第四十三話 せせらぎのように流れる涙

 じいじは言った。


 最期に言った。


【お日様の下で死にたかった】


 じいじは農家だった。


 先祖代々受け継いだ開墾の土地で野菜を作っていた。主にトマトを作っていたけど、その時の関心事やブームに感化されて、新しく野菜を作ることもあった。

 

 周辺の農家が後継者不足や金銭面の都合からやめていく中、じいじは続けていた。それどころか、空いた農地を買い取って、事業を拡大させていた。畑はいつしか農場へと成長していた。


 すぐに人手が足りなくなり、人を雇うようになった。


 従業員に慕われながら、畑で汗を流す。そんなじいじのことが、音流は大好きだった。


 農場は音流の家から遠く、いつも自転車を漕いで向かっていた。


 学校の帰りや休みの日に突然行っても、じいじはいつも笑顔で手招きして、優しい笑顔を向けてくれた。


「そろそろ休憩しようと思ってたんだ」


 そう言って、じいじはクーラーボックスからサイダーを取り出す。


 結露して水滴だらけ缶ジュース。音流はそれがたまらなく好きだった。家では炭酸飲料をあまり飲ませてもらないためか、それともじいじと一緒に飲んでいるからか、この上なくおいしく感じた。


「おお、音流ちゃんじゃねえか」


 サイダーを飲みながら雑談をしていると、従業員の一人が気づいた。すると、ばあばを含めて全員が集まって、音流とじいじを取り囲んで座る。


従業員は三人いて、性別も年齢もバラバラだ。しかし全員共通して農家特有の朗らかさを持っていた。


「音流ちゃんも随分ベッピンさんになっちまって。どうだい、おらの息子の嫁に」


 その時の音流は小学校の卒業が近づいており、中学校に向けて色々と大人っぽさを学んでいる最中だった。


「いやー、うちの息子のお嫁さんに欲しいぐらいいい子だ」

「バカいっちゃいけねえよ。流石のあんたでも怒るぞ」


 じいじ従業員には詰め寄った。


「そんな顔しないでくれよ。ちょっとした冗談じゃねえか」

「冗談でもいっちゃならんことがあるだろ。音流はおれと結婚するって言ったんだ」


 じいじの自信満々な顔を見て、音流は恥ずかしくて顔を真っ赤にした。確かに言ったことはあるのだが、幼稚園時代の話だ。じいじがしきりに話題に出さなければ、本人も忘れていたであろう黒歴史だ。


 我慢できずに音流が飛び出す寸前だった。


 パンパン、と軽快な柏手が鳴った。


「ほら、長話ばっかしちょって、日が暮れちまうよ」


 ばあばが取り仕切ると、散り散りに畑に戻っていった。


 いつもそんなゆるい雰囲気だった。


 余裕がある日は畑のお手伝いをしたり、作業風景を眺めていたりしていた。


 畑仕事が落ち着く時期は、よくじいじと日向ぼっこをしていた。


 海のように青い無地のビニールシートを敷いて、畑の横に寝そべるのが好きだった。


「最近の子供はピコピコをするんじゃねえのか」


 じいじにそう訊かれて、音流は「ウチはこっちがいい」と答えるのが常だった。じいじ「そうか」とだけ言って、それ以上深堀りをしない。


 日向ぼっこを楽しむのに――自然を味わい尽くすのに、多くの言葉はいらない。


 周囲になんの建物がないから味わえる、まっすぐで自然的な風。


 直情的に温めてくれる陽光。


 横を向けば、じいじが静かに寝息を立てている。


 解放感と安心感で胸がいっぱいになり、満ち満ちた息を吐く。


 学校であった嫌なことも、思春期特有の悩みも、なにもかもを忘れられる時間。


 元々悩みを抱えやすい性分の音流とは相性が良かったのだろう。いつしか、どんな時間よりもじいじとの日向ぼっこが大好きになっていた。独りではなく、じいじと一緒なのが重要だった。


