

 その巨体は、ズシンと音を立てて地に伏したのだ。

 瑠奈は立ち上がると、大きく息を吐く。

 全身の筋肉が弛緩していくのが分かる。

 疲労感が込み上げてくるが、それを心地良く感じた。瑠奈は血振りを行って残心を極める。

 正面から葉月が近づいて来る。

 肩で息をしている。

 葉月は左肩に刻まれた傷からは血が流れていた。

 瑠奈は慌てて彼女に駆け寄ると、声をかける。

「葉月!」

 葉月はすぐに顔を上げて笑顔を見せた。

「大丈夫よ。それより、蟒蛇うわばみを封印しないと」

 葉月は札を取り出すと、痙攣を繰り返す蟒蛇うわばみに貼り付ける。

「蛇よ、我が言の葉に従え。此処に留まり封じ込められよ。八百万の神々の力と共に、邪悪なる存在を封ず。白玉の印により、永遠の眠りにつかん。神々の加護と共に、我が言の葉が力となりて、永遠の封印を成さん」

 祝詞を詠唱すると、蟒蛇うわばみの身体は葉月の声と共に、封印の札から霊気の輝きが放たれ、蟒蛇を包み込む。

 次の瞬間、蟒蛇の体が次第に輝きを失い、静寂に包まれていった。

 蟒蛇うわばみの巨体は消え去り、そこには白玉だけが残っていた。

 それは白磁のような美しい光沢を持つ白玉だった。

「それが、あの 蟒蛇うわばみなの」

 瑠奈が訊く中、葉月は白玉を拾い上げる。

「ええ。瑠奈、あなたのお陰で、災が去るわ」

 そう言って微笑む葉月の目には涙が浮かんでいた。

 やっと終わったのだ。

 葉月が、そう思った瞬間、力が抜けたのか膝から崩れそうになる。

 瑠奈は、そんな葉月を受け止めると、肩を貸してやる。

「しっかり。今お医者さんのところに連れってあげるからね」

 瑠奈は、葉月を連れて行こうとする。

「待って」

 葉月は瑠奈を呼び止める。

 彼女は瑠奈の手を取ると、その手に自分の手を重ねた。

 その手はとても暖かかった。

 瑠奈の体温を感じると心が安らいだ。

 葉月は今まで一人だった。《蛇解きの巫女》として生まれ、幼い頃から厳しい修行を強いられてきた。孤独の中で生きてきたのだ。

 そんな時に出会った少女が瑠奈だ。

 初めて出会った時から、瑠奈の存在は葉月にとって特別なものだった。彼女が自分を受け入れてくれたことで、葉月は救われたのだ。

「ありがとう」

 瑠奈にお礼を言うと、葉月は照れくさそうに顔を背けた。

 瑠奈は、その言葉を聞くと驚いたように目を見開く。彼女の口から出たのは意外な言葉だった。

「バカね。私達、友達でしょ」

 瑠奈の言葉に葉月は、意外な表情をする。瑠奈は、真剣な表情で見つめ返す。やがて、瑠奈の表情は優しいものへと変わっていった。

 葉月は頷くと、瑠奈に微笑みかけたのだ。

 それから、二人はお互いの手を取り合う。

 二人の手は、まるで姉妹のように固く結ばれていた。

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