異世界への使者episode6 琴の河

@wakumo

異世界への死者episode6 琴の河

「昔はこの河にも、ドジョウやフナがたくさんおったよなあ。みんなで出かけては編みや竿で釣ったもんよ…なあに、昔と言ったって今から2,30年くらい前の話で、そんな化石になるほど大昔のことじゃない。せいぜいカビが生える程度の昔じゃ。大きな石を力任せにどかすとなあ、そりゃあたくさんのドジョウがおっかなびっくりしとって、つかまっちゃあ大変と土煙を上げて、急いで土に潜って隠れたもんよ」

 おじいは、私たちに懐かしそうにそう話した。話している間も目は片時も手先から離さず、葦の葉先をしごいている。一枚、二枚、三枚と重ねられた葉はオジイの手で魔法にかかったようにしなり、ピーンと張り丹念に編み込まれていく。

 この村の特産物だった葦の篭を編む者も、村にはとうとうおじい一人しかいなくなってしまった。

 おじいの昔話は続く。

「この辺りの竹藪は良い竹が多くてな、タケミの材料なんかに使われたもんだ。山向の野須の若いもんがトラックでこぞって切り出しに来て、それを村に持って帰ってせっせと編んでな、今度は女子衆がリヤカーに乗せて売りに来たもんよ。

 春には筍もそりゃあたくさん取れた。朝の早いうちからみんなで掘り上げた筍を、下の市に並べては売り買いしたもんさ。

 この頃は、竹を切り出す者も、筍を掘って喜ぶ者もいなくなった。手入れをするもんがなくなった竹藪はどんどん広がり、じわじわと畑が小さくなっていく。河は荒れて、山も荒れて、畑もついに草ぼうぼうだ」

 と、寂しそうな顔をした。

 河面を静かに琴の音が走り渡ってくる。素音子のおばあが掻き鳴らしている琴の音。この河の流れが清かったころ…それはそんなに忘れるほど前のことではなく、このおじいがまだ若く、子供を遊ばせていたころのこと。

 素音子が静かに目を閉じると、河原で洗濯にはげむ女たちの美しい歌声が聞こえてきた。

 その情景は、何度も物語のように繰り返しおばあから聞かされたもの。素音子の中で琴の音とともにいつしか映像になり目を閉じると鮮やかに現れた。

 おじいは未練の残る河に頑丈な橋をかけ、その上にブリッジハウスを建てて、毎日その中で葦の篭を編んで静かに暮らしている。

 村の者が葦を編まなくなったことをぼやき、川魚がまずくなったとこぼしながら、この河と共に生きている。

 たった一人になっても葦の篭を編み続けるのだろう。この河をこよなく愛し、愚痴ともおとぎ話ともつかぬ、よもやまなことを子どもたちに伝えながら。

 素音子はおじいの横でいつ果てるともない話を聞きながら、使えるものを使わなくなったために畑が荒れていく話を、訳もわからず悲しく思って聞いていた。



 この村の子どもたちは、こんもり高い丘の上にある分校が廃校になった年から、市が走らせる循環バスに乗って町中の学校まで出かけていくようになった。バスが10分も走ると、山も、河も、トンネルも、竹藪さえもすっかりなくなり、コンクリートの建物、アスファルトの道、真っ白い壁、行儀よく並んだ街路樹。突然今時の普通の町並みが次々に目に飛び込んでくる。

 そのくらい、町に近いながらひっこんだ一角にある、昔ながらの農村…というより近隣に大きな都市を持ち、人口の増加、土地の不足とともに急にベットタウンと化して開け続ける街の片隅で、昔からの面影を健気に留めているかくれ里のような農村に、素音子は住んでいるのだった。

 この暮らしに慣れている素音子にとって、ここの日常はさほど驚くことでもないけれど、時折おじいのところにやってくる町の人などは、地図をはさみで切ったように突然目の前に現れる田園風景や村の鎮守様を見て、

「ここは別天地ですよ」

 と声をひっくり返して言う。そして、

「こんなところで暮らしてみたいもんだ」

 と感慨深げに言う。その表情があまりにも芝居がかっていて、夏のお祭りにやる子ども歌舞伎のせりふや動作に似ていてわざとらしいと、子どもたちは囃し立てて笑った。

 子どもたちはただ、おじいの話が面白くてもっと聞きたいだけだった。それにおじいとこの柿は甘くて美味しい。今年も鳥につつかれる前にみんなでいつ編みを掛けようかと考えながら、足下に広がる野や山をどこまでも自分たちの領地だと思って戯れていた。

 優しかった佐代おばあが死んでおじいが一人暮らしになってから、早いもので三年。おじいは橋の小屋に引き籠もってしまって、おばあと暮らした大きな屋敷は放ったままになっている。後ろに竹藪を控えた大きな門構えのお屋敷はこの辺りでは有名な旧家で、昔は大勢の人の出入りで賑わったものだったらしい。

