第8話 恋人ならパンツくんかくんかするよね?
トイレの鍵が開いていたので中に入ると、姫奈は便器に顔を近づけ、うずくまっていた。
「大丈夫か、姫奈」
彼女の横に座って、背中を擦ってやる。
「どうしてアイツを連れてきたの……」
掠れた声で、姫奈は僕に訴えてきた。
「それは……今朝のままじゃいけないと思ったからだ」
「アタシはアイツに会いたくなかった。お兄ちゃんに彼女なんて認めない……。別れて」
「それは僕が決めることだ」
はっきりとそう伝える。姫奈は大切な妹だけど、それでも、僕と重叶さんの関係を否定される筋合いはない。
「嫌だぁ……! お願い、一生のお願い‼ お兄ちゃんに彼女なんて嫌だぁ‼ なんでもするから‼ 別れてくれたらアタシがお兄ちゃんのためになんでもするから‼」
その反応だけで、姫奈の精神がかなり不安定になっていることがわかった。
「彼女が出来たことを黙っていたのは悪かった。けど、まさか姫奈がそんな風になるなんて思っていなかったんだ。むしろ姫奈なら、僕に彼女が出来たことを祝福してくれると思っていた」
「アタシはそんな出来た人間じゃないよぉ……。お兄ちゃんの前では虚勢を張ってただけだもん。キモオタのお兄ちゃんに彼女が出来るなんて思ってなかった。どうせこの後、アイツとお兄ちゃんはエッチするんだぁ。嫌だ嫌だ嫌だ考えたくない……ぉええええええ」
嫌な想像をしてしまったのか、姫奈が再び嘔吐する。
今まで、姫奈は強い人間だと思っていた。
成績優秀、運動神経抜群、恵まれた容姿。異性からも同性からもモテモテで、兄の僕とは比べ物にならないくらい優秀な人間だった。
しかし、僕に恋人が出来たと知った今の姫奈は、この有様だ。
「そんなに僕に彼女が出来たことが嫌だったのか?」
「嫌に決まってる。わかってよ、それくらい察してよ。家族なら察してよ」
「僕にはわからないよ。別に僕に彼女が出来たからって、姫奈の人生がおかしくなるわけじゃないだろ? なんでそんなに嫌なんだよ?」
「それは……だってぇ……うぅ。言えるわけない……。うぅ……、ひっく、うぅ……」
姫奈の目尻からぽろぽろと涙が溢れ出す。何度も嗚咽し、抑えきれない声を漏らす。
「ダメな妹でごめんなさい。でもアタシのこと嫌いにならないでください。お願いします、お願いします、お願いします」
嫌いにだけはならないでと、何度も何度も懇願する。
「大丈夫だ、僕が姫奈のことを嫌いになるわけがない。大事な妹なんだから」
「妹じゃなかったらこんな女嫌いですか?」
やはり様子がおかしい。いつもの姫奈じゃない。いつもの姫奈なら、僕に敬語を使ったりしない。むしろ、生意気な態度で僕を罵倒してくる。それがいつもの姫奈だ。
だが、今日の姫奈にはそれがない。明らかにおかしい。
とにかく、今は姫奈の精神を安定させることが最重要だ。
「妹じゃなかったとしても、姫奈のことを嫌いになんてならない」
「じゃあ、異性として見れる? あの女とアタシならどっちが大事?」
それを聞いて真っ先に思ったのは「そんなタラレバに意味はあるのか?」だった。しかし、姫奈の精神を安定させるためには、そんな質問にも真面目に答えることが重要だ。
「異性としては……多分見れない。やっぱり姫奈は妹だから。重叶さんと姫奈なら、どっちも同じくらい大事だ。差異はつけられないよ」
「終わった。死んだ。もう無理。もう死ぬ」
(えぇ……)
あまりに極端な反応に困惑するが、表情には出さない。出せない。
「死ぬなんて言うな。死んだら父さんも母さんも、僕も悲しい」
「じゃああの女と別れて」
「それは出来ない」
そこだけははっきりと否定する。
「あぁああああああああああああああああああああああああああああああ」
姫奈が頭を抱える。
「もういい。もういいもん! アイツとセッ〇スすれば!? 童貞卒業出来て良かったね‼ ああもうホント無理‼ 辛いなんでアタシだけこんな辛いのこんなの知りたくなかった嫌だ嫌だ嫌だ、うわぁあああああああああああああああああん‼」
