第5話 シトラスブルーム

俺は海に面した潮見町に住む悠斗。潮見高校写真部の部員で、二人しかいないうちの一人だ。今日、この潮見町で年に一度行われる蒼海夏祭りがある。そして俺は、憧れの先輩である三月先輩を誘い、告白する予定だったが、夏祭りが行われる海岸へ自転車で急いで向かっていた。


急いでいた理由は寝坊したから。三月先輩と夏祭りを回れるのがうれしく、遠足前の子供のように興奮して一睡もできなかった。そして、昼食を食べた後に眠気が一気に襲ってきたので、約束の時間まで少しだけ眠ることにした。が、それが間違っていた。起きた時には18時半。先輩と約束したのは19時。

シャワーを浴びる時間も無かったので、制汗剤をこれでもかと体に吹き付け、寝汗のにおいを誤魔化し、自転車のカギと財布とスマホをポケットに押し込んだ。カメラも持っていこうと思っていたが準備する余裕はなかったので諦めて家から飛び出た。自転車に乗り、蒼海夏祭りの会場である大きな港に向けて全力でペダルを回した。頑張っても50分か、いや全力で漕げば30分でつけるか。そんなことを考えても早く到着するわけじゃないと思った俺は、制汗剤を付けた意味はないのではないかというほど汗をかきながら全力で漕ぎ続けた。信号待ちの時間が煩わしく思いながらも、補導されたら余計間に合わなくなるので、赤信号を睨みつけ、青になった瞬間、また自転車を漕ぎ始めた。


あの坂を下れば港はもうすぐそこだ。そう思い、より一層ペダルを踏みこんだ瞬間、ガチィンという音と共にサドルから俺の腰がふわりと浮き、地面に叩きつけられた。受け身をとったのでちょっとした擦り傷と肩がじんじんと痛いだけで済んだが、自転車はチェーンが外れて使いもにならなくなっていた。すでに日は落ちていて、薄暗いちらちらと照らす街頭を頼りに外れたチェーンを直そうとしたが、視界が悪い上に焦ってしまいなかなかうまくはまらなかった。チェーンの油で黒くなった手を見てため息をついた。この坂の上からは屋台の光が海岸沿いに並んでいるのがよく見える。あそこのどこかで三月先輩が俺を待っていると思うと、自分の運の悪さに腹が立って仕方がなかった。


あそこで強く踏み込まなければ。いやいや、そんなことを考えても自転車が直るわけではない。もういっそ、この自転車を置いて坂を下ってしまおう、そう思い立ち上がると、誰かが坂の方から歩いてくるのが見えた。その人物が街灯に照らされると、朝顔の模様が入った青い浴衣を着て、いつもの長い髪をお団子にした三月先輩が目の前に現れた。


「せ、先輩が、何でここに」


俺が取り乱す姿を見て三月先輩はくすくすと笑った。


「かき氷を買って、食べながら屋台村の入り口で君を待ちながらこの坂を眺めていたら派手に転んでる人が見えてね、君かなって思ってきてみたのさ」


する三月先輩は「ほら」と言って青い舌を見せつけてきた。


美月先輩は舌を口の中に戻し、倒れた自転車を見た。


「チェーンが外れたのか」

「はい、そうなんです」

「だから手が黒いのか」

「あ、はい。急いで直そうとしたんですけど、ここ微妙に暗くて」


俺がそう言うと、美月先輩はニヤリと笑った。


「そんなに私と夏祭りに行きたかったのか」


からかうような表情で美月先輩が問いかけてくるので、俺は食い気味に「そりゃあそうですよ」と言うと、美月先輩は驚くような表情をした。


「そうか、じゃあ早いところ直さなきゃな」


すると美月先輩は、髪のゴムを外して自転車の横に屈み、そのゴムひもをチェーンに引っ掛けると思い切り引っ張った。


自転車は直り、美月先輩は誇らしげな顔をして俺の方を見て口を開いた。


「ほら、直ったぞ」

「あ、ありがとうございます!」

「じゃ、これ捨てておいてくれ」


美月先輩はそう言うと、汚れたゴムひもを差し出し、俺はそれを受け取った。


美月先輩が伸びをして「それじゃ、いこうか」と言うと、美月先輩の後ろで打ち上げ花火が咲いた。轟音を響かせ、美月先輩を照らした。その美月先輩はいつも以上に綺麗に見えて、俺は今この瞬間に告白しようと声を張ろうとした瞬間、美月先輩がそれを遮ってしゃべり始めた。