 久しく出入りの途絶えた屋敷に、このところおじいを訪ねてくる町の人が増えている。何をしに来るのかは素音子にはよくわからない。

 ただ町の人たちは何を見ても美しいと、ほうけたような顔で辺りを見渡す。子どもたちはそんな人達のそばを走り回ったり、おじいの柿の実を狙ったりして遊ぶ毎日だった。

「お、素音子。おばあの琴が聞こえてくるぞ。そろそろ練習の時間じゃないのか?」

 おじいは手を止めると顔を上げ、おばあの琴の音を確かめるように顔を傾けた。おじいに声をかけられて恥じるように頬を赤らめ、素音子は急いで小屋を飛び出すと勢いよく走った。橋の心地よい揺れが身体に伝わる。

 風にのっておばあの琴の音が静かに河の面を渡ってくる。素音子は坂を登ると息を弾ませて家に駆け込んだ。音色が高くなり、低くなる。春のかげろうの中も、夏のうだるような光の日も、おばあのこの音がずっと聞こえていたような、こんな調べの中で走り回っていたような気がする。

「おばあ!」

「おーや、忘れたのかと思ったよ」

「おじいが時間じゃないかって言ったのよ」

「なんだ。またおじいの所へ行ってたのかい」

 素音子は恥ずかしそうに頬を赤らめて返事をした。

「おじいも一人で寂しかろうね。このごろは、橋の家ばかりにおって家に帰ってこん。河は良い。けど淋しい。お前たちが来るとにぎやかで良いと前に言っとったよ」

 と、おばばが言うのを、素音子は嬉しく聞いた。

「おばあ、このごろ、人がよく来るよ。おじいのところへ。町の人かな、みんなこの辺りはいいとこだと褒めてくれる。なんの用で来るのかなあ?」

 と、素音子がきくと、

「さあな……」

 おばあはそう言い放ち、素音子の琴を軽々と手元に引き寄せた。確かめるように弾く音の余韻が連なって、素音子の琴が不思議な歌を歌う。静かに耳を傾けて探り当てた音は、おばあの独特な音階だった。最後は決まって何かのまじないのようにジャラジャラとかき鳴らして、無造作に素音子に琴を渡した。

 それから自分の琴を手に取ると、目をつぶり、一つ一つ簡単な音をつまびき始めた。素音子のことなど構わずに引き続けるおばあの後を、必死に追いながら引き合わせていく。音はつたなく、ブチブチと切れて、河の面を伝っておじいのところまで渡っていくとはとうてい思えなかった。

 表では、降り出したばかりの雨が庭の竹囲いの上をたたくようにぽつりぽつりと走る。音は乾いて素音子の出来の悪い琴の音に似ていた。

 この竪琴をおばあに習うようになってから、早いもので半年が経った。折りに触れ、教えて欲しいとせがむ素音子に、

「まだまだお前には無理だよ」

 と渋い顔を繰り返した。

 去年の夏の祭り、十になった素音子は、初めて寺に奉納する子ども歌舞伎に出た。短い踊りのある村の子の役を無事に果たし終えた素音子に、おばあは何を思ったか、重い腰をあげてようやく、

「お前にも琴を教えてやるか」

 と言ってくれた。つぶやくようなその声を聞き逃したりはしない。素音子は嬉しくて何度もおばあに本当と聞き直した。

 おばあは素音子が学校に行って、いない留守に内緒で琴屋を呼び、まだ一度も琴に触ったこともない素音子に、新調の琴をあつらえてくれた。

 秋の終わるころ、栗の無垢材を使った、漆塗りのなんとも美しい琴が素音子の元に届いた。

 それは、小さな素音子の胸にすっぽりとはまる小さな琴。小さくても高価な物だということは、子どもの素音子にも一目で分かる。こんなすごいものを自分にあつらえてくれたことが嬉しくて、素音子は枕元に置いて眠った。

 それから毎日、素音子はおばあから竪琴を習った。一日に少しずつ時間をさいて練習に当てた。素音子はおばあが思っていたより熱心で、練習の時間になると、出掛けていても息せき切って帰ってきた。

 おばあの決めた時間は、冬には暗い時間で友達も家に帰ってしまうからいいけど、夏はまだ明るいうち、遊びに夢中になると時間を忘れることもあった。

 でも、おじいの小屋にならおばあの弾き始める琴の音が河を伝って聞こえてくる。それを合図に遊びをやめてこうやって走って帰って来るのだった。

「おばあこの曲はどんな曲?」

 ときくと、おばあは曲にまつわるいろんな話をしてくれた。素音子の弾く簡単な曲にも物語のあるものもあり、おばあはゆっくり話してくれる。おばあの弾く美しい曲には、お姫様の悲劇や結婚の話が込められている。練習の時間よりも話のほうが長くなることも多くて、素音子は話を聞いては琴の音色と物語を重ね合わせて空想が空を飛ぶ瞬間を何度も味わった。

 夕暮れ時、外に出ると、河の流れに乗って不思議な楽が耳に届く。もの悲しい音色は心をとらえ、その川を渡って逃げてくるお姫様の姿や着物の色まで思われて、素音子はうっとりと河の淵に座り込む時があった。

