第8話 これまでも、これからも

 月曜日。身体が元に戻っていた。

 ・・・・・・いや、烏山さんが言うにはたしか、魂が戻ったと言うべきなんだっけ。まあ、どっちでもいいけど。

 周囲を見渡す。一か月前から変化はなさそうだ。大切に扱ってくれていたらしい。やがて、僕の自室でもあるのにそこに独特の匂いがすることに気が付く。僕本人としては一か月間も留守にしていたわけなので、自分の家の匂いを忘れていたということだろうか。物心ついたときから感じていたものだから、これが自分の家の匂いなのだと思うと、なんだか不思議な感じがした。

 布団の中で身じろぎをして、すぐに感じた――あるべきものがそこにあった。

 途端に全身を安心感に包まれる。僕は少しばかり、それをそっと包み込むように握りしめて安堵をかみしめる。久しぶり。元気にしていたか?

 幸せな時間というものは過ぎるのが早い。そうこうしているうちに、起きなければいけない時刻となっていた。ベットから降りると、学習机の上に謎の魔法陣が描かれた紙が目に入った。昨晩はこれを使って魔術を行使したのだろう。その紙のほかに置き手紙などは見られなかった――べつに寂しくはない。僕も彼女に対して、置き手紙も置き土産も用意していなかったので、おあいこだ。

「いってきます」

 靴ひもを結んで、玄関の戸を開ける。烏山さんの家はマンションの二階にあったので、階段を使わずに道路へと出られることに便利さを感じた。幸せとは掴むものではなく、気づくものだという格言は本当なのだと思った。

「おはよう」

 高校から真っ直ぐ伸びる道路に出たところで、邦彦と出くわした。こうして彼と朝におはようを言い交すのも、随分と久しい。

 あれ、僕はいつも邦彦とはどんな話をしていたんだっけ、とまるで疎遠の旧友を相手にするような戸惑いを覚えていると、邦彦の方から僕に話を振ってきた。

「悠・・・・・・その、なんだ」

 邦彦にしては珍しく口ごもるその姿を、僕は不審に思った。

「どうしたの」

 こちらが問うと、邦彦は口元を抑えて前かがみになる。すわ体調不良かと案じたけれど、よく見ると彼の肩が小刻みに震えていた。どうやら笑うのをを堪えているらしい。どちらにせよ、そんな姿も彼らしくはなかった。

「なにさ。僕の顔になにか付いてた?」

「いや、そうじゃないんだ・・・・・・すぅー・・・・・・はぁー」

 深呼吸をして息を整えてから、邦彦は言った。

「金曜にお前がやっていたあのギャグを・・・・・・つっ、つい思い出してしまってな・・・・・・くくっ」

 !

 烏山さん!? 一体邦彦に何を見せたの!

 金曜日と言えば、烏山さんはすでに邦彦との関係を諦めていた日となる。当初の目的を失くした彼女が、僕の身体を使って邦彦とどんなコミュニケーションを取ったのかは、想像もつかなかった。

「・・・・・・そんなの、早く忘れちゃってよ」

 と小さく呟いて、僕はすぐに話題を変えた。

 これからは烏山さんに苦情を伝えることだって、今の僕にはもうできないのだ。そのことを寂しいと思わないといったら、嘘にはなる。けれど、仕方のないことなのだという諦念も確かにあった。

 教室に入ると、僕の席にはすでに先客がいた。おや、と首を傾げてからすぐに気づく――そうだ、僕はもう烏山さんじゃないんだ。だからもうあの席には座っちゃダメなんだった。平然とした顔で自席に着く烏山なすのを見て、肝を冷やした。

 もしも彼女が先にそこに座っていなかったら、僕は確実にその席に座ってしまっていたはずだった・・・・・・危ない危ない。

 僕は何事もなかったかのように、楡木悠の席に着く。当然、隣の席の彼女におはようなどとは言わない。

 教室に不穏な空気が流れ出したのは、それからすぐのことだった。まだ朝のHRまで十分ほどの余裕がある。それにも関わらず、朝の教室にはいつもより多くの生徒の姿が見受けられた。

