第2話「オリヴィア、結婚し」「嫌です」
王の子が所有する、のどかな離宮で。
かつての婚約者、ハロルドが、オリヴィアに復縁を申し出る。
「オリヴィア、結婚し」
「嫌です」
オリヴィアは即答した。
妹とラブラブいちゃいちゃしていた姿が記憶に新しい男を、彼女はキッと睨みつける。
現状は、こうだ。
本来ならヒロインと結婚するべき攻略対象がなぜか修道院に現れ、なんと『ヒロインは死んだ』などと言い、退場した悪役令嬢を離宮に囲って求婚している。
訳がわからない。
「なんですか! なんなんですか? 知らない間に十日も経ってて……! それにレイラが死んだですって? いつ? 死因は?
どうしてわたくしはお葬式にも呼ばれていないの? わたくしの妹なのよっ! 悪い嘘なのではなくって!?」
婚約破棄と断罪イベントの舞台であった先日の卒業パーティーで、オリヴィアの化けの皮は剥がされている。
オリヴィア・ヴィルスティリアは、妹レイラへの愛を拗らせて悪事を重ねた姉馬鹿である――それは、すでに周知の事実であった。
だから、もうオリヴィアは、妹への愛を隠さない。
大好きな妹との思い出を胸に、彼女の幸せを祈り、修道院で慎ましく生きていく。それでよかった……のに。
現実を受け入れられないオリヴィアに、ハロルドは、また残酷なことを淡々と言うのだった。
「きみの妹は、もう、この世にいない――今は、そうとしか伝えられない。知らない間に十日も経っているというのは、きみが何度も記憶を失っているからだ。
どうやらきみは、妹の死について詳しく教えられると、ショックで記憶を消してしまうらしい。だから、今日からは、死んだとだけ伝えさせていただく」
「…………ひどい!」
この感情を表すに相応しい言葉が思いつかなかったオリヴィアは、なんとかしぼり出した一言で彼を責めるや、ついにメソメソと泣きはじめた。
みっともなく泣きたくなどないが、不可抗力だ。
ハロルドは、彼女を慰めるように頭を撫でる……けれど、オリヴィアはすぐに彼の手を払いのける。
「妹といちゃついた手で、わたくしに触らないで!」
「いちゃついてなどいない。俺は、ずっと、」
「嘘です! あの子のために婚約を破棄しておいて、今さら何をおっしゃるの? わたくしのすべてはあの子に奪われるものなの! そう決まっているの……っ!」
「……オリヴィア」
「っ、離して、ください」
修道院でされたように抱きしめられ、オリヴィアはいやいやと身をよじる。
幼稚な振る舞いだとは思う。
これでは、ハロルドと出会った、子どもの時と変わらない……。
「オリヴィア、聞いてくれ」
「何、をっ! レイラが死んだなんてお話はもう聞きません! いや! 離して……」
「俺の――心臓の、音を、聞いてほしい」
「…………は? しんぞう?」
言われて、耳をそばだててみると……彼は、どうやらドキドキしているらしい。
激しく動いているのが、わかる。伝わってくる。
(あらら……)
と動揺したのに気をとられ、気づけばオリヴィアは抵抗するのをやめていた。
(殿下って、こんなにご立派なお体だったかしら。こんなに背が高かったかしら)
なんというか、不意打ちで、彼の存在を感じさせられて。いつのまにか大きくなってしまった気がするハロルドに、オリヴィアもちょっとドギマギしている。
気まずい時が流れる。
「……殿、下」
「ハロルドで、いい。ハリーでもいいが。とにかく名前で呼べ」
「ハロルド、様……?」
「今はそれで許そう。いい子だ、オリヴィア」
妹レイラとおそろいのチョコレートブラウンの髪を、ハロルドは愛おしそうに撫でた。
(もしかして、レイラの代わりに求められているのかしら? レイラがいなくなってしまったから、あの子と半分おなじ血をひく、わたくしを迎えに……?)
記憶が欠けているせいか、生来の性格のせいか。オリヴィアは、自分へ向けられているという彼の恋心を、理解できない。
オリヴィアは、ハロルドを、誰かを恋愛対象として見たことがないのだ。
ハロルドはずっとレイラを愛していたはずで、学院や王宮で誰よりも長く彼の隣にいたのはレイラだった。レイラの隣にはいつもハロルドがいて、オリヴィアはずっとひとりきり。
今になって『オリヴィアが好きだ』と言われても、信じきれない。受け入れられない。
(わたくしの可愛いレイラは、この男に奪われ――いえ、違うわ。わたくしは、ふたりの幸せを願っていたもの。違う、違う……わたくしは!)
最後には妹と結ばれる、一時期だけの婚約者。
そう割り切っていた。ハロルドのことなんて。
レイラが幸せになれるなら、それでいいと自分に言い聞かせた。妹のハッピーエンドのために悪役を演じた。
それなのに、今ここに、レイラはいない。
この世界に、もういないのだと彼は言う。
(レイラは……本当に、死んでしまったの? こんなふうに、心臓が動いてはいないの? どうして?)
ハロルドの心臓の音を聞きながら、オリヴィアはレイラのことを想う。
彼がこんなにもたくましく成長していたことも、彼女は今日まで知らなかった。気づいていなかった。
(殿下の……生きている音……あぁ、レイラ……レイラは、どこ……?)
まるで手慣れた恋人のように、ハロルドはオリヴィアの耳元へと囁く。
熱っぽく、切なげに。
「きみが、どんなに現実を拒否しても。いろいろな思い出を、忘れても。俺は、昔から、オリヴィアが好きだ。嘘だと突っぱねられても、何度でも言う。――好きだ、オリヴィア」
彼ほどにはドキドキしないけれど、オリヴィアの鼓動も、ほんのちょっとだけ速くなった。
男のひとに抱きしめられ、愛を囁かれたことなど、彼女の記憶には、ない。
前世でも、今世でも。
愛される子は妹で、彼女は愛されない子だった。
「あの日から、きみの言うエンディングの時まで、ずっと我慢していたんだから――」
ハロルドはオリヴィアの顎をすくい、頬に触れ、涙で濡れた顔に口づける。
体が拒絶に動くことも、心が拒否することも、なかった。意外なほどに大丈夫だ。
「愛を伝えることくらいは、許せ」
蒼色の瞳と、目が合う。
そこに映るのは、レイラではなくオリヴィアだ。
可愛くない返事だと自覚しながら、オリヴィアは「ご命令ならば」と頷いた。
自分の涙がいつしか引っ込んでいたと気づいたのは、彼の頬を伝う涙を見た時のこと。
(レイラが死んだ時も、ハロルド様は泣いたのかしら)
と。いまいち現実感のない〝レイラの死〟を想像しながら、オリヴィアは思う。
彼女の記憶の中で、レイラはずっと美しく、可愛らしい、――唯一だ。
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