 同級生のさねやんやゆうじんが、そんな姿を見つけてからかった。からかわれても平気だった。そんなことはなんとも思わない。素音子は強がりでなくそう思った。さねやんには見えないものが素音子には見えていたし、胸の中には聞こえない琴の音がいつもあふれていた。

 それはおばあの琴の音とは少し違う。素音子が目をつぶると心の奥からあふれ出てくる懐かしい響きの音だった。海のかなたから押し寄せてくるように、素音子の心に向かって忍び寄ってくる。

 海から駆け上がり、河を遡ってこの村まで帰ってくる。その音の聞こえる日は素音子はなんとも心地好くて、何をしても上手くいきそうな気がした。

 でも、素音子は、こうしていつも自分を捕らえて離さない琴の音の話を、誰にも話さずに黙っていた。言ってはならないことのような気がした。心の中に不思議なものが宿り始めていくのが子どもながらにわかるのだった。

 河面を見つめて、頭の中に流れる琴の調べをひろいながら、ずいぶん昔のことを思い出していた。素音子が幼かったころ、家にはたくさんの人が住んでいた。素音子の家は古くからこの辺りの祭りをつかさどる社守りを任されていたから、春と夏の祭りには近隣の村の代表が集まってその年の祭りの相談をした。

 素音子のおばあが琴が上手いのも、元々、素音子の家に代々祭りの琴を弾く役が与えられていたからで、どの家もこのため子どもがある程度の年になると、世襲で習い覚えた楽器を伝えた。笙を代々受け継ぐ家や、笛や太鼓の家もあり、それぞれの家の長が子どもに伝えることで、祭りの習慣は続いてきた。

 素音子が習った琴はなぜか女から女へ伝えられた。おばあには男兄弟もいたらしいが、琴を伝えられたのは女のおばあだけだった。素音子も小さいころ、自分もある程度の年になれば琴の練習をするものだと楽しみに待っていたころがあった。琴の音は日常の中にあり、素音子の母も美しい琴の調べを持っていた。

 しかし、素音子にとって子守唄だった琴の調べが、ある日家からなくなった。

 その日、仏間に隠れておばあが背を丸めて泣いていたことを、そして村中遅くまで人が騒ぎ、ものものしい足音の行き交う中、素音子の家は天を焦がすほど明々と明かりが灯り、誰も眠らなかったことを、素音子は覚えていた。

 なのに、小さかった素音子にはそれ以上はわからない。いくら思い出そうとしても、その日の記憶はぶちぶちと切れて一本につながらなかった。暗い闇の中から琴の調べが近づいてくると素音子の胸を騒がす。そのざわめきが遠のき、入れ替わりにまた違う琴の調べが近づく。素音子の中でいくつもの琴の音色が渦を巻き悲しみや喜びが胸をふさぐ。その日の情景は、今もそのまま、素音子の中で少しも変わらず行きつ戻りつする。

 素音子にとって悲しかったのは、その日が大好きな琴が自分から遠ざかった日でもあったから。その日から、長い間琴を鳴らすものがなかった。素音子がどれだけせがんでもおばあは取り合わず、琴を教えてくれなければ琴を聞かせることもない。

 そして、その日を堺におぼろげながらあった母の面影が、素音子の周りからぷっつりと消えた。


 雨の振り始め、雨滴は細い線をスーッと引いて水面に落ち、小さな輪を作る。輪は幾重にも広がり、その重なりの中から素音子の耳に音が響いてくる。輪の一つ一つが膨らんでそれが他の同心円と交わりだんだんと音が重なって、心の中に複雑に根を下ろし広がっていく。その音色が訳もなく素音子を捕らえて離さない。素音子は河の表を眺めながら、何かに封じ込められたようにまた動けなくなる。

 そして、息をするのを思い出して目を開けると、おばあのひいてくれた布団の中にぐったりとなって眠っている自分に気がつくのだった。

「目をつぶると夢をみるの」

「そうか」

 大きな目を開けたまま素音子は話し続ける。素音子はこのごろ夢のことを口にする。幼いころは同じようにうなされていても言葉にならなかった。

 おばあはどんな夢をみるかと訊ねはしなかった。素音子がどんな夢をみるのか見当がついているかのように、顔をそむけ目を伏せ、そばにあった粥を手に取った。

「たべろ」

 素音子を力づけるように優しい声で言う。素音子は力なくかぶりを振った。いらないと目を閉じ、肩でゆっくり息をした。

 素音子は子どものころからたびたび熱を出した。熱を出す度に夢にうなされる素音子をおばあはずっと見守ってきた。素音子のみている夢におばあは静かに怯える。素音子を急いで起こそうとゆさぶる。

 しかし、素音子の悲しみは、いつかこの子が受け入れなくてはならない避けられないものなのだからと、おばあはそう思った日から夢にうなされる素音子を起こすのをやめた。

 そして、黙ってうなり続ける素音子を、自分の痛みのように見つめていた。

 しかし、おばあが思うほど素音子を襲う夢は悲しいものではなかった。ただ素音子の心の中で今と昔が入れ替わり重なってふらふらする。その夢とも幻とも判断のつかない狭間で、素音子はもがいていた。


