第三章 へたっぴ歌唱狂騒曲

第十六話 カラオケボックスは地獄の三丁目

 ドア一枚挟んだ廊下から、楽しそうな笑い声が漏れ聞こえている。


 何種類ものジュースを混ぜたのか、奇妙な色をした液体の入ったコップを持った子供が駆け出し、母親は慌てて追いかけている。


 今の陸にとって、それは遠い国の光景のように見えていた。


(どうすんだよ、これ)


 カラオケルームという娯楽施設にて、陸はかの有名なブロンズ像『考える人』と同じポーズをとっていた。

 実は考えているのではなく地獄を覗いているという説を思い出して「ピッタリだ」と陸は勝手に納得した。


 それほどまでに地獄じみた空間に身を投じているのだ。


 カラオケボックスの中は重い空気に包まれており、まるでお通夜のようだ。

 陸は前述の通り『考える人』になっており、音流は手で顔を覆ってふさぎ込んでしまっている。


 そんな中で、楓は奇声を上げ続けている。聴覚を持つ生物をすべて絶滅させようとしているのかと疑うほどの不快音だ。


(なんでこうなった……?)




 事の経緯は前日にさかのぼる。


 その日、陸は『Bruggeブルージュ喫茶』でレアチーズケーキを堪能していた。そして、いつも通り割引券を餌に、君乃から頼まれ事をされた。


 それが『楓の歌唱力改善作戦』だった。端的に言えば、商店街ののど自慢大会に出る楓の歌唱力を向上させてほしい、というものだ。陸に断る理由はなかった。


 早速次の日、楓を捕まえてカラオケボックスに向かうことにした。

 『Bruggeブルージュ喫茶』の定休日であり、都合がよかった。行く途中、校庭で日向ぼっこに興じていた音流も仲間に加え、意気揚々と校門を後にした。


 しかしこの時の陸は理解できていなかったのだ。君乃が心配していたのが『歌下手で恥をかく妹』ではなく『妹の歌を聞く観客』であったことを。


「それじゃあ、歌うね」


 まずは現状把握ということで、楓の歌が披露された。


 たった一音だった。


 それだけで二人は察した。この人は音痴だ、と。それも壊滅的なレベルだ


 歌は小学生がイベントで合唱するような簡単な曲だった。しかし音程もリズムもズレにズレており、逆に合っている箇所を探すのが難しいほどだった。

 たまに可聴域ギリギリの高音が鳴り響き、耳が痛くなる。極めつけには耳をふさごうとも指のバリケードを貫通する大声量だ。


 それは防衛本能だったのだろう。聞き終わった頃には陸も音流も思考を止めていた。


(僕達は何を聞いていたんだ……?)


 徐々に意識が明瞭になっていくにつれ、楓の手元——握っているマイクに視線を移した。


(マイク、よく耐えた!)


 陸が一番感心したのはマイクの頑丈さだった。壊れていれば弁償せざるを得なかっただろう。


「どう? マイクやモニターには好評なんだけど」

「モノに歌の良し悪しを聞くな!」


 陸の中でうなぎ上りだったマイクへの評価がガクッと落ちた。


「モノに対する差別でしょ!」


 楓が売り言葉に買い言葉で声を上げるのを聞き、陸はさらに頭を抱えた。


「ウチはどうすればいいですか?」


 このままではらちが明かないと考えたのか、音流がおずおずと手を挙げた。


「とりあえず、参考に何か歌って」

「了解です!」


 音流が歌ったのは優しい雰囲気なバラードだった。最近流行したドラマのテーマ曲であり、高音の出し方が難しい曲だ。


(あー、これだよ、こういうのだよ)


 まるで歌手のよう、とまでいかなくても鼓膜が心地よく揺れる様な感覚だ。さっきまでの落差に、陸の瞳に涙があふれており、盛大な拍手を送った。


 そんな陸に対して楓は鋭い視線を送り「今度はお前が歌うんだよな?」と言外に圧を掛けた。しかし音流の後で歌いたくない陸はてこでも動こうとしない。


 そんな状況を見かねて、音流が声を上げる。


「同志の歌も聴いてみたいです」

「……しょうがないなぁ」


 どこかうれしそうに言いながら、スクッ、と立ち上がり、タッチパネルを操作し始める。

 そんなわかりやすい陸に、楓が白けた目を向けると、すぐに全く指が動いていないことに気付いた。


「どうしたの?」と楓が自然に訊くと

「な、なんでもない!」と陸は明らかに動揺した。

「なに? 使ったことないの?」


 楓の冗談まじりの質問を聞いた瞬間、陸の表情が固まってしまい、言葉にしなくても伝わった。


「ほら、貸して。どの曲がいいの」

「あ、えっと。別にカラオケが初めてとかじゃないから……」

「はいはい。使い方教えるから」

「……はい」


 意気消沈した陸は、大人しく楓のレクチャーを受けた。その間、音流はメニューを開いて注文を選んでいた。 


 やっと曲が流れ始める。歌い始めたのは有名なアイドルの代表曲だった。歌詞を覚えていないところは誤魔化しつつ歌い切った。マイクを置いた陸は無表情のままソファにボスンと座った。


「なんというか、評価しにくいです」

「まるで機械みたい」


 二人の歯に衣着せぬ評価を聞いて陸は


「そうですか、そうですよ、そうですとも、こんなもんだよ!」とへそを曲げてしまった。


 陸は音程やリズムを合わせることができるものの、感情を加えるのに苦手意識があった。歌っている間は音程の判定を追うことだけでいっぱいいっぱいになってしまうのだ。気持ちよくなる、なんてことは考える余裕はない。