「烏山ぁー」

 間延びした声でそう呼んだのは、山根さんだった。その傍には彼女のグループの子たちも一同揃い踏みだ。いつもは始業ギリギリの時間で教室に来る顔もそこにはあった――皆、彼女に用があるのだということを、僕は知っている。

 呼ばれてすぐに烏山さんの肩がびくりと震えた。来ると思わなかったタイミングで来ると思わなかったものが来た、そんな反応だった。

 烏山さんは声のした方向に、おずおずと顔を上げる。その小動物のような動きが、魔術師である彼女の処世術だった。烏山さんの本当の顔を知っている僕でさえ、気を抜けば彼女が地味で根暗な女子なのだと騙されてしまいそうになる。

 山根さんとその取り巻きの女子が、やたらと威圧的な態度で烏山さんの席に近づく。途中、他の生徒の机に足や腕がぶつかっていたのに、それにはお構いなしだった。動線上に立っていた生徒たちは、すぐにその只ならぬ空気を察知して身を引いた。身じろぎ一つできないでいたのは、名前を呼ばれた当人――烏山さんだけだった。

「ど、どうしたの・・・・・・わた、私になにか用・・・・・・?」

 烏山さんが引きつった口角で山根さんたちに問うた。机の上で組まれた拳が震えているのが隣の席の僕からはハッキリと見えた――あれは演技なんかじゃない。

 油断をすれば聞き逃してしまうほどの声量だった烏山さんに対して、山根さんの声は教室の外にまで届くのではないかというほどに大きかった。

「はあ? 今さらなにとぼけてんだよ! 私たちに話があるつったのお前じゃねえか!」

「場所が教室だからって、こっちがビビるとでも思ったぁ?」

 山根さんに続く形で、取り巻きの子が烏山さんを睨めつける。当の烏山さんはというと、山根さんたち数名の顔を見渡して、それぞれ行ったり来たりしていた。何が起きているのか、理解が追いついていないらしい。

「・・・・・・ぇ、いゃ・・・・・・あぅ、その」

 烏山さんは今にも泣き出してしまうんじゃないかと、こちらが不安になるような、そんな有り様だった。喉が引きつっている――あれも演技なんかではない。烏山さんが本当に辛そうにしていることが見ただけで分かってしまい、僕のお腹の奥がキリリと痛んだ。

「どうする?」

「先生呼んだ方がよくない?」

 教室の隅の方で、誰かがそう話すのが聴こえた。この場に居合わせているだけで、直接的な攻撃を受けていない僕たちですら、空気の重さに胸が重たくなってしまう。それならば独りで複数人から取り囲まれている本人は、一体どれほどの重圧を感じているのだろうか。

 山根さんが、声のした方向をギロリと睨んだ。

「言っとくけど、これそういうのじゃないから。先週の放課後、烏山の方から私たちを呼びつけたんだかんね? <月曜の始業前に私の席に来い>って」

 その声を聞いて、烏山さんの肩がまた震えた。それから辺りをキョロキョロと見渡していた彼女は、ある一点で視線を固定した――その先には小田原さんの姿があった。

 まさかこのタイミングで、彼女からそんな縋るような視線を向けられるとは思わなかったのだろう。小田原さんは烏山さんからの視線を受け止めつつも、困惑した表情を浮かべた。

「どうし――」

「ゆきには関係ないから」

 小田原さんが動くより先に、山根さんがそれを制した――顔は依然、烏山さんに向けたままで。やはり僕の見立て通り、今の山根さんたちは、たとえ小田原さんが相手だったとしても、止まってはくれない。

