あなたは無敵

おいしいお肉

第1話

 ──そいつは、いつも俺を見ていた。


 ⭐︎

 

 大学二年生。それは世間から見れば、この世の春というべき頃である。大学受験に合格し、一人暮らしにも慣れ、サークルに学生生活に、やることが目白押し。されどまだ、就活は遠く、モラトリアム真っ只中。そういう、年頃だ。

 俺は、まあ。そんな春を使い潰している。ろくに勉強もしてないし、サークルには馴染めなくて一年の途中でやめた。必修単位を取るために勉強をして、それ以外はバイトに明け暮れていた。

 

 んだけど、まあ。その日はなんというか自棄で。なんでかってーと、地元とこっちで遠距離恋愛をして三年付き合っていた恋人に振られたなんて、よくある理由で。

 慣れない夜遊びをして、バカ高い度数のカクテルなんかを飲んで、ゲロ吐いて、トイレで突っ伏して。とにかく惨めだったのだ。

 おしゃれすぎて店名も覚えてないバーの店員にひとしきり謝った後、俺はもう二度と外で酒は飲まないと誓った。そして俺は夜の街におぼつかない足取りで踏み出す。

 時刻は深夜二時。終電はとっくに目的地へ向かい、残された俺はすることもないので、眠らない街を歩いた。

 都会は、都会と名乗るだけあって、雑然として煩かった。夜は名ばかり、ギラギラとした光はまだこの眠る気配を見せない。

 

 ──まあ、多分。この時の俺はまだ酒が抜けきってなかったんだろう。


  ふと、ぼんやりと歩いているとたむろしている男たちの集団が目に入った。

 全員が全員、足が長く、すれているのに洗練された雰囲気があった。シティーボーイというのは、こういう人たちを言うのだな。と俺は一人納得した。

 その中に、一人。じぃいと、俺を見つめる目があった。当たり前だ、深淵を見るとき、深淵もまたこちらを覗いている。ニーチェだっけか。まあ、どうでもいいが。

「オニーサン。なあ、何見てんの」

 不意に、後ろから声をかけられる。振り返ると、先ほどの集団の一人らしき青年が俺を怪訝そうに見つめていた。

「ああ、あの、いい車だな……と、思って」

 俺は口籠もりながらそう答える。車の知識なんてろくにないが、誤魔化すために出た咄嗟の嘘だった。

 どうやら、結果的にはそれが功を奏したらしく、青年はにぱっと八重歯を見せて笑った。彼の履いている白いスニーカーのような笑顔だった。

「アーーども、あれ俺の車」

 青年は、優吾と名乗った。笑うたび、彼の大ぶりなピアスと、肩まである黒髪が揺れた。

「オニーサン、この辺じゃ見かけないよね。どこ出身なの?」

 関東の田舎の方だ、と口籠る俺に、優吾は嬉しそうに自分と俺が同郷であることを告げた。

「えーこの辺じゃ、俺と同郷なんて、アイツくらいだし。お仲間さんと会えるなんて嬉しいわー」

 アイツ、と優吾が指差した先を見た。そこには先ほどの鋭い眼光の彼がいた。ダウナーな印象を受ける目元と、恐ろしいほど整った白い顔が煙草の煙にゆらゆらと揺れている。

 タンクトップにスカジャンという歌舞いた格好だったが、不思議と彼からは品が感じられた。

「──ハルマ」

 俺と優吾の視線に、くいと顎だけ動かして青年はそう名乗った。

「よろしく、ハルマ。なんて字を書くんだ?」

「当ててみて」

 に、と唇の端だけ尖らせてハルマは皮肉げに言った。

「季節の春に、馬か?」

「ちゃう」

 俺が何個か提示して見せた漢字の候補を彼は全て否定してみせた。

「はは、お兄さん。下手やんな?」

 それだけで、俺はもうハルマを好ましく思い始めていた。

 

