水雲小話

海埜水雲

第1話 はーい

学生時代から、私は朝の6時に起きて散歩をする習慣がありました。


家を出る際には、「行ってきます」と言いながら玄関で靴を履く私に、その返事として朝食の準備をしている母が「はーい」と言うのが、散歩前のルーティーンでした。


何年もそんな生活を続けていたので、社会人になって実家を出た今でも、朝の散歩と「行ってきます」は欠かさず言っていました。


社会人になって数年が経ったある日、いつものように走るつもりもないのにランニングシューズを履いて、「行ってきます」と言うと、家の中から聞き覚えのある「はーい」との返事が聞こえてきました。


最初に聞いた時は、母が返事をしたと思い、何も疑わないで鼻歌を歌いながら靴ひもを結んでいました。しかし、すぐに異変を感じて、「え?」と声を漏らしながら、振り返りました。


廊下にキッチンが設置されていて、その奥に扉を挟んで部屋がある、何の変哲もないい、住み慣れた1Kのいつもの景色。見慣れたはずの風景が、その時は身震いするほど恐ろしく感じました。


仕事で疲れて幻聴を聞いたのかもしれない、そうだ、絶対そうだ、と自分に言い聞かせ、そのまま散歩に行きました。しかし、次の日も、その次の日も、私の「行ってきます」に対して家の中から「はーい」と返事は返ってきました。


返事が聞こえ始めて三日目、再び「行ってきます」と言うと、また「はーい」と返事が返ってきます。その頃には幻聴じゃないなと考えていましたが、無視していれば害はなかったので、いつもの様に散歩に行くために玄関のドアノブに手を掛けました。


ドアノブを下げた時、私はふと、どこから返事がするんだと考えてしまい、靴を脱ぎ棄て、玄関に上がり、廊下の真ん中で「行ってきます」と言うと、部屋の方から「はーい」との声が返ってきました。


恐る恐る部屋の中に入り、カチ、カチと紐を引っ張って明かりをつけ、部屋に何か変わったところを探しましたが、ついさっき部屋を出たばかりで、当然何も見つかりませんでした。


心臓がバクバクと鳴りながら、再び「行ってきます」と言うと、後ろのベッドと押し入れのある方から「はーい」との声が聞こえ、振り返ってもう一度「行ってきます」と言うと、押し入れから「はーい」との返事が聞こえました。


足音を立てないように押し入れの前に立ち、口が乾くのを感じながら深呼吸をして、一気に襖を開けると、そこには見覚えのあるエプロンを身に着けた、血だらけの母が自分の頭を抱え、にっこりと笑い、赤くなった目でこちらを見ていました。


その光景に私は恐怖で声も出せず、腰が抜けて、その場に座り込み、押し入れの中に居る母を見上げ、呼吸が早くなり、息苦しくなり始めた時、どちゃと音を立てて何かが押し入れから落ちてきたので、ゆっくりと視線を母の体から下に移すと、母の顔と目が合いました。


私が思わず小さく悲鳴を上げると、口角の上がった母の口から「はーい」と言葉が発せられ、私の恐怖は最高潮に達し、気を失いました。



その出来事から数日後、私は母の訃報を聞きました。事故死だと父が伝えてきて、仕事を休み、すぐに実家に向かいました。詳しく話を聞くと、母は飲酒運転のひき逃げに遭い、引きずられて首が千切れて即死したそうです。


意気消沈している父に、私が先日の出来事を話すと、少しだけ血色が良くなり、微笑みを浮かべながら「お前が社会人になって一人暮らしを始めてから全然顔を出さないって、母さんは毎日心配してたから、顔を見に行ったんじゃないか」と言いました。


それから私は、毎年必ず一度は実家に顔を出すようになり、その際は必ず一日は泊まり、映画好きの父と映画を見たり、父と一緒に朝に散歩に行きます。


父と散歩に行く時「行ってきます」と言うと、時々何処かから「はーい」と聞こえるような感じがするので、その時は必ず、父と一緒に振り向いて、元気な声で「行ってきます」と母に返します。



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