「おい、なんとか言えっての」

 そう言って烏山さんの取り巻きの一人、青木さんが烏山さんの机を蹴る。しんと静まり返る教室に響いたその音は、耳以外にもじんと響くようで、痛かった。

 日頃は小田原さんや山根さんばかりが目立つグループではあるけれど、クラス内カーストの上位にいるだけのことはあり、攻撃性を持ったときの青木さんたちにも確かな迫力があった。

「ねえ。そんなキョドってないで、言いたいことあるならハッキリ言えよ」

 山根さんがそう言って、烏山さんの肩を掴んだ。それまでは怒鳴ってばかりいた山根さんが途端に冷徹な声を出すと、それには怒声以上の効果があるのが分かった。この空間を掌握しているのが他の誰でもない、彼女であることを肌で感じる。

「・・・・・・ぁ、ぅ」

 パクパクと、酸素を求める魚のように烏山さんの顎が虚空を食む。けれどその口からは何も言葉が出てこない。やがて、黒く重たい前髪の奥にある彼女の瞳に、雫が溜まっていくのが見えた――ここらが限界だろう。


「烏山さん」


 と、四面楚歌で孤軍奮闘中の彼女の名前を呼ぶ声があった。

 声の主は――僕だった。

 それまでは、個人間の諍いだからと目を逸らしていた邦彦が、驚いた顔で僕を見た。

「悠?」

 けれど僕はそれに取り合うことなく、席を立つ。突如声を発した僕のことを、山根さんたちが睨む――そうか、烏山さんはこんなにも鋭い、刺すような視線をずっと受けていたのか・・・・・・これは応えるだろうな、とこんな状況を作り出してしまったことを、今更ながら心の中で詫びた。

 僕は身体の側面に沿うようにして置いた掌を、ぎゅっと握りしめてから、

「烏山さん――今までごめん!」

 と、頭を下げた。従って教室の方々から、どよめきが聴こえた。

「ごめんって・・・・・・なに?」

 緊張が限界まで来ているのだろう。烏山さんはたどたどしい問いを僕に向けた。僕は頭を下げながら、叫ぶ。


「なにって、決まってるじゃないか――僕が君を脅していたことだよ!」


 僕の声を聞き、「脅し・・・・・・?」と繰り返したのは烏山さん――ではなく、邦彦だった。

 烏山さんは驚きのあまり、言葉を失っていた。

 ゆっくりと頭を上げながら、僕は目を丸くしている烏山さんに向けて薄くほほ笑む。

「烏山さんは優しいね。この期に及んで、まだ僕のことを庇う気でいるんだ」

「ねえ、なんの話してんの?」

 と問いを差し込んだのは山根さんだった。僕は彼女と、それから教室のみんなにも聞こえるように、わざとらしく声を大きくした。

「僕はさぁ、プールで溺れている烏山さんを助けたあの後、そのことを恩に着せて彼女に命令したんだよ――クラスの女子たちを順繰りにアテンドしろってさぁ!」

「そんな・・・・・・」

 それを聞いた邦彦が首を振る。明らかに取り乱していた。

「悠、まさかお前がそんなことをするわけないだろう。なあ、嘘なんだろ」

「そうだよ。だってにれぎゅうは超紳士じゃん。そんなの明らか嘘じゃん」 

 邦彦に続く形で、山根さんが頬を引き攣らせて僕を見た。二人とも嘆願するような瞳だった。嘘だと言ってくれと、訴えかけてくる目だ。親友である邦彦はもちろん、烏山さんのおかげで仲良くなれていた山根さんにも、そんな顔をさせたくはなかった。

 けれど、僕は彼女らを否定した。

「嘘じゃない。証拠だってある」

「証拠?」

 山根さんの右手、つまりは僕の近くに立っていた青木さんが、こちらを訝しげに睨んだ。僕はごくりと生唾を飲み込む。緊張をしているのが悟られないように、嘘を見抜かれてしまわないように、僕は心の中で深呼吸をしてから、胸を張る――続けて、青木さんの胸を見る。