 ⭐︎

 それから、何が劇的に変わるわけでもない。あの夜のおかげで、俺は少しだけ夜の街が好きになって、時々ハルマと優吾に会いに行った。二人は決まった場所にいるわけではなく、俺は夜の街を徘徊しては彼らを探した。

 運よく、何度か彼らを見つけては、一緒に酒を飲んだり、アイスを食べたり、コーヒーを飲んだりした。不思議と、彼らにはもう一度会いたいと思うような魅力があった。

 二人は、いつも一緒にいた。少なくとも、俺が探すのは二人で、見つけるのも二人だった。

 それだけ。

 

 二人とする会話は、いつだって当たり障りがなくて、俺には心地よかった。

 

「オニーサンって、勇気あるよね」

 優吾が俺の顔をまじまじと見つめ、言った。レトロな内装の喫茶店は、深夜だというのに客足が途絶える様子はない。こんな時間でも、人は暖かさやコーヒーを求めるものらしい。

 俺はタバコを吸わないが、二人は吸うらしいので喫煙席についた。

 タバコの煙が、上がっては消えていく様が珍しく俺はぼんやりとそれを見上げた。

「そうか?」

 俺は首を傾げた。

「だって、俺たちみたいなのにも、普通に話しかけるじゃん」

 優吾は、ホットコーヒーをふうふうと冷ましながら言った。

「最初はビビったよ。でも、別に殴られたりカツアゲされるわけでもないし。今もこうして、俺の相手してくれるし」

 ハルマも優吾も、随分と優しいと思う。俺なら、こんなよくわからない奴に話しかけられても、相手にしないし、無視するだろう。

「だとしても、あんまりこの辺、治安良くないんだから。おにーさんみたいなのパクッと食べられちゃうぜ」

 カラカラと優吾は笑った。ご丁寧にがおーと獣の鳴き真似までして。

「別に、平気だろ」

 ハルマが窓に映る街灯の光を眺めてポツ、と呟いた。

「お兄さん、如何にも無害そうやし」

「アー確かに。殴る気も失せるわな」

 二人はうんうん、と納得したように頷いた。

「そりゃあ、どうも」

 俺は、頬杖をついたまま一番安かったアイスコーヒーを啜った。当たり前だが苦い。

「おえ」

 俺は咽せた。

「汚ねえ、……なあ、俺にも一口頂戴」

「いいけど、」

 俺がそういうと、ハルマは躊躇いもなく俺が口をつけたストローに口をつけた。同性同士だし、あまり気にすることもないか、と俺は特に何も言わなかった。

「はは、間接キス」

 ハルマがいたずらするように笑って、グラスをこちらによこした。

「にげー、俺これ嫌いかも」

「じゃあ飲むな」

 おえ、と舌を出したハルマに俺は言った。

「俺トイレ行ってくる」

 そんな俺たちに呆れた調子で、優吾が席を立った。テーブルには俺とハルマの二人だけになった。食べかけのチーズケーキが砂のように崩れている。

 

「なあ、お兄さん」

 優吾の後ろ姿を見届けたハルマが、内緒話でもするように声を顰めて俺に話しかけてくる。ハルマは咥えたままのタバコを携帯灰皿にねじ込む。

「ん?」

「俺の名前の漢字、わかった?」

 息を潜めて言うような内容かと思いつつ、俺は簡潔に答えた。

「さあ。わからん」

 結局、あの後も何度か候補になる漢字を探したが、どれもハズレだった。俺にとってハルマはいつまでもカタカナのままだ。

「そ。ならいいわ」

 にこ、とハルマが頬杖をついたまま笑った。いやに寂しげな匂いがした。

「いつか教えてくれよ」

 それが何を意味するのかわからないが俺は苦し紛れに、そう答えた。

 ハルマは少し考え込むようなそぶりを見せて、んーと迷って、そうして。

「そね、いつか」

 とだけ言った。

 またね、とハルマは言わなかった。それきりだった。その日は、そのまま解散になった。


 ⭐︎

 