姫奈は僕を振り切り、自分の部屋へ走って行く。バタン!と勢い良く扉の閉まる音がトイレにまで響く。
「やっちまった……」
結局、姫奈の精神を安定させることは出来なかった。
家に重叶さんを連れてきたことが、そもそもの間違いだったのだろうか。重叶さんと姫奈の関係修復が出来れば……という思いで彼女を家に連れてきたのだが、逆効果だったようだ。
とにかく今日は、重叶さんと姫奈を鉢合わせないほうがいいだろう。
僕は嘔吐の後処理を済ませた後、自室に戻る。
ガチャッと扉を開けると、部屋の中にいた重叶さんの身体がびくんと震える。
「あ、相生くん……。おかえり、姫奈ちゃんは大丈夫そう?」
僕に背を向けていた彼女は、振り返りながらそう訊いてくる。
「いや、かなり精神的に不安定な状態みたいだった。せっかくお見舞いに来てくれたとこ悪いんだけど、今日は姫奈に会うのは諦めてくれるか? 今の姫奈と重叶さんを会わせるのは危険だと思うんだ」
「そっか。残念だけど、わかったよ。えっと、相生くんは姫奈ちゃんの側にいなくて大丈夫?」
「側にいてやりたい気持ちはあるけど、多分、今はそっとしておいた方がいいと思う。まあ、重叶さんが帰った後にでも、姫奈ともう少し話してみるよ」
「……ってことは、今日はこのままお家デート?」
「そういうことになるかな……」
本来なら姫奈の看病をしてやるべきなのだろうが、せっかく家まで来てくれた重叶さんを放置しておくわけにもいかないしな。
僕は姫奈と重叶さんを天秤にかけた結果、重叶さんの方を選んだ。
薄情と思われるかもしれないが、どうか許してほしい。
姫奈が「もう死ぬ」と言っていた点だけが気がかりだが、僕の予想では、あの言葉は本心じゃない。彼女が本気で死のうとしているとは考えにくい。
それよりも、今の姫奈に必要なのは、一人の時間だろう。
そう考えたこともあり、今は姫奈より重叶さんを優先させてもらうことにした。
僕は一度頭を切り替えて、重叶さんとのお家デートを存分に楽しむ方向にシフトする。
「ところで……」
一つ、部屋に入った瞬間から思っていたことを重叶さんに言わせてもらうことにした。
「なんで僕の下着を漁ってるの?」
「はっ!?」
そう。何故か重叶さんは僕の下着(パンツ)が収納されているタンスを開け、そこを漁っていたのだ。
「あ……うっ……! これは違くて‼」
「何が違うの?」
「最初からタンスが開いてたの!」
言いながら、重叶さんは手に持っていた僕のパンツを後ろ手に隠した。
「最初から開いてたとして、何故僕のパンツを手に持っているの?」
「こ、これは、あぅ……。まあ、彼女だし……彼氏の下着事情を把握しておくのは当然かなって」
「流石に苦しくない?」
「か、代わりに私の下着をタンスに入れとくから見逃してください‼」
重叶さんは突然スカートの中に手をかけて、下着を脱ぎだした。
「いやいやいや急に何やってんの!?」
彼女の奇行に、僕は全力でツッコミを入れる。
「相生くん私のパンティ欲しいよね!? 等価交換しよっか!?」
「自分がおかしな発言してることに気づいてる!?」
「わ、私はただ、彼氏のパンツをくんかくんかしてただけですけど!? 恋人としては正常な行動では!? さらに言うと、あまりにも相生くんのパンツが良い匂いだったから、一枚貰っていこうと思っただけなんですけど!? ここまで聞いて何か文句ありますか!?」
「文句というか、あんた何やってんのって感じですけど!?」
「ああ、もう‼ そんなに私のパンティが欲しいならあげるって‼」
重叶さんは脱いだパンティを僕に向かって投げつけてきた。彼女のパンティは見事僕の顔にクリーンヒット‼ ちなみに色はピンク‼
「はいこれで平等‼ 私も相生くんのパンツ貰っていいよね!?」
もはやヤケクソなのか、重叶さんは手に持っていた僕のパンツを鼻に持って行き、臭いを嗅ぎ始める。
「ああ、絶妙にくっさい♡ 良い匂い……」
「恥ずかしいからやめてくれる!?」
なんだか、姫奈だけじゃなく重叶さんまでおかしくなってないか?