 そして叫んだ。

「青木C70!」

「・・・・・・・・・・・・、んなっ!?」

 一拍の間を空けてから、青木さんの身体がのけ反る。そして直ぐに彼女は自らの身体を抱くようにして腕を組んだ。僕を睨むその目に、はっきりとした嫌悪が浮かんでいくのが分かった。

 それでも、僕は叫び続けた

「木下D65! 佐々木C75! 橋本B75! 三木B80! 山根F75!」

 僕に名前を挙げられた山根さんたちが、次々に肩を震わせて、それから先程の青木さんのように身体を抱いてから、目をキツく細めた。

 その表情には、やはり確かな嫌悪感が滲んでいた。

「・・・・・・最低」

 名前を呼ばれたうちの誰かがそう呟くのが聞こえた・・・・・・最低、か。誰かさんのおかげで、そんな風に呼ばれることにもすっかり慣れてしまった僕だ。おかげで、クラスの女子たちから漏れなく侮蔑の意を向けられている現在でも、僕は動じずにいられてしまった。

 一緒に更衣をした仲である彼女らから嫌われてしまうのは、けれどやっぱり寂しくはあった。

「おいおい楡木、お前どうしちまったんだよ。急にわけわからん暗号を叫んで」

 すると、岩槻が僕に尋ねてきた。見れば他にも何人もの生徒が彼と同じように不思議そうな顔を浮かべている――それらはみんな男子生徒だった。

 僕は初心な表情で頭に<?>を浮かべている彼らを見て、失笑を漏らした。

「ふっ、教えてあげるよ。いま僕が言ったのはね、このクラスの女子の――バストサイズさ!」

 どっ、と教室中にざわめきの津波が生じる。岩槻を筆頭に、男子たちが互いの顔を見合わせた。揃いも揃って、皆の顔は紅潮していた。

「おいおいまじかよ・・・・・・!」

「なぁ山根って、Fもあんのかよ!」

「とんだ伏兵がいたもんだぜ!」

「てか65とか75とかってなんだ?」

「偏差値じゃねーの? 知らんけど」

 などと馬鹿な会話が端々で行われ始めた。本当を言えばあれらはバストサイズではなく、ブラのカップサイズのことなのだが、この局面でわざわざ正鵠を期する必要もないだろうと僕は判断した。

「おい楡木!」

 先週金曜日の水泳の授業で、僕は山根さんたちから取り囲まれつつも、なんとか時間を稼ぐことで、その場を凌ぐことができた。後にそのときの山根さんたちの心理を烏山さんから教えてもらったけれど、僕はそんな解説を聞く前から、どちらにせよ山根さんたちからの糾弾が簡単に止むことはないってことを感じ取っていた。

「なあ、まだ言ってない女子いるじゃん! なあ、おいってば!」

 僕は臆病で小心者だ。そんな他人から向けられる感情の鋭さに人一倍敏感な僕だからこそ、更衣室で山根さんたちに詰められながら、既にその状況から抜け出す方法を模索して――そして下拵えまで進めていたのだ。

「あ、逆に最後まで温存しといて、最後にドンって感じ? なんだよおい・・・・・・楡木も憎いことするじゃねえか」

 水泳の授業が始まってから、僕は早々にプールから上がった。プールサイドを歩く僕を見て怪しんだ小田原さんから声をかけられるまでの十分間、僕はプールに潜入するクラスメートらを後目に――女子更衣室に潜入していた。

 そこで僕は、クラスの女子たちのバッグを物色し、そこに入っていた制服の名札とブラジャーのタグを結びつけて、各々の極めてパーソナルな情報を入手した――男子生徒単独では到底得ることのできない淫靡なデータだ。

 僕のことを視線で焼き殺そうとでもするかの勢いの山根さんたちを見て、僕は依然威風堂々と虚勢を張る。今更引けはしない。一人目の女子のカバンに手を付けた段階で既に、こうすることは決めていた。

