シュレーディンガーの猫
洞貝 渉
上
同意書にサインをすると、受付の人はニコリともせずにこちらへどうぞと手で示す。
良くも悪くも事務的なその対応は、今の私にはありがたい。
導かれたその部屋は、かつて一般向けのプラネタリウムとして使われていたそうで、円状の広い空間にたくさんの客席があり、天井はお椀を逆さに取り付けたような形になっている。
『同意書をお読みいただいたとは存じますが、今一度確認をさせていただきます』
わざとらしいほどにわかりやすい、あからさまな合成音声がスピーカーからアナウンスしてきた。
すべてが全自動で進行し、人間は介在させていないということを誇示するためだろう。パラレル世界、とはいえこれも個人情報の一部ということらしいが、私は小さく首をかしげてしまう。個人情報なんて、そんなもの私にあるのだろうか。
『本サービスはアーミラリ天球儀を使用し、星たちの動きを見ることで今生きている世界線とは別のパラレル世界を調べさせていただくものとなっております。これはあなたの人生において、あったかもしれない過ぎ去った可能性の一つであって、決して今のあなたがパラレル世界のあなたになれるというものではありません。パラレル世界のあなたは、あなた自身ではありません。よって、パラレル世界のあなたがあなたに無いものを持っていたりあなたよりもより良い生活をしていたとしても、あなたがそれを得る権利もパラレル世界のあなたに成り代わることのできる可能性もないことをあらかじめご了承ください』
広々とした室内には私一人しかいない。
部屋の中ほどまで入って行き、なんとなく目についた客席の一つに腰を下ろす。
『また、同様にパラレル世界のあなたが非常につらい環境にあったとしても、それはあくまで別世界のものであり、あなた自身とは全く関係のないものです。ですがもし、ご観覧中に気分が悪くなったり、見るに堪えないと感じたりした場合は、どうぞ遠慮なくご退出ください。ただし、一度上映させていただいたパラレル世界は二度とお調べさせていただくことはできません。最後までご観覧いただく義務はございませんが、途中退出後にもう一度同じ世界の上映をご希望いただいてもご対応しかねますので、お気を付けください』
私にも、別世界の私というものが、本当にいるのだろうか。
主人は生前、本来的な意味とはズレるがね、と前置きをしたうえでシュレーディンガーの猫の話をしてくださった。
箱の中の猫は、開けてみるまで生きているし死んでいる。確定されない事実は可能性のある限り広がり続け、分岐したそれらは同時進行する。それが、パラレル世界というやつさ。
猫は生きているかもしれない、死んでいるかもしれない、いや、そもそも猫なんていないのかもしれない。
君なら、箱を開けるかね? もし開けるのならば、一体そこに何を見るのだろうね?
合成音声は途切れず注意事項を吐き出し続ける。
今、パラレル世界という箱を開けようとしている私は、一体何を知りたいというのだろうか。
『——お待たせいたしました。これより、パラレル世界の上映を開始いたします。ご自由な席に着席ください』
ぱっと明かりが消える。
暗闇の中、天体が天井に映し出された。
部屋の中央部に設置されたアーミラリ天球儀が、夜空に見立てられた天井の星々の位置を感知し、作動する。天球儀の中心に据えられた緑色の石が淡い輝きをみせた。石を包み込むように配置された機器が、星の位置に合わせてくるりと回転する。そして、始まった。
淡い緑の光はアーミラリ天球儀の上部に収束し、精巧な魔方陣を描いていく。
陣が完成すると、光はするりと解け、広がり、スクリーンのような形をとって私の目の前で映像を紡ぎ出した。
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