 山並不動産


「このまま放おりっぱなしにしておくのは惜しいでしょう。この河だって、この辺りにはめずらしい清流だし、別荘村を作ったら喜ばれると思いますよ」

 男は名刺を差し出しながらおじいに話した。真っ白い名刺には黒いインクで書かれた山並不動産の文字。

「まさにここは都会の中のオアシス。使わない家をそのままにしておくのは痛みますし、こちらで万全の管理をしますから。一時間足らずのドライブで、これだけの自然を満喫できる所なんて、ちょっとありません。ご主人、安心して私達に任せていただけませんか。悪いようにはしませんから」

 おじいの所にやってくる背広を来た人たちは、みんな同じようなことを言う。それがあの母屋の話だということは、素音子にもだんだんわかってきた。

 子どもが上がることなどめったになかったおじいの屋敷。

 四年前、おじいの一人娘の佐枝姉さんの結婚式の時、特別に許されて勝手口から庭を回って縁側から見物に行ったことがある。

 長廊下の角を曲がった向こうに花嫁さんの支度部屋があって、素子は靴脱ぎ石に運動靴を不器用にそろえて縁側に上がると、ずいぶんかしこまってその長い廊下を気後れしながら歩いた記憶がある。真っ白い雪見障子。指紋一つないガラス戸。恐ろしいような彫り物の欄間が続く客間。

 きっと、あの時のままおじいの家はピカピカしているんだろう。雨戸を立てて、鍵を下ろしてタイムカプセルのようにおじいの思い出を封印しているんだろう。

 山並不動産の男たちを相手におじいは相変わらず知らんぷりを決め込みながら、葦の篭を編んでいた。ブリッジハウスの下を流れる水の音が時々シーンとなる大人たちの話の合間に悠然と流れた。


「どうやら、あの家を民宿にしたいって話があるらしいね」

「民宿って?」

 おばあのつぶやきに素音子がきき直した。

「山の生活を体験できる宿を作ろうっていうのさ。俺たちにとっちゃ普通の暮らしだけど、町から来るものにとっちゃ魅力があるんだとさ」

「おじいのあの家で?」

「あそこの母屋は大きいからな」

「この家だって大きいよ」

 素音子が言うと、

「この家とは違う。あの家は棟甚朗といって、それは有名な棟梁が晩年に残した数少ない家なんじゃよ。いわば芸術品じゃな。民宿にするよか博物館にしたほうがいいかもな」

「博物館?」

「そりゃあそのほうが大切に使ってもらえるよ。あそこにはいいものがそろってる。オジイの篭だって芸術品だし。でも、どっちにしろ、人がいっぱい来たら家は痛むよな。佐代さんが大事にしてた家だから、誰が来ようとおじいは貸さねえだろうよ」

 そう言うと、おばあは懐かしそうに手を休めて目をつぶった。きっと昔のことを懐かしがっているんだ。

 素音子はそんなおばあの横をそっと抜け出し、隣の部屋で琴をかき鳴らし始めた。もっと上手くなりたい。おばあのプレゼントのこの琴に恥ずかしくないくらいの弾き手になりたいと、このごろ、素音子は外に出るのも惜しんで毎日練習に励んでいた。

 小さな町のコミュニティーバスは毎日同じ顔が並んでいる。誰が何処に座るのかまでも決っているかのように同じせきが同じようにうまった。素音子の苦手なさねやんとゆうじんが場所を変えて素音子の後ろの席に座る。

 いつもは空の場所。何か言いたいか、いじめる材料を手に入れたかに決まっている。素音子は無視して本を開いた。

「おい!学校ずる休みだったんだろう」

 さねやんが口火を切った。

「学校休んでも琴の音はきこえてたよな。それやりたくて学校休んだんだろう」

「まったく琴狂いだよな。学校終わると飛んで帰るしな」

 そういえば、素音子はこのところやけに熱心に練習し始めて、おじいの所へ行くくらいで友達と遊ばなくなった。ずっと欲しがっていた琴を手に入れたのだからそれも仕方ないと思っていたおばあも、それにしても最近の様子は変だと、少し心配に思い始めた。

「まったく琴はたたるよ。家伝だかなんだか、知らないが。放おりだしてしまいたいけどいつまでも縛らえている。皮肉なもんさ。素音子もやっぱり琴に心を奪われている。なんの因果だか」

 おばあは愚痴をこぼした。自分が守ってきた琴を楽しそうに引き継ぐ素音子がかわいくないわけはない。しかし、手放しで喜んでしまえない。娘に似ている素音子が気がかりでそれが悲しいおばあだった。