 金曜日の放課後、烏山さんの身体に入っている僕は、山根さんたちを呼び出して、

<月曜の朝、HRが始まる前にあたしの席に来て>

 と伝えた。山根さんたちは一瞬だけ表情を曇らせた後に、すぐに嫌らしい笑みを浮かべた。さっき言っていたように<まさかクラスメートの面前で喧嘩にはなるまい>と、こちらがたかを括っているのだと判断したのだろう。

 つまりはあの日の夕方、烏山さんは僕が山根さんたちに呼び出されていたのだと推理していたけれど、真相は逆だったのだ。

「おい楡木! 焦らしすぎだバカ! はやく小田原さんのバストサイズも教えてくれよ!」

 ──ああもう! さっきから岩槻はうるっさいなぁ!

 小田原さんの方をチラチラと一瞥どことろか百瞥くらいしていた岩槻を、僕はキーッと睨む。続けて当の小田原さんの方を見遣ると、彼女の瞳はうるうると揺れてこちらを見ているのだった・・・・・・いや、言わないから。大丈夫だから――というかそもそも、あの日小田原さんは見学をしていたのだから、僕が彼女のブラのカップサイズを確認できるわけもなかった。

 ・・・・・バストサイズは、まあ、知ってるけど。

 僕は改めて、ゴホンと咳払いをした。

「いやぁでも、僕がどうかしてたよ。どの子からアテンドしてもらうかを、おっぱいの大きさでソートしようってことで、烏山さんを脅して調査してもらったわけだけれど・・・・・・」

 一旦そこまで言って、僕はふるふると首を振った。わざとらしくため息もついた。

「そんな考え方が誤っていた。僕はとんでもない勘違いをしていたんだ」

「勘どころか、気も違っちゃってるんじゃないの」

 山根さんの厳しい声に、僕は思わず笑ってしまう。しかし構わず続けた。

「女性を胸の大きさで判断しようだなんて、僕はなんとも愚かだった・・・・・・でもそれも過去の話さ。今の僕はもう、本当に大切なものに気づいてしまったんだから」

 そこで、たっぷりの間を空けてから、僕はひと際大きな声で言った。

「大切なのは、大きなおっぱいなんかではないんだよ!」

「・・・・・・つまり、なんなのよ」

 山根さんが僕に尋ねた。その相槌の適格さにちょっとだけ関心してしまう。さすがはクラスの目立つグループの中心にいるだけのことはある。こんな状況で、こんな立場でもなければ、山根さんとももっと話をしてみたかった。あの小田原さんと親しくしているくらいなのだから、きっと本当のところは悪い人でもないのだろう。

 僕はそんな山根さんから視線を外して岩槻を見た。彼は早く早く、とでも言いたげに腕を振っていた。

 そんなバカから視線を外して、今度は邦彦を見る。彼は僕のこんな振舞いに理解が追いつけていないのか、眼鏡を机に置いて、両手で頭を抱えていた。

 苦悩する親友に内心で頭を下げながら、僕は少し離れた位置でこちらを傍観していた小田原さんへと目を向けて、佇まいを正した――まさかこんな形で、これを言うことになるとは。

 そして、僕はこの場においてようやく、嘘ではない言葉を口にした。


「小田原さん――僕はあなたのことが好きです!」

「「「いや結局胸じゃん!」」」


 クラスの皆から、同音でのツッコミが入る。凄い結束力だ・・・・・・やはり共通の敵がいると、集団というのはその結びつきが強くなるものなのだろう。

 僕は続けた。

「だから小田原さん・・・・・・僕と、付き合ってくれませんか」

 偽らざる気持ちとはいえ、いやむしろ本当の気持ちだからこそ、僕はここにきて激しい緊張をしていた。先に山根さんたちから睨まれながらも嘘の懺悔をしたときとは、また毛色の異なる緊張だった。心臓がバクバクと高鳴りを始めて、息が苦しくなる。続けて喉元に重たくのしかかるものがあり、本当に心臓が口から飛び出てしまうんじゃないかと怖くなった。