僕は重叶さんの脱ぎたてパンティを左手に握り、右手の人差し指で床を指す。
「重叶さん、とりあえず正座」
「はい……」
数分後。
「はあ。つまり、僕のパンツの匂いを嗅ぎたくて勝手にタンスを開け、実際に匂いを嗅いでみたらパンツが欲しくなったので、一枚拝借しようとしたと……。なんだそれ!」
「すみません。相生くんの部屋に来て調子乗りました……」
重叶さんは正座し、事の顚末を説明してくれた。
「重叶さんって……もしかして結構変態?」
「愛する人に対してのみ、変態性を発揮するみたい」
「嬉しいような……でもなんか複雑」
「相生くん、好き」
「僕も好きだけど……今はそういうことではなくてね?」
「はい……」
僕は床にどさっと座り、重叶さんに左手を差し出す。
「とりあえず、この下着返すから、僕のパンツも返してくれない?」
「嫌だと言ったら?」
「短い間だったけど……」
「ああ待って待って‼ 別れ話を切り出そうとしないで!? 返すから、今すぐ返すから‼」
観念したのか、重叶さんは僕にパンツを返してくれた。僕も彼女にパンティを渡す。
「せっかくの脱ぎたてだけど、匂い嗅がなくて大丈夫?」
「…………(ぶっちゃけ、ちょっと嗅ぎたい!)」
けど、それを僕から言うのは抵抗がある。
「あ♡ 嗅ぎたいんでしょ? 今、私にパンティ返したのちょっと後悔してるでしょ?」
「してないよ!(してる!)」
「ほら、いいから嗅いでみて……」
重叶さんは僕の隣に寄ってくると、手にもつパンティを僕の鼻先へと持ってくる。
「はい、これで同罪♡」
「くそ、欲望には抗えなかった! 僕のバカ野郎‼」
だが、後悔はしてない。
「ふふ。エッチ♡」
「ぐわぁああああああああああ‼」
何かが僕の胸を打ち、下半身にものすごい勢いで血流が流れるのを感じる。
「ほら、今こそ自分の中に秘められた欲望を解放する時だよ?」
瞬間、重叶さんは僕を押し倒し、両手で僕の顔をホールドしてくる。
「う、うぅ……」
僕の口から情けない声が漏れていた。
「相生くんの身体は正直だね。私は嬉しいよ。はあ、はあ」
そのまま、彼女は僕の唇を奪った。舌も入れられてしまった。
何度かキスを重ねるうちに、頭の中が真っ白になっていく。
意識が朦朧としていく僕の右手を、重叶さんは掴んだ。そして、それを自分のスカートの中へ運ぶ。
「私、今ノーパンだけど……触る?」
「そんな……ダメだよ……」
「ダメじゃないよ。触っていいよ」
ああ、もう僕は、抗えないかもしれない。
彼女の言葉に流されるまま、僕は――。
――――ドン‼
失われかけていた理性は、何かを叩くようなその音によって引き戻される。
「させるかよ‼」
荒々しいその叫び声は、扉の方から聞こえてきた。
声がした方に目をやると、そこには扉を開け放つ姫奈の姿があった。
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