暁光のハルシオン~封じられし記憶と黒き聖母

天柳李海

闇夜の銀光(1)

 『夜になったら決して家から出てはいけないよ。扉の外はの領域だ』


 アルビヨンで生まれ育った子供達は、それを一番最初に親に教え込まれる。

 だから人っ子一人いない夜道を歩く自分の足音にさえ、内心驚いてしまいそう。

 アナーシアは自分を鼓舞するように、腰の剣帯に吊るした銀の細剣レイピアの柄を右手できつく握り締めた。


(大丈夫。私だってわ……)


「アナーシア様、やはり戻りましょうよ……」


 後から小走りでついてくる従者の少年が、おずおずと声をかけてきた。


「引き止めても無駄よエルム。怖いなら帰りなさい。今夜は私も夜警をするって決めたんだから」


 アナーシアは頭上高く結い上げた蜂蜜色の長い髪を靡かせながら振り返った。その動きに合わせて、真っ白な外套マントが風をはらみふわりと揺れる。

 今夜の『夜警』に備えて、城の『銀光騎士団』から拝借してきたものだった。

 借りてきたのは外套マントだけではない。肩の所で膨らませた独特の形の白い騎士服もエルムに頼んで無断で持ってきてもらったものだった。


「アナーシア様、姫様、こんなこと……やめて下さい。女王陛下に怒られるし、奴らは人間とほぼ見分けがつかないっていうじゃないですか……」


 明るい茶色の髪をした従者のエルムは、アナーシアと同じ十七歳の少年だった。身長はアナーシアより高く教養があり、黙って立っていれば見栄えもする美少年だが、腕っぷしも剣の腕も、実はアナーシアの方が上だった。

 本当は怖くて怖くてたまらないだろうに、自分を守るために付いてきた忠義心だけは認めるが、彼の説得に応じて城に帰るつもりは微塵もない。


「嫌よ」

「姫様っ! の事は『銀光騎士団』に任せるべきです。騎士長のハルシオン様だって、姫が城にいないことにとっくに気付いて探していますよ!」


 (……ハルシオン)


 アナーシアは首に絡まる毛先が少しカールした蜂蜜色の髪を手で払った。つやつやとした光沢のある長いそれは、香油をつけて手入れしているのにも関わらず、蔦のように皮手袋をはめた指先へと絡みつく。苛立ちを覚えながら乱雑に振りほどくと、ふっと脳裏に昼間の出来事が過ぎった。


 城の庭園で出会ったハルシオンは、アナーシアに気付くと珍しく微笑んでこう言った。


『私はアナーシア様の髪型好きですよ。お元気なあなたらしく、みたいで』

『……なっ……!』


 アナーシアはぎりと唇を噛み締め、ついでに拳も握り締めた。あの時に感じた憤りがカッと頬に集まり熱くなる。


「もう! 何よ! 馬の尻尾って!! 女子の髪を褒める言葉じゃないわ。そこはせめて『たてがみ』って言って!」

「アナーシア様っ」

「何! さっきから五月蠅うるさいわよ、エルム」


 怖いならさっさと城に帰ればいいものを――。

 口を開きかけたアナーシアは、突然全身の筋肉が硬直して動きを止めるのを感じた。


「――――!!!」


 

 風に乗って鋭い悲鳴のようなものが、夜闇の中で発せられたのを。


「……」

「……」


 エルムが動揺を抑えながらも、ぎゅっとアナーシアの外套の裾を握りしめ、

 訴えかけるような目で見つめていた。


「聞こえましたよね、姫様?」

「き……聞こえた、けど……だから?」


 どくん、と心臓の鼓動が急に跳ねた。

 アナーシアは右手を銀の細剣レイピアの柄に沿え、静かに引き抜いた。


 アルビヨンの街角には暗闇を退けるために、いつも松明の灯が掲げられている。それが赤々と燃え盛る路地から少し外れた奥で――。

 再び、男のものと思しき掠れた悲鳴が聞こえた。


 カツン。

 アナーシアは石畳に響く足音の大きさに慄きながら、一歩、また一歩と悲鳴が聞こえた路地へ近づいた。そこは袋小路となっており、石積みの壁に背中を預け、黒い神官服を纏った銀髪の男が、長い髪の女性――恐らく着ている派手な服装からして娼婦だ――に追い詰められているのが見えた。


 女はひどく興奮しているらしく、甲高い奇声を上げながら、ぼさぼさに伸びた髪を振り乱し、右手を銀髪の男に向かって突き出した。


「うわっ!」


 女は男の頭を掴んだ。そのまま壁へとぶつけるように押し付ける。

 鈍い音を立てて男のこめかみが壁へと押し付けられる。

 その体勢から覆い被さるように、女が自分の体を男へ寄せ、首筋へ噛み付こうと口を開ける。メリメリと音がしそうな勢いで、顔の半分以上が――真っ赤な口となっていく。


「やめなさい!」


 アナーシアは駆けていた。

 背後から女の右肩へ銀の細剣レイピアをぶすりと突き刺す。女は男の頭から手を離し、首を真後ろへ回してアナーシアを見た。


 揺れる松明の光に映る女の目は、血のような真紅に染まっていた。獲物を前にして、それを邪魔された悔しさを表すかのように、ぎらぎらと凶悪な光を発していた。

 アナーシアは今までに感じたことのない、例えようのない『恐れ』を抱いた。暫し女の赤く狂気に満ちた瞳と、鋭い歯が並ぶ真っ赤な口腔を見て言葉を失った。


(これが『吸血鬼イモータル』なの?)


 初めて見た人間とは違う異質の生き物。吐き気を伴うおぞましさが胸まで込み上げ、氷水のような恐怖がぞくっと体中を駆け巡る。


 その時、細剣を握る腕が信じられない力で引っ張られた。

 女が右腕を振り回すようにして身をよじったのだ。そのせいでアナーシアの刺した細剣レイピアも一緒に捻れ、銀で覆った先端部分があっけなくぽきりと折れた。


「はっ!」

「ガァアア……ぐぅぅ……!」


 女は苦悶の声を上げながらも、今度は標的をアナーシアに定め襲い掛かってきた。剣先が折れた事に一瞬戸惑い立ち尽くすアナーシアの反応は遅れた。気付くと、飛び掛ってきた女に路上へ押し倒されていた。


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