 両親と暮らし、小学校に通い、時々じいじに会いに行き、日向ぼっこをする。


 音流はそんな日々が好きだった。進学に対する不安もあったが、じいじに会うだけで忘れられた。


 そんな日々も長くは続かなかった。


 小学校最後の夏のある日。


 突然、全校放送で呼び出された。友達に茶化されたり、心配されながら職員室に向かうと、ママがいた。


 ドアを開けた瞬間、衝撃的な事実を告げられた。


「お義父とうさんが——じいじが倒れたって」


 聞いた瞬間、頭の中が真っ白にんなった。音流は車に乗せられて病院に向かった。


 じいじの頭の中の欠陥が破裂したのだ。幸いなことに一命はとりとめていた。


 よくうねった畑の上で倒れたおかげで、外傷はなかった。それでも酷い後遺症は免れなかった。


「にゃんづえ、わしゃ ぃきた」


 下半身が麻痺し、十分に歩けなくなった。舌足らずでしか話せなくなり、顔もどこか老け込んでいた。


 入院生活で運動も出来ないためか、じいじの体はみるみる痩せていった。日焼けで黒かった肌も青白くなり、皺が増えていった。


 じいじはまだ五十歳手前だったが、見た目は老人ホームにいる人達と大差なくなっていった。


 尿管を通して、ベッドの上でテレビを見るだけの日々。自分でテレビカードを買いに行くことも、カードを挿入することもできず、食事もすべて介助されていた。すべてを看護師に任せるしかない生活。


 面会に来る家族と談話。


 音流はそんな生活を、心のどこかで楽しんでいた。じいじとゆっくり話す時間が増えたからだ。


 しかし、じいじは違っていたのかもしれない。


「にゃんづえ、わしゃ ぃきた」


 何でわしは生きた。たまに口にしていたそのフレーズを、誰も気に留めていなかった。いや、聞かなかったことにしていたのかもしれない。


 しばらく入院生活が続いていたのだが、じいじの体調が安定していたこともあり、自宅療養を勧められるようになった。


 パパとママは悩んだ末に自宅療養を決めた。


 両親がケアマネージャーと相談して、介護ベッドを借りて訪問看護や在宅入浴の手配を進めていた。じいじのベッドはリビングに置かれて、テレビをいつでも見られる特等席だった。

 古い家だったから段差が多くて車いすでの移動が難しくて、至るところにスロープが設置された。


 準備が進む度、音流は目を輝かせていた。じいじが家に帰ってくる。もっといっぱいお話しできるし、何より家に帰ればじいじがいる。音流にとっては、こんなにうれしいことはなかった。


 あっという間に、退院当日を迎えた。


「過ごしやすい天気だね。じいじ」


 じいじが乗った車椅子を押しながら、音流が話しかけた。


 じいじはなにも答えなかった。ただ空を見上げていた。その視線は、曇天の向こうにいる太陽を見抜くかのようだった。


「おてんつぉしゃん、おふぁようごぜえましゅ」


 舌足らずだったが、元気に挨拶をしていた。


 じいじの要望もあり、家よりも先に畑に向かった。


 その時の畑は秋野菜の収穫時期だった。秋ナス・かぼちゃ、にんじん……。ばあばと従業員の努力もあり、視界いっぱいに野菜が広がっている。


 その光景がじいじからどう映ったのかわからない。しかし感情を強く揺さぶられたのは確かだった。


 じいじは予想外の行動に出た。


「おれのはたけ」


 はっきりした声だった。


「おれのはたけ」


 動かないはずの脚が跳ねた。


「おれのはたけ」


 車椅子から転げ落ちて、震えた脚で立ち始めた。


「おれのはたけおれのはたけおれのはたけ」


 まるで駄々をこねる赤ん坊のように、同じフレーズを繰り返していた。


 念願の畑を這いつくばりながら進むじいじを、家族全員で止めようとした。だがしかし信じられない程の力で、四人を跳ねのけた。


 きっと、それが最期の力だったのだろう。


 畑の土にまみれたじいじは、動かなくなっていた。


 息絶えるまでのほんのわずかな口が動いていた。


【お日様の下で死にたかった】


 それは声になっていなかったのかもしれない。事実、音流以外の誰にも聞こえていなかった。

 そんな不確かな言葉は、音流の心に深く刻みこまれた。


 やがて、じいじの呼吸も心拍も完全に止まった。

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