水垢離開眼冥想 体験記
Kから送られてきたメッセージと馬鹿馬鹿しい自撮り写真を見た私は、ここ数ヶ月で一番の大笑いをした後に、それから少し考え込んでしまった。
「人生が見違える!! 波導エリの最強おまじない」、「光相の導き 活動報告書 平成十一年春号」の情報をKに共有したのが一昨日のこと、そこから三日も経たぬうちに彼はおもむろにそのおまじないとやらを試してみせたのだ。
異様なフットワークの軽さ。
人並み外れたチャレンジ精神。
「面白い」ことに貪欲なその姿勢。
そんなKの在り方こそが、彼が売れっ子作家たる所以で。
そして、先にこの情報を得ておきながらただ面白がるだけで終わった私の受け身な姿勢こそが、私が弱小作家たる所以なのではないか、と。
彼は私と違って天才だから――。
そうやって思考放棄することは、とても簡単で気楽ではある。
私がいつからか無意識に胸に抱くようになった、「彼に勝てなくても仕方ない」という心の中の免罪符。それが何で出来ているかというと、学生時代にKが先んじて商業デビューを果たしたあの日から積もり積もらせた、負け犬の諦観だった。
彼は成功者で、私は敗北者。
そこは確かに、純然たる事実である。
そうだとしても、仮にも私は――凄まじい作品を出してこの世に爪痕を残さんと息巻いていたんじゃなかったのか? 私は自問自答する。Kに負けないほどの凄まじい作品を生み出すと、口先だけでなく本気で思っているのなら、そんな腐った思考回路なんていの一番に千切り捨てるべきだ。もっと涙でも汗でも血反吐でも巻き散らして、全身全霊で知力と根性を振り絞って必死に駆けずり回らないでどうする。
そう。負け犬ならば負け犬なりに、死ぬ気で戦うべきじゃあないのか。
ふつふつと湧き上がる情動。
私は我慢できなくなって、部屋でひとり、慟哭を上げた。
それはもう大奮起だった。今の今まで飲んでいたお酒の一升瓶とコップを放り捨て――ようとしたところで危ないし片付けも大変になるからそっと机に戻し、それから猛る気持ちに突き動かされるままモニターを点けた。日々容量ばかり増えていく割には活用する機会を得られない資料フォルダに突っ込んだデータを開いて暗記する。
一 お風呂に常温の水を張り、その中に粗塩と清酒を小さじ一杯入れてかき混ぜる
Point! お風呂が難しい場合、顔が入るくらいの大きさの桶でも大丈夫よ♪
追い焚き機能のついていない築三十五年の古びた浴室、その小さな風呂釜に蛇口を全開にして水をどぼどぼと入れ始める。お酒ならいくらでもある。さっきまで飲んでいたのだし。むしろ塩のほうが困った。自分で料理などほとんどしないものだから。
押し入れの中を引っ掻き回す。転げ出た小袋。塩だ。
大往生した曽祖父の葬儀で際に配られた、お清めの塩だった。
それを保管しているのもどうなのかと思うしそれを今使うのもどうなのかと思いつつも、しかし常識に囚われていてどうすると考え直してざっと中に振り撒く。ついで酒の方も、一度瓶から直飲みして惜しんだ後に、風呂桶にもしこたまぶちこんだ。
二 水の中に身体全体をまんべんなく浸す
Point! 桶で行う場合は、顔全体を浸してね 塩の量はうまく調節!
乱暴に脱ぎ捨てた服と下着を放ったらかして、大きな深呼吸を一度したのちにドボンと身を沈める。十一月も下旬なので水の冷たさに「ぐわあ」という声が漏れる。酔っ払っていたのは僥倖だった。シラフであればここで冷静になっていた。
三 水の中で目を開けて、十秒数える
Point! 塩水が目に染みるけど、まばたきをしてしまったらやり直し
首まで浸かったあとに肺を無理やりこじ開けて空気を溜め込み、顔を仰向けにしたまま身体を滑らせてしっかり鼻先まで水中に導く。揺れる髪から滲み出た気泡が水面へと逃げ出して行くのをぼやけた視界で見上げつつ、口の中で数えていく。
四 目を開けたまま、そっと顔を水の中から出す
Point! この時、絶対に顔を拭ったり拭いたりしないよう注意
七つの工程の中で何が一番辛かったというと、意外に思われるかもしれないがこの目を開けたまま水中から出る、というところだった。したたる水の雫がぽたぽたと目に流れ込んできて否応なしに眼球が刺激されるのだ。必死にまぶたを開き続ける。
五 目を開けたまま真上を向いて、一点をじっと眺める
Point! この時、視界がぼやけていればぼやけているほどGood
水滴に刺激される度につられて涙まで滲んできて、世界はアトランダムに歪んで何もかもが曖昧になる。風呂場の灯りのぼんやりとしたオレンジ色くらいしか視認出来ない中で、首を伸ばして天井があるであろう方向をじっと見つめ続ける。
六 そのまま運命の神様の見えない顔が自分のことを見ていることをイメージ
Point! あくまでイメージ。本当に見えてしまったら失敗よ
この時、微塵も恐ろしさを感じなかったといえば嘘になる。何も起こらないことが頭では分かっていたって、こんな無防備な状態で何かがいることを想像したら怖くもなろう。そして今更思う。見えてしまったら失敗、とはどういうことだ?
七 目を開け続けて限界が来たら目を閉じてOK。これを3セット行う
Point! 身体に運命の神様のパワーを感じたら、それで成功!
晒した肌は総毛立ち、首筋がぞわりとする。厭な感じがする。しかしそれでやめる程度なら最初からやらなければいい。歪みに歪んだ痛む視界の隅に、何かが潜んでいる妄想に駆られた。身じろぎで立った水音が誰かが呟いたかのように聞こえた。早鐘を打つ自らの胸の鼓動、その音がうるさくてうるさくて集中できない。
あれ、と思う。なんだろう。
最初は飛蚊症だと思った。顕微鏡で覗く微生物に似た、ぼやけた薄黒が視える。しかしどうも違うらしい。それはじわりじわりと肥大化していっている。音もなく。小刻みに振動して。これは何だ。極小の裂け目を無理やり押し拡げるように侵食してくる。もしや私の元へと近づいてきていやしないか。
弓なりで。
湾曲して。
落ち窪んだ。
三つの、陰影――?
これは、顔?
すぐに我慢できなくなって、瞬きをした。
溜まった液体が瞳から流れ出て、明瞭になったそこには――経年劣化で黄ばんだ天井。なんの変哲もなく、私以外は誰もいない、慣れ親しんだ賃貸アパートの風呂場であった。呼吸の荒さも、波が引くように落ち着いていく。
それから、あと二セットを行った。
拍子抜けな程、何の変化もなかった。
はは、と乾いた笑いを思わず漏らしてしまう。
私は自分が思っている以上に臆病なのかもしれない。
風呂椅子に置いていた携帯端末を拾い上げ、大事なところが映らないように調整して自撮り、それからKに「修行なう」のメッセージと撮った画像を送りつける。
まずはこれで良しとしよう。
どんな物事も模倣から始まるものだ。
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