 ぼんやりと空を眺めていると、また青は濃紺に変わり、星は輝き太陽は眠り、月が顔を出す。それは、あの日も、今も変わらない。

 ハルマと優吾とは、あれ以来一度も会えていない。街を歩いても、どこを探しても、二人の姿を見かけなくなったのだ。二人を通じて知り合った人たちに尋ねても、誰も二人の行末を知らないのだと言った。

 俺は、二人の連絡先も知らないことに気づいた。あそこに行けば絶対に二人に会えるという前提は、二人がそこにいてくれなければ崩れてしまう。そんなことすら気づかなかったのだ。後悔しても、もう遅いけど。

 

 そうして、一年が経ち、二年が経った。

 俺は変わらず、週末になると夜を歩いて二人を探した。彼らの面影を縫うように、道を歩いて、そうして時たま殴られたり絡まれたりもした。

 けれど、俺は二人を探すのをやめなかった。

 

 俺はもうとっくに都会の喧騒に慣れ、遊び方を覚え、夜のなかで泳ぐすべを身につけた。女の子と踊るような軽薄さは、俺には無縁だと思っていたがやってみると案外楽しくて、孤独が紛れた。

 酒の飲み方も24時間営業の喫茶店も、どうしようもなく沈んでいく気分の持ち上げ方も、グーで殴ってくる奴にパーで手を振る逃げ方も、全部二人から教わった。

 俺の体のどこにも、もう二人の痕跡はない。細胞は入れ替わり、季節は巡る。



 ⭐︎

 

「お兄さん」

 いつものように2人を探していたある日。

 夜の街のざわめきに乗って、誰かに声をかけられた。振り向くと、あの頃より少しやつれたハルマがいた。

 とろんとした目つきは眠たそうに見えて、その奥に刃物のように研ぎ澄まされた光を携えていた。

「……久しぶり」

 俺は驚いて、ろくに言葉も返せないままそれだけ言った。

「ハルマ1人か?優吾は?」

「ああ……優吾はいんよ。残念?」

「いいや、会えて嬉しいよ」

「……もう、会えんかと思った」

「俺も。もう二度と会えないと思ってたから、こうして会えて嬉しいよ」

 