 小田原さんは、目を丸くして僕のことを見ていた。パチパチパチパチとまばたきを繰り返しているのは、泣いているのを誤魔化すためだと思う――無理もない。

 現在この高校で一番の変態であることが明らかな男子生徒から、突如公開告白を受けているのだ。これまで何人もの男子からの告白を袖にしてきたあの小田原ゆきと言えども、これほど不愉快な気持ちになる現場は未体験のはずだ。

 告白を行うことで熱を帯びだした僕の内心の、その隅っこの方では、ああもうこれで小田原さんと仲良くなるのは不可能になったなと、冷静に客観視をする自分もいた。

 せっかく休み時間にお喋りしたり、放課後に制服デートをしたり、一緒にテスト勉強をする仲にまでしてくれたのになぁ・・・・・・と惜しむ気持ちで、僕は烏山さんへと視線を移した。

 烏山さんは、やはり何が起きているのかが理解が追いついていない様子で、クラス一の人気者の顔と、クラス一の変態の顔との間を、目で行ったり来たりしていた。いくらキレ者の烏山さんといえど、まさか僕がこんな風に自己犠牲に走るとは思わなかったのだろうし、今に至ってもまだ、そのことが信じられないのだろう。

 どれほど烏山さんが、僕の身体を操って小田原さんの攻略を進めてくれたところで、僕はあの日の烏山さんの顔を見たら、それらの成果を全て投げうってでも――これからの可能性を全てドブに捨ててでも――彼女を助けずにはいられなかった。

<こんなとき小田原さんなら、こうすると思うから>

 というのは、真実であっても本音ではなかった。というか、たとえ小田原さんがそうしようがしまいが、どちらにせよ僕は烏山さんのために奔走せずにはいられなかったのだ――この感情が何なのかは、僕にも分からない。

 金曜日の夕方を思い出す。烏山さんの思惑を外れて、僕が山根さんたちからのヘイトを集めてしまったことに、彼女は異常なまでの動揺を見せていた。これまでどんな窮地も、どんな高い壁も悠々と乗り越えてきた烏山さんが、あれほどに狼狽えていたあの姿を見て、僕は彼女のために行動する覚悟を決めた。

 いつも堂々と、自信満々に僕を引っ張ってくれたあの烏山さんが、今にも泣きそうな顔をしていたのだ。あんな顔を彼女にさせないで済むのだったら、僕はクラス中から――小田原さんからだって、非難を受けても構わなかった。

 いつだったか僕は、小田原さんに変態だと思われようものなら不登校になってしまうよと、烏山さんに泣き言を言った記憶がある。けれどそれならむしろ、烏山さんにあんな酷い顔をさせてしまう方が、どんな顔をして登校をすればいいのかが分からなくなってしまう。

 正体が怪しまれるからということで、僕はもう烏山さんとは話をすることができない。そうじゃなくたって、こんな変態の汚名を全身に纏ったあとでは、彼女に話しかけることなんてできやしない。僕はきょとんとした顔を浮かべる烏山さんから、再度小田原さんへと視線を戻す。

 これほど派手にこの場を掻きまわしたのだ。山根さんたちはもう、僕への嫌悪と憎悪と忌避感でいっぱいで、烏山なすののことなど頭にないはずだ。さらには、山根さんたちが烏山さんのことを目の敵にした理由も全て、脅迫主を名乗った今の僕の肩にのしかかっている。

 僕ひとりが嫌われ者を演じれば、みんなの生活には平穏が訪れる――そんなヒーローじみた自己陶酔をすることくらいは、許されるような大奮闘だろう。

「楡木くん」

 小田原さんが僕の名前を呼んだ――そうだ、今はまだ僕の告白をしている最中だった。公開告白どころか、公開処刑をされているような気持ちの僕としては、走馬灯ではないけれど、一瞬が一生のように感じられていた。

