幕間2 天地に満ちよ ピアニストたち ー前編ー
午前8時30分頃、迷惑系動画配信者として世間に認知されているダンジョン探索配信者『へぐ・あざぜる』はタクシーに乗り、都内のビル群を縫うように移動していた。
後部座席に座るへぐ・あざぜるはそわそわした様子で窓の外を眺め、時折携帯端末の画面に視線を走らせている。
彼の表情には微かな緊張が見て取れた。
へぐ・あざぜるが動画配信の直前に緊張するケースは珍しい。
へぐ・あざぜるは動画配信の際「ありのままの自分を届けたい」としてあまり気負わずに最低限の準備で配信に挑む。悪く言えば雑かつだらしない配信となり、その姿勢が批判や炎上を引き起こす要因のひとつにもなっているのだが、へぐ・あざぜるとしては「気楽に配信してレスポンスが増えるなら儲けもの」程度にしか思っていないので改善の見込みは当面無い。
しかし、今回の生配信は少し違う。外部から持ち込まれた企画なのだ。
そもそも今回の配信はダンジョン探索ではないのだが、へぐ・あざぜるのインフルエンサーとしてのネームバリューを買われ大規模企画への参加を打診された。
今回の企画の発起人はアメリカの非常に有名なストリーマーで、その人物の代理人からオファーを受けたときは質の悪いドッキリじゃないかと疑った。周りのスタッフ達も疑っていたし、ぶっちゃけ、決行前日まで多少疑っていた。
それでもこの企画への参加を了承した理由は、へぐ・あざぜる自身、純粋に面白いと感じさせるものがあったからだ。
企画が本物ならもちろんそれに越したことは無いのだが、もし何らかのドッキリであっても、そこも込みで面白く調理出来そうな企画になる感触が無くは無かったので、事前の打ち合わせに忠実に従い、今日の企画に挑むことにした。
そう、そもそもの嘘であったとしても、その代理人が持ち込んで来た企画には、どこかへぐ・あざぜるの琴線に触れる何かがあった。ある種の情動を燻らせる昏い熱がこの企画には籠められていたのだ。
へぐ・あざぜるがいま携帯端末で確認しているのはSNSで発信されている海外の様子。
時差の関係上、この『騒ぎ』は欧米各国の方が先に始まっている。
そして企画の性質上、それが始まった直前には、異常なことが起きていると気付きもしなかったのだろうが、ネットワークで世界各地の異常事態の報告が相次いでようやく、『世間』はこの状況の全容を理解し始めているのだろう。
海外在住の日本人がSNSで本件を紹介する文章を読みながら心臓の鼓動が早まるのをへぐ・あざぜるは感じる。
この企画は、ドッキリではなく、本物だったのだ。
そしてタクシーがゆっくり停車する。目的地である、都内の駅に着いた。複数の路線が交差するかなり大きな駅である。
後部座席のドアが自動で開くがへぐ・あざぜるは直ぐには降りない。助手席に座るスタッフがタクシー運転手に支払いを済ませ先に降りる。
カメラ付きヘッドディスプレイを装着したスタッフは後部座席のドアの前にスタンバイし、中のへぐ・あざぜるにキューを出す。生配信はまだ始まっていないが、後日配信する(かもしれない)映像素材用の撮影だ。
スタッフのキューを受け、へぐ・あざぜるは、颯爽とタクシーから降り立つ。
なんと、着ているのは燕尾服である。
「おはよう、諸君」
片眉を吊り上げつつ、過剰な程のキメ顔で、スタッフのヘッドディスプレイカメラに対して挨拶をする。
スタッフから渡されたダウンコート羽織り、フードまで被って駅の構内へと進むへぐ・あざぜる。それなりに顔を知られている人物だし、何より駅の中で燕尾服は目立ち過ぎる。
朝の駅構内は足早に歩く通勤・通学客でそれなりに込み合っている。
ヘッドディスプレイで撮影をするスタッフを引き連れるダウンコートの人物は多少人目を引いたが、みんな自分の目的地へと向かうことが最優先だったのでその注目も一過性のものだった。
駅の中央コンコースは道幅が非常に広く天井も高い。電車に乗りに来た客、電車を乗り換える客、この駅が目的地として来た客が行き交い、縦横無尽の人の往来が絶えない。
そんな中、壁の隅に固まる十人弱の一団が目に留まる。
「あっ、へぐさん、お疲れ様でぇーす」
へぐ・あざぜるとスタッフが近付くと、一団の中のピンク色に髪を染めた若い男がへぐ・あざぜるに挨拶をし、それに気付いた他の面々もそれぞれにへぐ・あざぜるに挨拶をした。
「あー、お疲れ。……マジでこんな時間に全員揃ってんの?」
挨拶を返したへぐ・あざぜるは半ば呆れたように集まった面々を見渡す。