 竹林と植林された檜に囲まれた小さな村。先祖代々続いた格式のある家。大きな門構え。

「たくさんだよ。おじいもそう思っているさ。忌まわしなんて今時はやらない。何が悲しくて、こういろんなものに囲まれているんだか」

 おばあはまた、ため息をついた。


 夜中、目を覚ますとかすかな風の動きを感じておばあは跳ね起きた。

「素音子!」

 隣の部屋の障子を開けると、素音子の布団はもぬけの空だった。おもての扉が少し開いている。

「おかしい。こんな夜中にいったいどこにいったんだよ」

 広い屋敷には夜はおばあと素音子しかいない。急いで上着を羽織ると下駄を突っかけた。風が生ぬるい。まもなく雨が降り出しそうな気配だった。

 琴の練習に疲れた素音子は早めに夕食をとって先に眠ってしまった。眠りが浅くなったとき、近くの及川で藍の布を洗う女たちの夢を見た。女たちは歌を歌っている。布を踏み洗いしながらリズムをとって細い高い声で掛け合いの歌を歌う。


 ♬村の娘の藍染は

  踏めば踏むほど鮮やかに

  白が浮き立つ 藍が冴えます

  この河あっての藍染よ


 楽しそうにはしゃぐ声が眩しくて、素音子は黙って横で見ている。辺りはすでに薄暗く、娘たちの周りだけぼんやり明るく輝いている。素音子に似ている娘が振り向く。素音子は頭を下げようとするが身体が自由にならない。

 娘たちは素音子がいることなど気にも留めず、跳ね上がる水しぶきにきゃあきゃあ騒ぎながら、絣の裾を気にして手で押さえた。

 素音子は仕方なくそばの岩に腰をかけ、女たちの楽しそうなやりとりを目で追っている。ふと後ろを振り返ると、屋敷の方から自分が歩いてくる。素音子が不思議そうに見ていると、二人の身体が一つに解け合って素音子は少しめまいがした。自分が夢の中にいるのか現実の中にいるのか、はっきりしない。

 そして、今一つになった身体が自分のものだったかどうかもわからない。はしゃぎ回っていた女たちの姿もいつしか消えて、雨がポツリポツリ振り始めていた。

「素音子!」

 おばあの悲痛な叫び声が川面に響く。素音子は振り返るとおばあを見て笑った。その時には自分が正気に戻っているのが、はっきりわかった。

「脅かした?目が覚めて河の音が聞きたくなったの」

 素音子は自分に言い聞かすようにおばあにそう言った。血相を変えたおばあの顔が悲しかったし、夢がいつも自分を支配していることを知られまいとした。

「雨降ってきたぞ」

「ああ、本当」

「また熱が出る。まったくこの村はよく雨が降るよな」

 素音子の顔は血の気が引いて真っ青だった。おばあはあ素音子の凍った身体に触れるのを恐れて肩に手を回した。

「はよ帰らねーと、また風邪をひくぞ」

 素音子を現実に引き戻そうと肩をたたいた。

「おばあ、私、琴上手くなった?」

「ああ、少しはな」

「もっと練習しなくちゃね」

「いいや、やり過ぎだ。根詰めたって上手くはならねえ。楽しんでやんなくちゃな」

「そうか、根の詰め過ぎか」

 そう言って笑う素音子が美しくなったと思う。この前まで子どもだったのに、落ち着いた額にかかる黒髪に娘の面影が残る。こうしていればなにも心配なことはない。年ごろのその辺の女の子と変わりはしないのだとおばあは思った。


 おばあは素音子に琴を与えてしまったことを悔やんでいた。

「何も無理して琴をやらせることもなかった。駄目だと言えば素音子のことだ、きっとこのおばあの気持ちをさっしてあきらめただろうに。あの日の子ども歌舞伎の舞台の上の素音子はおっかあによく似ていた。琴を習わせてもいいかと思ったあの時のおっかあに、わしも焼きが回ったもんだ」

 大人にさしかかった素音子のことを考えていた。いつまでも原っぱを駆け回って遊んでいる歳でもない。

 でも、おばあにしてみれば、自分が余計なことをして素音子の心を琴に縛りつけてしまったと思った。自分の娘がそうだったように、何かにとりつかれていると思えてしかたなかった。