 立ち話もなんだからと、俺とハルマは近場の喫茶店に入った。ハルマはアイスカフェラテを、俺はアイスコーヒーを頼んだ。

 喫煙席に座ろうとして、ハルマが首を振った。もうタバコは吸わないのだと端的に告げられ、禁煙席に移る。

「あれ、コーヒー苦手じゃなかったけ」

「ああ、ガムシロ入れれば飲める」

「ガキやん」

 ハルマは歌うように笑った。

「うるせえ」

 こうしていると、まるで数年の空白などなかったように、自然に友人としての振る舞いを思い出す。

「……二人は、今何してるんだ?」

「……あー、なんか言いにくんやけど。優吾は、去年の暮れに」

 死んだんよ。とハルマはまるで他人事のように言った。ハルマの笑顔が曇るのを感じる。

「本当、なのか……」

「うん。その飲酒運転の車に轢かれたらしくて。俺も、半年くらい連絡とってなかったから、全然知らんかったんやけど……」

「そうなのか、言い難いこと聞いてすまん」

「別にええよ。俺こそ、連絡せんでごめん」

 はは、とハルマは空元気のように笑った。その笑みはあの頃のダウナーな空気と共に、どこか痛々しさを携えていた、

「俺と会わない間、何してたか聞いてもいいか?」

「あー……なんか、さ。色々あって」

 ハルマはがしがしと頭を掻くと、うーんと唸ってそれからカフェラテを飲んだ。

 聞いてほしくない、とハルマの顔に書いてあるようで俺はそれ以上踏み込むのを躊躇った。

「言い難いこと聞いてすまない、その」

「いや、気づいてたかもしれんけど、あの頃の俺らって付き合ってたんよ」

「えっ」

 全然気づかなかった。

「じゃあ、あの頃の俺ってお邪魔虫だったんじゃないか?」

「それはない、絶対」

 間髪入れずにハルマは断言した。

「あの時の俺らの世界には、俺らとお兄さんしかおらんかったよ」

 ハルマは過去を懐かしむかのようにぽつりと言った。そういえばハルマと優吾の周囲には、他者を寄せ付けない雰囲気があったなと思い出す。

「……てっきり仲のいい友人同士かと」

「お兄さんが鈍かっただけじゃね」

「そうかもしれない」

 学生時代も、今も、誰かから好意を寄せられることに鈍かったし、周囲で惚れた腫れたがあっても蚊帳の外だった。俺にはそう言った感情がやや希薄なのだろうと思う。

「なんか、俺らって変なのに好かれやすくてさぁ」

 変なの、が果たして何を指すのかはわからない。

「でもなんか、お兄さんは違ったんよね。俺らのこと、人間扱いしてくれるっていうか。なんだろ、無害?」

「よく言われる」

 職場の女性陣にも「君はいい人止まりだよね」などと言われたことがある。学生時代に付き合っていた彼女からも「つまらない男だ」と言われてフラれているし。

「俺も優吾も、お兄さんのこと割と本気で好きだったよ。……だから、離れたんやけど」

 ハルマはその後も何か言ったが、声が小さくて聞き取れなかった。

「すまん、後半の方声が小さくて……今なんて?」

「はは、ぜってぇわかってないやん」

「いや、あの。俺も二人と会えなくて寂しかったし、また会いたかった。お前らは大切な友人だ」

「……そっか、ありがと」

 ハルマはぐしゃっと破顔した。

 そうして、グラスが空になる頃俺たちは喫茶店を出た。

 

「なあ、連絡先教えてくれないか」

 と、俺はハルマにスマートフォンを見せた。

「んー、どうしよかな。」

「また、ハルマに会えなくなるのは嫌だ」

「はは、それ言われると断れんなぁ」

 ぽりぽりと頬を掻いて、ハルマは俺にスマートフォンを差し出した。通話アプリでお互いのIDを交換する。

「なぁ、お兄さん」

 ハルマは画面に映る俺の連絡先をしげしげと眺めていた。

「なんだ?」

「優吾は、俺のせいで死んだって言ったら、怒る?」

 先ほどと変わらない調子で、ハルマは言った。

「……冗談にしてはタチが悪いな」

 嘘であってほしい、ので俺はそう答えた。

「まあ、嘘やけどさ」

「やめろ、そんな縁起の悪い」

「……うんごめん」

 じゃあまた。そう言って別れようとする。ばいばい、と手を振るハルマの背中が夜に溶けていく。でも、なんだか胸に漠然とした不安が残って、むくむくとその大きさを増していく。まるで、あの時のように。もう二度と会えないんじゃないか。

 

「……ハルマ!」

 考えるより先に、体が動く。俺は大きな声で彼の名前を呼ぶと、そのままハルマの体に飛びついた。

 驚いたハルマがバランスを崩し、歩道に倒れ込む。そうして、俺も一緒に地面に倒れた。

「いってぇ……何、」

 頭を庇いながら、ハルマが俺を睨みつけた。俺はハルマの腰あたりにしがみつくと、まっすぐ彼の目を見つめ返した。

「一緒に暮らそう」

「なんで?」

「なんだか、ほっといたらお前まで死んでしまいそうな気がするから」

 優吾が死んだ、と言った時震えた肩があまりにもか細くて。やつれた頬と目の下のクマに滲む影が恐ろしかった。

「だから、一緒に暮らすん?馬鹿じゃねえの?」

 俺に呆れたようにハルマはそう吐き捨てた。

「馬鹿でもいい、頼む。俺の前から消えないでくれ」

 俺がそういうと、ハルマは小さくため息をついた。

「……消えんよ」

 

 ハルマはそう言って、俺の頭を撫でる。あの夜俺を射抜いた瞳が、今はこんなにも優しく俺を映していた。

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