「やっぱり真面目過ぎます」

「……真面目じゃないし」


 陸は露骨に嫌そうな顔をした。


 思春期の陸にとって"真面目"と称されるのはカッコ悪く感じているのだ。


 自分よりも真面目な人間はごまんといるし、自分は常に正しい行動をとっているわけではない。そんな自分が真面目と言われるべきではない。

 そんな反論を聞いた音流は


「やっぱり真面目すぎますよ」とさらに笑い飛ばした。


「そんなに真面目? 屁理屈の間違いじゃない?」と楓は納得いかないのか小首を傾げた。

「真面目ですよ。だって、日向ぼっこについて色々調べていたんですよ。突然ウチの額に虫眼鏡をかざしたのは笑いそうになりました」

「なにそれ。小学生の自由研究?」


 楓がクスクスと笑った。


「太陽光が地球まで届く時間なんかも調べてたんですよ。その日の夜に思い出してニマニマしてしまいました」

「それって日向ぼっこからズレてない?」

「そうですよね。しかもスマホが勝手に表示したなんて言いだしまして。それがかわいくて」


 二人のテンションがどんどん上がっていく。


「バカだ」

「それにですね――」


 音流がさらに話を深堀りしようとした瞬間


「もうやめてくれ!」と陸が音を上げた。


 顔は真っ赤に染まっており、今すぐにでも泣き出しそうだ。さらには


「もういっそ殺してくれぇ。レアチーズケーキの穴があったら入りたいよぉ」と陸は幼児のようにぐずり始めてしまった。


 音流は若干距離を取りながら


「えっと同志、レアチーズケーキはドーナツではないんですよ。とりあえず歌でも歌いませんか。スッキリすると思いますよ」と優しく慰めて、マイクを手渡した。


 すると、陸は『レアチーズケーキの歌』を歌い始めた。もちろん、そんな歌はこの世にある訳がなく、即興で自作のアカペラだ。


 どこか機械的で奇妙なアカペラが流れる中、音流が注文したフライドポテトが運ばれてきた。


「いただきます!」


 大皿に山盛りに積まれたフライドポテトがみるみる消えていっているのだが、楓は他のことを考えており気づいていない。


「そっか。鈴木は結構手伝ってるんだね」


 ポツリと呟いた楓の顔は暗い。


「同志はなんだかんだお人よしですから」

「ごめんね。日向ちゃん。わたし、あんまり手伝えていない」


 突然の謝罪を聞き、音流は油まみれの手をウェットティッシュで拭き始めた。


「もっと手伝えるようにするね」


 自分の指がベトベトしないことを確認してから、手を取った。


「そんなことないですよ!」


 音流はズズイと顔を近づけて、力説し始める。


「青木さん、ウチはすごく感謝しているんですよ。青木さんはウチのバカげた願いを真剣に聞いてくれました。否定するでも止めるでもなく手伝うって言ってくれたんです。それがウチはスッッッゴクうれしかったんです!」


 呆気にとられた楓は、太陽のごとく輝く音流の瞳から目を離せなくなっていた。


「それに、そんな義務感でウチと接さないでください。友達じゃないですか」

「友達……」


 楓は信じられない物を見たように目を見開いた。その反応を見て、拒絶されたかもと感じた音流は急転して弱気になる。


「あ、いや、その、えっと……ウチが友達だと嫌ですか?」


 楓は音流の手を取り、力強く握りして、叫ぶ。


「そんなこと全然ない!」


 感極まった二人は、さらには抱き合い始めた。


「じゃあ、これからは下の名前で呼んでもいいですか? ウチのことは音流と呼んでください。音が流れると書いて音流です」

「うん、よろしく、えっと、ネル……ちゃん。わたしは楓って呼んで」

「改めてよろしくお願いします、楓さん」

「うん、ネルちゃん」

「はい、楓さん」

「ネルちゃん!」

「楓さん!」

「ネルちゃん!!」

「楓さん!!」


 お互いに名前を呼び合い、握った手をブンブンと振り回し続けた。


(なんかめちゃくちゃ仲良くなってる)


 レアチーズケーキの歌を歌い終えた陸は、自分を蚊帳の外にして盛り上がっている女子二人を不思議そうに見ていた。


 それからはテンションが上がり切った音流が何曲か歌った後、お開きとなった。


 カラオケボックスから出ると、すでに夕日が沈みかけており、街灯がともされていた。


 商店街ののど慢大会まで約3か月。『Bruggeブルージュ喫茶』の定休日の放課後にカラオケで練習することになった。その際「自分は必要ないだろ」と陸だけは抵抗したのだが、最終的にはレアチーズケーキの割引券を前にして屈服した。


「変な人ですけど、扱いやすいですよね」


 そんな音流の何気ない一言が、思春期少年のプライドにグサリと刺さった。ヘソを曲げた陸はさっさと一人で帰ろうと駆け足になった。


 そんな矢先だった。


「うわっ!」


 突如、白いフンが鼻先をかすめた。上体を逸らしてすんでのところでかわしたものの、靴のつま先が汚れた。


 見上げると一匹のカラスがいた。先日楓と兄弟喧嘩をしていたカラスなのはすぐにわかった。


「うわ、最悪——」


 陸が言い切るよりも早く、楓が動いた。


「何やってんの!」

「カァ!!!」


 まるで出来の悪い弟を叱るような口調で叫んだ。


 カラスはそれに応じるように羽をバタつかせた。また少女とカラスの喧嘩が始まった。


 音流はその光景を見て笑いをこらえていた。


 陸は汚れた靴を見た母親がする鬼の形相で頭の中がいっぱいだった。


 楓はカラスに幼稚な罵詈雑言をぶつけ続けている。


 ちぐはぐな三者三様の中、夕日は落ちていった。

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