 磨き上げられた琴が床の間に飾ってある。栗の材に埋め込まれた貝殻が寂しく鈍く光った。


「おばあ、琴が、琴がなくなった。床の間にちゃんと片づけておいたのに」

 素音子がいつになく興奮しておばあに詰め寄った。この家で素音子の琴に触れるのはおばあの他にはいない。素音子の目が激しくおばあを責めている。

「修理に出したんだよ。音が一つおかしかったからな。そんな怖い顔をするんじゃないよ」

「うそよ。私が琴ばかり弾いてるから、だからよそへやったんだ」

 必死の形相におばあは意外に思ってたじろぐ。

「なんでだ。あれはオレがお前にやったんだ。そんなことしてなんになる」

「私知ってる。前にゆうじんが言ってた。おばあが、私が琴にとりつかれて困ってるって、あいつのところで言ってたって」

「そうか、あーそうだよ。お前まで琴に取られたくないからね」

「お前まで、取られるって?」

「なんでもないよ!」

『何……どうゆうこと」

 詰め寄る素音子におばあは困り果てた。つきはなして部屋を飛び出した。行く当てもなくとぼとぼ歩いた。

 足の向くまま歩いていると、いつのまにかおじいの母屋に来ていた。木戸を開けて中に入ると、驚いたことに庭におじいが立っていた。

「どうしたんだ。お前が出歩くなんて珍しいなあ」

「そっちこそ、河の家はどうしたんだよ。近頃、めったにこっちに来ないって聞いてたぞ」

「家を貸そうかと思ってな」

「貸すって、よく来てる不動産屋にか?」

「不動産や、民食にするってか?」

 おじいは大声で笑った。

「上がってくか。今日は佐代の命日だ。風でも入れてやろうと思って出てきたんだ」

「命日……佐代さんの命日か」

「命日くらい、仕事休んでも罰あたらねえだろうからよ」

 おじいは鍵を開けると、静かに土間を上がり縁側に回って雨戸を開けた。

「田舎で暮らしたがってる人がいてな。まだ退職前だからそんなに町から離れるわけにもいかないし、この辺りがちょうどいいんだとさ。綺麗に使ってくれるなら、ばあさんもおこらねえかと思ってよ」

「前に言ってたんだよ。民宿よか博物館のほうがいいんじゃないかってよ。いい家だからなお前んとこは。とうとう貸すのか……惜しいよな」

 おばあは太い柱をなでながら、家の中を見渡した。

「生きてるうちが花だかんな。ほれこのままじゃ家も死んだままだろう」

「しかし、大家はあんなちっせー家に住んで、この大邸宅を人に貸すってか」

 おばあはあきれてけらけらと笑った。

「家が小さくても不自由してねえからよ」

「不自由なあ、オレは不自由ばっかりだ」

 おばあは溜め息をついて座り込んだ。

「琴子も琴の好きな娘だった、朝から晩まで弾きたがって琴に虜にされて、しまいには眠れなくなって歩き回るようになった。あの河に吸い込まれるように落ちて、助けに入った素音子の父さんまで道づれにして。やっぱうちは呪われてるんかなあ」

「何言ってる。社守りが呪われてるんじゃ世も末よ。お前はちゃんと長生きしてんじゃなええか」

 おじいはそう言った。しかし、現に素音子も夢遊病のように歩き回ることがあった。

「素音子から琴を取り上げた。もう教えられない」

「まさか、あんなに楽しみにしてたのに」

「危ないんだよ。あの子も夜、河のほとりに立ってたりする」

「ほんとか?」

「真っ青だ。身体も冷え切って、この世のものとは思えねえ」

 その話にはおじいも頭を抱えた。

「なあ、いっぺん河をさらってみないか。オレも琴には取り込まれないが、この河にはどうにも心がうつってしかたねえ。なんかあるかもな」

 おじいの話に、おばあはますますやるせない気持ちになった。

 気の進まない話だが、素音子を心配するおじいの気持ちはありがたい。一度河さらいをしてみるかとおばあは決心した。


 数日のち、ウエットスーツに身を包んだ若い男が数人、素音子がいつも立ちつくしている辺りの深場を探ることになった。澄んだ水をたたえる河の流れが右に大きく蛇行して色が急に変わる。そこは満々と深い色を保ち、誰が見ても深いことがわかる。泳ぎの得意なゆうじんもさねやんも、恐れて近づかないところだった。

 狭い村の中で河さらいをすることになれば、村中に知れ渡る。その日は珍しくたくさんの見物人が河を取り囲んだ。おじいはその喧騒に、忌まわしい心配事も忘れて、懐かしい昔の河祭りを思い出していた。鐘や太鼓で囃し立て笹に御幣を掛けて練り歩く白装束の自分はまだ子どもだった。

「河の神を讃える祭りを昔はやったもんよなあ。こんな美しい流れをつくる河の神を俺たちはもう忘れてしまった。その上忌まわしいなんぞと言って河さらいか、こんなことじゃ、神も仏もないよな」

 おじいのつぶやきを聞きながら、ゆうじんもさねやんも、おじいとこの橋の上からの見学を決め込んだ。

「おばあ、なんで河なんかさらうの?」

「昔、この辺りで人が身を投げたという。伝説だぁ……琴の楽にもお前に教えちゃいないがそんな話もある。この河が呪われてるとしたら、一度ちゃんと調べてみるかってな」

「人が死んだの?」

「ああ」

 力なく答えるおばあに、それ以上聞くことは出来なかった。素音子の耳にざわめきが聞こえてくる。河の中から素音子に呼びかけるように呼ぶ声が、胸をゆっくりと締めつける。

「やっぱ、なんかあるんかなあ……」

「どうした、素音子。顔色が悪いぞ」

「ううん、なんでもない」

 この河で、村のものが誰も知らないほどの昔、何があったんだろうか。素音子を捕らえて離さない何かが、河の中に眠っているんだろうか。素音子は苦しさにその場に座り込んだ。