 小田原さんの続く言葉を待ってか、教室中を沈黙が支配する。時計の分針がカチッと鳴る音が、やけに大きく感じられた。

 ・・・・・・小田原さんは何と言って、この僕を振るのだろうか。もはや楽しみだ──そんなポジティブなのかネガティブなのか分からない思考で固唾を飲み込んだ僕に、小田原さんの桜色の唇が開かれた。


「いいよ。付き合おっか」


「「「「えええええ!!!」」」」

 またもクラス中のみんなの声が綺麗にハモった。それは合唱部顔負けの混声だった。

 みんな、何を驚いているんだろう――小田原さんは僕に<ド突き合おっか>と、粛清を兼ねたタイマンを申し出ているに違いないのに。

 山根さんが、わちゃわちゃと手を振りながら小田原さんに詰め寄った。

「ゆ、ゆ、ゆ、ゆきなに言ってんの!? こんな変態のどこがいいの? 変態なら他にもたくさんいるじゃん」

 論点のぼやけたその質問に、けれど小田原さんは笑うのだった。

「変態だからOKしたんじゃないよ」

「そ、それなら尚更よ! 楡木なんて、ド変態なところ以外なにも突出してない冴えない男子でしょ・・・・・・確かに最近はちょっと話しやすかったりしたけど。で、でもそれでも、背も小さいし顔も普通だし、A組のナオヤとかC組のシュンとかの方がもっと見た目もイケてるし」

「――あのね、山根」 

 僕を言葉の跳弾でボコボコに傷つけていく山根さんの口に、小田原さんが人差し指を当てた。そのまま小田原さんは不敵な笑みを浮かべて、片目を閉じた。ウインク。


「人は見かけによらないんだよ」


 ■


 その日の放課後、なんと信じられないことに、僕は憧れの小田原さんと一緒に下校をすることになった。

 あの場ではよく分からなかったのだけれど、その後のクラスの皆のリアクションなどから判断するに、どうやら小田原さんは僕の告白に対してOKを出してくれたらしかった。そのことに僕の頭が追いついた際には、僕もあの時のクラスのみんな同様に、大きく叫んでしまった。

「えええええ!!!」

 そして僕の合点が承知の助したタイミングが、五時間目の世界史の授業まっただ中であったため、僕はそのまま廊下でバケツを持って立たされることとなった。令和のこの時代にこんな罰があるものなのかと、逆に新鮮みを感じながら、僕はそのバケツの水でじゃぶじゃぶと顔を洗った。

 そうでもしないと、顔が発火してしまうかと思った。

 放課後、教室を出る途中、山根さんを筆頭にクラス中の女子らからは呪詛を唱えられた。

「きも」

「なんなん」

「しね」

「ありえないから」

 ――普通に辛かった。

 しかし本物の呪詛を使えるであろう一名は、僕のことを控えめにチラチラと見るだけだった。

「・・・・・・」

 きっと僕にお礼を言いたくて、けれど口を利かない約束をしてしまったものだから、居心地が悪いのだろう。責任感の強い彼女らしい――本当にお礼を言いたいのはこちらの方だというのに。

 男子からは遠巻きにひそひそと話のタネにされるくらいで、非難の視線は感じなかった。どころか男子だからこそ分かる羨望の眼差しすら、方々では見受けられるのだった。

「いやすげえわ」

「逆にかっけえ」

「普通に男だよな」

「それな」

 僕が廊下へと出る直前、岩槻からはバシッと背中を叩かれた。

「楡木、お前やってんなぁ!」

 そしてサムズアップ。馬鹿から妙なリスペクトを買ってしまった。

「――悠」

 廊下に出てすぐ、背中から声がかかった。振り返らずとも、それが邦彦のものだということは分かった。彼は今朝の一幕以降、僕には目も合わせてくれていない。

 僕が振り返ると、邦彦はぷいと顔を逸らしてから、所在なさげに眼鏡をいじりだす。やがて控えめにため息をついてから、言った。

「少し、考える時間をくれ」

「・・・・・・うん」

 ――考えたところで真相にはたどり着けないんだけどね、と親友に対して意地悪な後ろめたさを感じてしまう。いかに賢い邦彦といえど、僕と烏山さんが魔術によって一か月間の入れ替わり生活を送っていたことなど、気づけはしないだろう。

