第六節.そして誰も・五

第一章 第六節 第一話・前

 無名書房がある商店街の一角に、早朝からやっている喫茶店がある。俺も生前何度か利用したことがあるその『喫茶シュピール』は、深いシワが目立つ痩せぎすの店主が半ば道楽でやっている店だという。


 俺、藤堂、そして瀬津湊。店主を除けば三人、傍目には二人しかいない店内。軽やかなジャズピアノが静かに流れる中、注文以外で誰一人口を開かないままどれほど経っただろうかと奥の柱時計を見ると、まだ入って十分も過ぎていなかった。


 藤堂の前には湯気立つバタートーストとスクランブルエッグ、そしてそこに添えられたサラダとアイスティー。一方の瀬津湊の手元には、先程までハニートーストが乗っていた皿がそのまま置かれ、当の本人は二杯目のカフェラテに口をつけている。


 もとより、店主は物静かを通り越して無愛想と言えるほどに口数が少なく、表情も動かず感情が読めないところがある。だが、今日に限っては俺ですら彼が何を思っているか手に取るように分かった。


 近所の古本屋の娘と、九月の朝とはいえまだまだ暑苦しい中長い着丈の真っ黒な装いの女。そんな二人が向かい合って、歓談するでもなくただ黙々と朝食を食べている。しかも片方は、明らかに普段よりも硬い。それを見て違和感を覚えないほど鈍感ではないようだ。


「いい店だね、味も美味い」


 この中でのうのうとしているのは瀬津湊ただ一人だ。


 あのときの背筋が凍る寒さは今は感じず、じっとりと絡みつく不快感もない。本当にこの女は、あの洋館で出くわしたのと同じ人間なのだろうか。


「そんなに身構えなくてもいいよ。今は君を、いや君達をどうこうするつもりはないのだからね」


 ……見透かされているらしい。だが、そんな甘言で安心できるほどの単純さは俺にはない。


 初めて会ったときのこともそうだが、この女は実の妹をあんな化物の前に鎖で繋いだ人間だ。自身の住処への侵入者である俺と藤堂に何をするか分かったものではない。


「瀬津から、アンタには関わるなって言われてるんでな」


「私も瀬津だよ、御影君」


 人をおちょくるようなこの物言いは、瀬津が堂島さんを相手にしているときを思い起こさせる。だが、俺の中に芽生えた感情は、堂島さんのそれとは全く異なるものだろう。


 瀬津湊の顔に浮かぶ薄ら笑いが寒々しい。俺のことなど歯牙にもかけていないのが透けて見えて、一層腹が立つ。


「アンタに名乗った覚えはないんだが」


「おお、怖い怖い。そう睨んでくれるな」


 そう言ってまたカフェラテを一口。瀬津が相手ならこのマイペースさにそう苛立つこともないが、この女が相手ではどうやら勝手が違うようだ。


「まあいいじゃあないかそんなことは。それよりも、知りたいことがあるんじゃないかな、君達には」


 こいつは……まあ、確かに大して重要なことでもないが。


 ふと、店主に目を向ける。幸い、こちらの会話を気にした様子はなく、粛々と豆を挽いている。霊感がない人間にとっては瀬津湊のやたら大きな独り言にしか聞こえなかったと思うが、店主にとっては興味の外のようだった。


 と、遅れて食事を終えた藤堂が重苦しそうに口を開いた。


「聞いたら、答えてくれるんですか?」


 今にも噛みつきそうな野犬のような藤堂の唸り声を、俺は聞いたことがなかった。理解不能な外道を侮蔑するかの如く、彼女が細めた目の奥で炎が揺らめいた気がした。


 藤堂が何に対してこれほどまでに怒りをたぎらせているのか、それははっきりとは分からない。だが、恐らく俺も、似たような表情をしているのだろうし、心持ちも近いものがあるように感じる。


「そうだね――じゃあ、一つだけ答えてあげよう。特別に、ただで」


 それすらもこの女にとってはそよ風と変わらないらしい。グラスを空にすると、片腕を呑気に上げて三杯目を注文し始めた。程なくして店主が新しいカフェラテを無言でテーブルに置き、


あき君は何か飲むか?」


 二人の間に割って入るようにテーブルを片付けながら、そう藤堂に問うた。


「じゃあ、コーヒーを濃いめで」


「承った」


 店主が離れると、藤堂はほう、と息をついた。少しだけ張り詰めていたものが緩んでいるような気がする。


 ……一つ、ねぇ。本当のことを馬鹿正直に聞けるとは正直思えないが、かといって聞かない選択肢はないわけだが。


 聞きたいことなんていくらでもある。それらをどうやって絞り込むか。可能な限りひとまとめにして、一つの質問で複数の回答を得られれば一番いいが、そう上手くいくだろうか。


「どうする」


「御影に任せるよ。私じゃ、余計なこと聞きそうだし」


 それは俺だって同じことだが――

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