「もしそうなら、悲しすぎる。私は辛いよ。おばあ!やめようよ。こんなこと、やめようよ」

「素音子。逃げては駄目だ!一度ちゃんとやらないとな。お前だっていつまでも苦しむことはないんだ。ちゃんと前を見て受け止めないとな」

 いつになく後に引かないおばあの力強い声だった。

 午前中、何も見つからないまま、河さらいは中断した。素音子たちはおじいの家で昼食を取ることになった。珍しく食事に誘ってもらってはしゃいでいるゆうじんたちとは反対に、素音子はおばあの持ってきた弁当に手も付けられないでいる。額にじっとりと汗をかき、浮かない顔をして黙ってうつむいていた。

「この村は平家の落人の村と言われてきた。遠い昔、臣下に下った皇統の末裔が戦いに敗れてこの村に流れてきたらしいとな。いまさらそんなこと伝える奴もいないし、確かめる奴もおらんが……。雅樂だけはなんとのう伝えられてきて、今でも受け継がれて、危なっかしいが輪郭くらいは残っとる。子どものころから、よくしかられちゃあ練習したものよ。どこの家も長男がその役にあたってな。嫌々集まっては社守りの素音子の家で習わされた。みんな男だ。なのに、琴だけはなぜかおんなが受け継ぐことになっとった。これが悲劇の始まりだな」

「なんで?」

 おじいの話にさねやんが口をはさんだ。

「みんな男なら問題もおきん。七福神だってみんな男だったら色気もなくてさっぱりしたもんだろう。素音子の親父さんも、琴をそりゃあ巧みに弾く素音子の母さんに一目惚れした。でも他の奴らもほっとかん。結局無理がたたって素音子を産むと、母さんは疲れて河に来ては流れをボーっと眺めるようになった。河の中から何か聞こえたんじゃろう。今までも何度も何度も繰り返されてきた怨念がこもっとろうな……河にはよ」

「怨念……」

「ああ、きっとな」

 怨念と聞いて、素音子は何か違う気がして考え込んだ。

「おじい、琴の調べは男には合わん。きっとそれだけだ」

 素音子の思わぬ反撃に、おじいは驚いて目を大きく開いた。そしておかしそうに笑って、ほっとした顔をした。

「そうかそうか、素音子はそう思うか」

「琴の音は複雑だからな。この村の男共には弾きこなせん」

 おばあもそう言った。

「こりゃあええ、久しぶりに気分がいいぞ」

 ゆうじんとさねやんが顔を見合わせて首を傾げた。琴にまつわるこの河の悲劇を知る者は多かった。だからこそ、昔の人は村を上げてお祭りをした。今のもんは気味悪いとか嫌がって近づかない。そのために祭りはさびれ人は伝説を忘れた。


 昼からの作業を再開した直後、別れて捜索していたダイバーが一所に呼び集められた。

 河を見つめる人々の声がざわめきに変わった。

「なにか上がったの?」

「さあ、待ってろ」

 すぐそばで待っていたゆうじんが、岩場に走り寄って声を上げた。

「箱?箱が見つかったと!」

 竿にコツンと当たったものは古い鉄の箱らしい。長い間に錆びた箱は慎重に動かさないと崩れそうで取り出すためにダイバーが呼び集められた。ぼろぼろに朽ちて砕けそうな古い箱。黒いウエットスーツに身を包んだ二人のダイバーが重そうに抱えて岸に向かう。周りの目が箱に注がれた。

「行こう。素音子!」

 さねやんの誘いを拒みながらガタガタ震える。今まで素音子を捕らえて離さなかった何かが今度は素音子を拒絶していた。

「素音子、行ってしっかり見てこい。そいつがお前を苦しめてる奴だったら、金輪際縁を切るとはっきり引導をわたしてやれ」

 おじいの強い言葉に素音子は背中を押されて立ち上がった。

 心配して見守るさねやんの顔は、いつもより優しかった。

「行こう、素音子!」

「うん……」

 二人が近寄るとゆうじんが真面目な顔で言った。

「錆びて蓋があかねえんだと」

「ほんとか?」

 恐る恐る近づくと、素音子は人垣の脇から顔を出して、その箱をしげしげと眺めた。箱というより小さな檻のようなその鉄の塊は、細かな唐草か何かの透かし模様らしき表面に藻がびっしりと絡み、このままでは中の様子はわかりそうもなかった。

 話を聞いて駆けつけた市の職員は熱心に箱を眺めたが、これから先は考古物として詳しく研究することになり、箱は」見物人の眼の前を通り過ぎあっけなく車に納められてしまった。

