第5話 飲みニケーション
コの字に展開される黒革のソファに三人は座る。
テーブルには、空の大ジョッキが三杯置かれていた。
ジェノ様は酒が飲めない。だから、代わりに頂戴した形。
その甲斐あってか話は円滑に進み、要望は全て伝え終えていた。
「そっちの言い分としては、結婚するから、一億ユーロ寄越せってえとこか?」
上機嫌なヴォルフはこれまでの意見を要約し、尋ねてくる。
概ねその通り。彼なら一括で払える個人資産があるのは調べ済み。
資金洗浄はそれぐらい儲かる。汚い金の処理にどこも困ってるってわけ。
「ええ。わたくしでは、お気に召しませんか?」
胸に手を当て、セールスポイントを強調する。
身長は158cm。胸はCカップ。体重は細めの45kg。
目は猫のようにパッチリ、モデル顔負けのルックス。
料理の心得も多少はあるし、裏社会の実務経験も豊富。
強いて言えば、男性とのお付き合い経験が乏しいぐらい。
引く手あまたの高スペ女子。婚儀を断る男性なんていない。
「いいや、外面も実績も申し分ねえよ。……ただ、問題は中身だ」
しかし、相手も引く手あまたの高スペ男子。
顔よし、人格よし、資産よしの欲張りセット。
そう簡単には落とせず、むしろ、試されていた。
(本番は、ここからのようね……っ!)
機嫌を損ねたら、一発アウト。
楽に手に入るなんて微塵も思ってない。
「……あたしは組織に命を握られてる。一か月以内に一億ユーロを用意できれば、和解。また飼い犬に戻る。それでも、生きたい。こんなところで死にたくない。好きでもない男に抱かれてでも生き延びたい。理由はそれだけ。文句ある?」
だからこそ、限界ギリギリまで攻める。
さっきのジェノ様しかり、嘘はいらない。
わたくしではなく、あたし。本音での勝負。
以上も以下もない。動機は生きたいってだけ。
「嘘じゃ……なさそうだな。肝も据わってる。悪くはねえ案件だ」
ヴォルフは真っすぐこちらを見つめ、語る。
反応も手応えも悪くないけど、良くもないってところ。
(通って……お願いだから……っ)
ここでアピールポイントを付け加えるのは寒い。
自分に自信がないと、口を滑らせてしまうようなもの。
次の言葉を待つしかなかった。これ以上の弁明の余地はない。
「――だが、浅い。助かった後、てめえはどうなりたい。そこを腹割って話せ」
告げられたのは、深掘りするための質問。
頭が真っ白になる。考えたことなんてなかった。
今まで働いてきたのは、生きるため。その先なんてない。
組織から逃げたのも、生き延びるため。それ以上のことは考えてない。
「浅くて、何が悪いわけ? あたしはこれでも精一杯――」
駄目だって分かってた。見苦しいってのは百も承知だった。
それでも、言葉は溢れてくる。自己正当化するための醜い言葉が。
「一億ユーロ稼ぐのに、組員が何人ゴタついて死んだか分かるか?」
しかし、相手には通じない。簡単に遮られてしまう。
それも言いたい内容を予想されて、マジレスされた感じだった。
「……超知ったこっちゃない。どうせ、三人ぐらいじゃないの」
シュトラウスファミリーは少数精鋭の武闘派と聞く。
当然ながら、組員の教育も隅々まで行き届いているはず。
その状態で多少ゴタついても、たかが知れてるように感じた。
「十二人だ。てめえ一人の命と組員十二人の命が等価だと思うか?」
でも、違った。ずしりと言葉が心にのしかかってくるのが分かる。
一億ユーロを受け取るってことは、十二人の命を受け取るってこと。
これは婚儀の話じゃない。死んだ組員の命を背負う覚悟があるかの話。
(試されてるってわけね。色んな意味で……)
回答は無数に考えられる。
だけど、どれも正解に思えない。
舌が重い。気安めの回答はしたくない。
「……」
そんな思いが、重苦しい沈黙を生む。
適当に茶を濁せる会話じゃなくなっていた。
「重いだろ、うちの組員は。死んでも手間のかかるやつらだ」
すると、ヴォルフは心を読んだかのように、語る。
その表情は柔らかく、さっきまでの圧は感じなかった。
「婚儀は破断ってわけね……」
答えられない以上、答えは出たようなもの。
相手にハッキリと断れる前に、言ってやった。
好みじゃないとはいえ、振れるのはきついしね。
「その件はひとまず保留でいい。答えが出たらまた来てくれ」
そこでヴォルフが口にしたのは、体のいい断り文句。
遠回しに帰れ。とも言ってる便利な言葉の羅列だった。
(空振りか……。日にちはあるけど、結構痛いかも……)
立ち上がり、スカートのポケットにある携帯を確認する。
8月1日。時刻は22時を過ぎようとしている頃。期限は8月31日。
命がかかった夏休みの課題。放置すれば、怒られるどころじゃ済まない。
「……あぁ、待て。セレーナ商会には世話んなった。義理は通したい」
気が重いまま帰ろうとすると、ヴォルフは声をかけてくる。
大体の予想はできる。宿の提供か、駄賃をくれるぐらいの義理立て。
「ごほん。何でございましょう。ヴォルフ様」
だから、あえて血が通っていないような冷たい態度で聞いてやった。
負け惜しみに近い感情だと思う。意味がないってのは分かってるんだけどね。
「達成報酬一億ユーロの個人的依頼に、興味はあるか?」
血が沸き立つのを感じる。
心臓が激しく脈打つ音が聞こえる。
突如、やってきたのは千載一遇のチャンス。
冷たい態度を取った自分が、馬鹿みたいに思えてくる。
「いかような艱難辛苦であろうとも、謹んでお受けさせていただきます」
おかげで、仕事のスイッチが完全に入った。
これでこそ、ドイツに来た甲斐があったってもんよ。
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