「つかさぁ、こんな早い時間にみんな集まらなくったって、誰か一人に席取りさせといて開始ギリギリに集合しとけば良かったんじゃねぇの?」
「あー、それ駄目なんスよ。順番待ちの割り込みはマナー的によろしく無いですからねぇ。ちゃんと本人が並ばないと」
冗談めかして文句を言うへぐ・あざぜるに、後ろに控えたヘッドディスプレイのスタッフはぴしゃりと反論をする。
「マナー、ねぇ……」
まぁ反論されるのをわかっていたへぐ・あざぜるは若干うざったそうにその単語を反芻する。
各所で明文化されているマナーは必ず守る。
それは今回の企画で主催サイドから与えられた指示のひとつである。
これからへぐ・あざぜる達が行う企画は、どちらかと言うと世間に不快感を掻き立てる系統の行動で、それ故に明文化されている範囲のルール・マナーは最大限守るように厳命されている。
まぁ、理解出来る。
ただの場を荒らす集団になってしまえば、企画の趣旨自体がブレてしまう。それではシンプルに、面白味が無くなる。
「でもこの人数で今から並ぶのも目立ち過ぎっスからね、スタッフをひとり見張らせとくんで。人が集まりそうになったらまた連絡しますからそれまでは自由行動ですね」
「やっぱ、ヒト集まりそうですかね……?」
「そっスね~。もう海外の方じゃ話題になりだしてるんで、こっちも結構集まって来るんじゃないっスか?」
ピンク髪の男とヘッドディスプレイのスタッフは駅のコンコースのある一点に視線を向けながら会話する。へぐ・あざぜるも、その二人同様に視線を向ける。
人が行き交う駅の構内に、黒く輝くグランドピアノが堂々と鎮座していた。
9時30分頃、中央コンコースに張っていたスタッフから「そろそろ人が増えてきた」という連絡を受け、最寄りのカフェで待機していたへぐ・あざぜると一行は中央コンコースに集まってきた。
そして真っ直ぐと、コンコースに配置されたグランドピアノに集まる。
静謐な佇まいのグランドピアノはバリケードポールに囲まれ、そのバリケードの傍に説明書きと諸注意が掛かれたプラカードが立っている。
誰でも自由に弾けるストリートピアノ、とプラカードには書かれている。
へぐ・あざぜるは、そのプラカードの傍に先頭で並ぶ。
その後ろにピンク髪の男が付き、更にその後ろに3人が並ぶ。
並んだ5人以外はグランドピアノの鍵盤に向かって三脚付きデジタルカメラやヘッドディスプレイのカメラを向けて撮影位置を検討している。
グランドピアノの周辺に集まったギャラリーは10数人ほど。
そのギャラリーは、突如現れ列に並びカメラの準備を始める一団に静かに色めき立った。海外同様、ここでも何かが起こるのではないかという期待に湧き立っているようだ。
10時が近付き、グランドピアノを見守る大衆は少しずつ増えているようだった。
黙って待っているへぐ・あざぜる達の傍で、スタッフと駅員が揉めると言うほどでは無いが、何やら話し合っている。
スタッフは「定められているルールやマナーは守る」「演奏が終われば撮影機材はすぐに撤去する。観客の顔は映さないようにする」と丁寧に説明していた。
それを訊き、とりあえず納得したらしい駅員は、周囲の様子に戸惑いの表情を浮かべながらグランドピアノに近付き、鍵を開け鍵盤蓋を開く。
午前10時。ストリートピアノの使用可能時間の始まりだ。
鍵盤を解放した駅員と入れ替わるようにダウンコートを羽織ったへぐ・あざぜるが歩み出る。
フードを取り、格闘技の選手のように肩から落とすようにダウンコートを脱ぎ、燕尾服を着た迷惑系ダンジョン探索動画配信者の姿が露わになった。
途端、グランドピアノを中心に悲鳴に近いどよめきが起こる。
人だかりの最前列の若い男達が「おいおいマジかよ……!」と驚愕に満ちた笑みを浮かべる。
大衆の反応は上々。気を良くしつつも緊張感が改めて喚起されたへぐ・あざぜるは、緊張が外に漏れないように意識しながらグランドピアノに歩み寄る。
非常にぎこちない様子で譜面板に楽譜をセットし、椅子を引き鍵盤の前に座る。
楽譜に書かれていた曲のタイトルは『きらきら星』。
へぐ・あざぜるは恭しく両手を鍵盤に添え、ぐっと身を乗り出して楽譜を凝視する。
ちなみに、へぐ・あざぜるはピアノを弾いた経験が殆ど無い。人生において音楽と関わった経験も殆ど無い。
そして今、日本各地、いや世界各地にあるストリートピアノの前に、ピアノの演奏経験が殆ど無い人物が同時に鍵盤に触れている。
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