「大事になったな」

「こりゃあ、どうなることかの」

 おじいもおばも、意外な事の顛末に驚いていた。

「研究材料にさらわれるとは、呪いも、災もあったもんじゃないな」

 おじいがぼそっとつぶやくと、横からさねやんが、

「科学的に解き明かされれば、今までの不思議なことにも答えが出るんじゃない?」

 と言った。

「科学的な解明か……やれやれだな」

 ゆうじんはたった今、目の前に出てきた箱を思い出し、なんともやりきれない顔をした。

「素音子どう?何か感じる?」

事情を察したさねやんは、もう素音子をからかうことはなかった。

「なんともないの。何も聞こえなくなった」

「なんともって、それじゃあ、あの箱やっぱなんかかなあ」

「なんともって言ってんだから、なんでもないんだろう」

「違うよ。今まで何かだってことは、きっとあれに関係あるってことだよ」

「そんなもんかなあ。俺には分からねえ」

 ゆうじんとさねやんのやりとりが、素音子にはおかしかった。

「なんともねえってか。そりゃあ良かった」

「やったかいがあったってな」

 おじいとおばあの話を聞いて、またさねやんが騒ぎ出した。

「ほれ、おじいとおばあもそう言ってんじゃないか」

 でも、肝心のゆうじんはもう聞いちゃいなかった。

「ごめんな、素音子。おばあが琴を隠した。お前をこれ以上悲しい目に遭わせたくなかった」

「琴、弾いたらまたどうかなるかなあ」

「さあな、そりゃあわからん。やってみるさな」

「うん」


 市の調査がテレビに映された。箱は奇麗に洗われ、透かし彫りの表面がかろうじて唐草模様と判別された。鍵の部分が癒着し、無理にこじ開けるとぼろぼろの鉄が崩れそうで、箱を開けるのは断念された。

 しかし、この進んだ科学技術は中の物が何かをつぶさに解明していく。今のところ調査では、鏡、硯、香炉、装身具が確認された。

「こうやって科学的に解明されていくのを見ると、もう自分たちの手の届かないところで起こってることのように思えるね」

 さねやんがそう言うと、確かに素音子もそう感じてる気がした。

「素音子の顔色も良くなったよ」

「ほんと?」

 オジイの言葉にホッとして、素音子の口元がほころんだ。素音子の心にあったもやもやは不思議に晴れて、かき鳴らす琴の音も明るい音色になっていった。


 今年は昔とおりの奉納神楽をやろうと誰かれとなく言い出して、素音子の家は久しぶりに楽器を持って集まる人でにぎわった。その中には、父親に連れられて恥ずかしそうにしているゆうじんとさねやんの姿もあった。


  棟甚朗


 秋の入口、おじいの家に引っ越しがあった。珍しい街からの移民。口伝えに平家の落人村と言われてきたこの村は、町からの移入を長く拒みつづけてきた。空いている家は方々にあっても、誰も貸そうとはしない。新しい家を建てると、古い家はどの家も使われず、次第に朽ち果てていくのを待つだけだった。

 その家を、おじいは町のものに貸すことにした。おじいの家は、このまま朽ちさせるのは惜しいと不動産屋も目をつけるほどの立派な家だったし、思い切って河さらいをしたおばあの気持ちもおじいは考えてみた。

「そろそろ変わんなきゃな。大事なもんは残して、変われるもんは変えなきゃな」

 使われず朽ちていく棟甚朗をおじいは見たくなかった。そこは佐代ばあさんとの思い出の詰まった家だからだった。佐代ばあさんの磨いた床は、見事に黒光りする宝物だった。

 村人より村人らしい地味な風体の子供のいない夫婦が、村の一員となった。おじいの放ったらかされた広大な畑の一角を借りて家庭菜園を始めた。ネコの額ほどの畑には、素人くさく二株三株の苗がちまちまと植えられ、ささやかな農地となった。

「それでいいさ。ほっとけばみんな竹やぶになるしかなかったんだ。小さくたって畑は畑。これからが楽しみだ」

 おじいはそう言って、町からの移民を顔をほころばせて歓迎した。

 そして、相変わらずのブリッジハウスで葦の籠を編んで、子どもたちに話を聞かせていた。素音子の琴は短期間でおばあがびっくりするほど上達して、今ではおばあの琴に置いてかれないで伴奏できるようになった。

「本当に良かったよ。あれから素音子は顔色も良くなって、熱も出さなくなったし、おじいのおかげ。あの日、佐代さんの知恵が屋根から降ってきたんかもしれないね。ありがたいことだったよ」

 おばあはそう言った。そう言って嬉しそうに素音子を見て笑った。

 素音子は思う、自分は大人になったんだと。だが、実は心を震わすあの琴の音色は、今でも聞こえていた。ただ、心が強くなって、その音に引き込まれなくなった。今でも河のふちに立つと、素音子を呼んでいる声がする。その声が母親の声だと、素音子は理解できるようになった。


 奉納神楽がまもなく始まろうとしている。今年は異例な事が多い。神楽も若衆と年寄りの掛け合いで催される。そのうち若衆だけの神楽になるだろう。長いこと絶えてきた風習を蘇らせた今年の神楽は、一段とにぎやかな響きを、都会の縁で細々と生き延びる村に響き渡らせる。

 おじいの自慢のブリッジハウスに、今日も神楽の練習の音が川音とともに聞こえてきた。

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異世界への使者episode6 琴の河 @wakumo

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