「あー、間に合わなかったな、花火。まあ、ここからでも十分綺麗だがな」


遠くで次々と咲く打ち上げ花火を見ながら美月先輩は残念そうに言った。


「打ち上げ花火に間に合わなかった代わりに、屋台で手持ち花火でも買って帰りに公園で遊ぼうか」


美月先輩はそう言って振り向くと、その顔は笑っていた。


「いいんですか?」

「別にいいだろう、減るもんじゃないだろうし」

「そうですね」

「まあ、打ち上げ花火は来年でも見れるからな」

「え、先輩、来年も一緒に来てくれるんですか?」


俺がそう言うと、先輩はむくれたような表情をした。


「なんだ、私じゃ不満か?」

「いえ、むしろうれしいですよ!」

「そうか、じゃあ来年はチェーンが外れないことを願っておくよ」


そう言って美月先輩は振り向いて歩き始めた。俺も自転車を起こして先輩に追いつこうとした時、歩きながら花火を眺める美月先輩を見てその瞬間を撮りたくなった。


「あの、先輩」


先輩は「ん」と言って振り返った。


「どうした?」

「その、花火をバックに先輩を撮らせてもらえませんか」

「えっ、私?」


美月先輩は驚きながら自分を指すので、俺は何も言わないで首を縦に振った。すると先輩は、腕を組んで「うーん」と唸りながら悩み始めた。どんな返事が来るか心臓をばくばくと鳴らしながら待っていると、ニッと笑って口を開いた。


「高校最後の夏だ、せっかくだから思い出として私の一番弟子に撮ってもらおうかな」

「はい、こちらこそお願いします」


俺は冷静を装っていたが、内心踊りたい気分だった。今にもにやけて島そうだが、グッと堪えポケットからスマホを取り出した。いつものカメラで撮りたかったが、生憎今はこれしかない。美月先輩から教えられたすべてをこの一枚込めて、最高の瞬間を収めるつもりでスマホを構えた。美月先輩は手を前で重ね、凛とした表情でポーズを取り、俺は、打ち上げ花火の中で美月先輩が最も映える瞬間を待った。これじゃない、これでもない、これだ。そして俺は、シャッターを切った。


「撮れました」


俺がそう言うと、先輩はポーズを崩しスマホを取り出した。


「じゃあ、送ってくれ」

「えっ」

「え、じゃないだろ、私の記念の写真なのに、本人に送らなくてどうする」

「そうですよね、わかりました」


写真を送ると、美月先輩のスマホからポロンと通知音が鳴り、少しすると先輩は顔をにやけさせた。


「よく撮れてるよ」

「ありがとうございます!」


美月先輩は歩き出し「堅苦しいポーズをしたらお腹が空いた」と言って歩き始めた。俺も、自転車を押して先輩と一緒に坂を下り始め、少しすると先輩が「なあ」と言って立ち止まり、話し始めた。


「来年、君の最後の夏は私が撮ってあげよう」


その提案に驚きと喜びが交互に押し寄せた。


「はい!」


俺がそう返すと、先輩は満足そうに頷き、再び歩き始めた。来年も一緒に夏祭りに来れると考えるだけで、胸の奥が熱くなった。



夏祭りの夜は更けていき、屋台の明かりがぼんやりと道を照らす中、俺たちは手持ち花火を買って公園へ向かった。公園に着くと、人の気配はほとんどなく、静かで落ち着いた雰囲気が流れていた。美月先輩は花火の袋から色とりどりの花火を取り出し、「どれからやろうか」とわくわくした子どものような表情を見せた。


最初に、スパーク花火を手に持ち、互いに火をつけた。キラキラとした光が暗闇を照らし、その美しい光に心が洗われるようだった。美月先輩はしばしの間、その光に見入っていたが、やがて「ねえ、悠斗」と静かに声をかけた。


「はい、先輩」


「今日はありがとう、こういうの初めてだから楽しかったよ」


美月先輩の言葉に、俺は少し照れながらも「先輩がいたから、俺も楽しかったです」と素直に返答した。その言葉を聞いた美月先輩は、少し恥ずかしそうに笑い、「そっか、ありがとう」と言ってくれた。


そして、手持ち花火を次々に楽しんだ後、二人で寄り添いながら静かに燃え尽きる花火を見守った。その時、美月先輩がふと言った。


「悠斗、来年の夏祭りも、その次も、一緒に行こうな」


その言葉に、心臓が一瞬だけ早く打った。俺は深呼吸をして、先輩と目を合わせた。


「もちろんです。先輩が一緒なら、いつでも楽しいですから」


美月先輩の顔が柔らかい笑顔に包まれた。その笑顔を見ると、なんだか胸が温かくなった。


「じゃあ、約束だな」


「はい、約束です」


俺達は再び黙って花火の残り火を見つめた。夜空には星が輝き、風が心地よく肌を撫でていく。言葉は少なくても、共に過ごせる時間が何よりも大切だと感じながら、俺たちはその場に立ち尽くしていた。


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