 校門のところに、彼女は立っていた。

「じゃ、行こ」

 小田原さんは短くそう言って歩き出した。僕は彼女に並ぶために小走りでその背中を追う。ちなみに今朝から小田原さんとはまともに口を利けていない・・・・・・一体彼女がどんな思惑で僕からの告白に応じたのか、真意を掴み損ねているままだ。

 しばらくお互いに無言のまま歩いた。これまでも楡木悠(中身は烏山さん)としては小田原さんと下校をしたことがあったわけだけれど、僕(中身も僕)が彼女と一緒に下校をするのは初めてだった。帰り道どころか、教室でだって、彼女の傍にいられたことなんて無かったのだ・・・・・・慣れない。

 そんなむずむずとした気まずさに耐え兼ねて、僕は口を開いた。

「あの、どうして小田原さんは僕と・・・・・・」

 そこでピタ、と小田原さんの足が止まる。視線を前に向けたまま、彼女は確認をするように呟いた。

「楡木くんは・・・・・・あたしのことが好きなんだよね」

「うん」

 即答した。

「なら――」

 と言って、小田原さんが腕を組みながら僕の方を見る。

 ――その素振りだけで、

 そのよく見慣れた動きだけで、瞬間に僕は理解をした。


 Q.僕が烏山さんと入れ替わった初日、丁寧に準備された朝支度の上の置手紙に書かれていた可愛らしい丸文字を、僕はその後どこかで見かけなかったっけ?

 A.邦彦の家にて行われた勉強会にて。

 

 Q.烏山さんは入れ替わりの魔術を行うための妙な巻物を発見したのはどこと言っていたっけ?

 A.家の蔵。


 Q.烏山さんの家にそんなものはあったっけ?

 A.無い。そもそも彼女の家はマンションの一室。


 Q.それまでまともに認知されていなかった地味で大人しい男子生徒が、どれだけ話が上手に合わせられるからって、引く手数多のクラス一の美少女と放課後デートなんてできるんだっけ?

 A.一週間では到底無理。


 脳内の回路が<一つの結論>を導き出すなか、小田原さんは僕に向けて、ことも愉快げにはにかみながら、こんな事を言うのだった。

「これからもご飯を食べるときはいただきますも言うし、掃除の時間は手を抜かずに取り組むし、山根たちがやってても自分はローファーの踵は潰さないし、友達が風邪気味だったら<平気?>って絶対に聞くし、男子のことは<くん>付けで呼ぶし、本人がいないところでも先生の事を呼び捨てにはしないし、学校にある自販機は使わずに家から持参した水筒だって使うし、スマホに着けてるプーのストラップはボロボロでも外さないし、それどころか破けたところは補修してまで使っていくし、学校での会話で父親を出すときには<うちの父>って呼ぶし、食堂で麺類を頼むときは必ずおむすびも付けるし、友達がお菓子を食べてるときにも<いる?>って聞かれないようにそっぽを向くし、授業中に学校の横を大型バイクが走ったらそっちに必ずを目を向けるからさ――」

 そこで一旦、彼女は言葉を切ってから、僕の瞳を真っ直ぐに見て言った。


「――これからも、あたしのことずっと好きでいてよね」


 そこで、僕はようやく理解した。


 ・・・・・・これまでも、彼女はずっと僕の傍にいたのだ。

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