第1話 既に手中にある幸せ。
皇光暦299年――
ヴィックス城下町――
一人、門兵として槍を携え、山のように大きい城門の前で立哨する。
ヴィックス城、アド伯爵の住まうこの居城を守るのが、この俺、アル・サバスの仕事だ。
危険人物の城内への入場は禁止、許可なき者は通さず、怪しい物資は回収する。
立哨の目的を問われればこう答えるが、覚えているだけで実践した事はない。
何せ、人の出入りが殆どないのだ。
立ってるだけの楽そうな仕事でいいやね、そんな事を若い冒険者から言われた事もある。
面と向かって反論はしない、むしろ、その若さが微笑ましい。
いつの間にか、俺もそんな風に考える年齢になってしまったんだな。
兵長という役職を頂き、少ないながらも部下を抱えている今の現状に、不満は何もない。
本日も異常なし。平和の時を感じながら、青い空と白い雲を眺めていた、すると。
カッチャカッチャと、気怠そうに歩いてくる音が聞こえてくる。
移動の時は見られている事を意識しろ、そんな教えを端から捨てた歩き方に、苦笑する。
「サバス兵長、立哨交代します。今日はいい天気すぎて、寝ちまいそうっすね」
「立ちながら寝る様になったら、ビンクス爺さんの仲間入りだぞ?」
「勘弁して下さいよ、まだ六十には遥かに遠いっす。でも、あの爺さんも今年で兵役引退っすもんね。二十歳を超えてから、なんか時間の経過がやたら早く感じるっすよ」
「本当にな……引継ぎは特に無しだ、ゴーザ一等兵」
「了解っす、ゴーザ一等兵、地獄の立哨に入ります」
ピッと敬礼した部下のお茶らけに愛想笑いを浮かべ、一人詰め所へと戻る。
地獄の立哨か、確かに、眠気という敵は手ごわいからな。
カッチャカッチャと音が聞こえてくる。
おっといけない、いつの間にか姿勢が悪くなっていたか。
指導する立場でありながら、腑抜け過ぎだな。
門兵指定の鎧兜を身にまとい、何もない門の前でこれから二時間の立哨に就こうとする彼の目にも、将来への希望というものは見られない。俺が三十一歳を迎えたのだから、三つ年下のゴーザ君だってそれに近い年齢なのだ。夢を見るには、俺達は歳を取り過ぎたのだろう。
――――
「では、後を宜しく頼む」
「サバス兵長、お疲れ様でした」
「ああ、役務に穴を開けないよう、英気を養っておくんだぞ」
翌朝、詰め所で制服から私服に着替えると、まだ低い朝日を浴びながら帰路に就く。
丸一日働いて、翌日一日休み、次の日も休む。
一日働いて二日休むが基本のこの生活は、他の仕事よりも自由な時間が多い。
とはいえ、俺は空いている時間にまで働くような、殊勝な心掛けは持ち合わせていない。
空いている時間は全て家族に費やす、そう決めている。
庭付き一戸建て、職場から歩いて通える俺の城だ。
築年数はボチボチだが、誰の援助も無しに購入する事が出来た、俺の宝物の一つ。
暇つぶしに始めた庭いじりも功を成して、今では自家栽培の野菜が収穫できるほど。
緑豊かな庭を眺めながら、飾り気のある扉を開いて、玄関へと一歩踏み込む。
「ただいま」
「あなた、お帰りなさい」
玄関を開けるなりパタパタとやってきた美人妻を抱き締め、唇を重ねる。
愛妻のフェスカとは、顔を合わすたびに必ずキスをする。
大恋愛だったんだ、結婚六年を過ぎた今でさえも、それは変わらない。
「マーニャの姿がないけど、どこかに出かけたの?」
「ええ、カイガルさんのとこに算術の練習をしに行ってるの。あの子、将来は商人になるんですって。一生懸命勉強してるのよ?」
「それは凄いな、さすがフェスカの娘だ」
「貴方の娘でしょ? 二人の子供なんだから、優秀に決まっているわ」
後ろから俺を抱き締めるフェスカと、もう一度キスをする。
愛妻と愛娘、二人に囲まれた生活は幸せしか存在しない。
朝帰りの俺専用に用意された食事を済ませると、一人湯あみをして、一日の疲れをお湯と共に洗い流す。足が延ばせる程に大きい浴槽も、この家の自慢の一つだ。家族三人で入った方が賑やかだし幸せだが、こうして一人で入るのも悪くはない。
と、思っていたら、脱衣所から可愛らしい誘い文句が。
「一緒に入ってもいい?」
「……構わないよ、おいで」
年相応には見えない妻のフェスカは、綺麗な金色の髪をまとめ、裸体となって浴室へと足を踏み入れる。五つ年下の幼馴染。娘を出産したにも関わらず、十代の頃から変わらない体型を維持しているのだから、妻の努力にただただ感服するばかりだ。
彼女も湯舟につま先からゆっくり入ると、俺の膝の上に静かに座り、その身を預ける。
少なかった残り湯が一気に増えて、首筋まで温かい。
「朝から洗濯と掃除で汗かいちゃってたから……はぁ、お風呂気持ち良い」
「俺も、フェスカの裸が見れて嬉しいよ」
「……もう、何度も見てるでしょ? 今更、何を言ってるのよ」
振り返った彼女ともう一度キスをするんだ。
汗の匂いなんて、俺からしたら誘い香でしかない。
帰ってきた時とは違い、舌を絡める濃厚なキスは、やがて糸を引く。
「……アル」
頬を染めたフェスカは、俺の身体に出来た傷跡の一つ一つに舌を這わせていく。
十年戦争、全身に残る傷跡は、その戦争の苛烈さを語るには申し分ない。
終戦して六年、傷も癒え、こうしてゆったり出来るのだから、本当に幸せだ。
「フェスカ……」
名を呼ぶと、蕩けた瞳で俺を見上げ、しなやかな腕を首に回してくる。
戦争から戻った俺を出迎えた日の事は、今でも忘れない。
誰よりも彼女を求め、愛してしまう。
それを、どれだけ望んだか。
「ただいまー! あれ? ママー? パパはー?」
活発な声が聞こえてくると、俺達の手は動きを止めた。
帰って来ちゃったね、そう言いながら微笑むと、フェスカは湯舟から立ち上がる。
丸みを帯びた肢体はとても美しく、今だって目が奪われてしまう程に綺麗だ。
本当に、何不自由のない、幸せな日々を送っている。
心の底から、そう思う。
そう、思っていた。
――
「サバス兵長って、もう兵役について何年目ですか?」
ゴーザ君の質問に、眉を少々ゆがめる。
そんなの聞かなくても分かるだろうに。
「ゴーザ君の勤続年数から、足すことの三だよ」
「そうっすよね、だとしたらこれ、参加する権利あるって事じゃないっすか?」
ゴーザ君が手にしているのは、王都からの通達書だ。
特例試験のお知らせ、年齢三十歳以上、現在兵長職以上の者に限る、と書いてある。
「それ、サバス兵長直撃っすよね」
「……まぁ、そうだが」
「いいなぁ特例試験、受かったら一撃で士官候補っすもんね。王都部隊に編入されたりなんかしたら、奥様もマーニャちゃんも喜ぶんじゃないんすか?」
……受かるはずないだろうな。
大体こういうのは、もっと裏の理由がありきだったりするものだ。
「ま、頭の片隅にでも入れておくよ」
「兵長が退いたら、空いた席には俺が座りますからね」
「お? そんな欲がゴーザ君にあるとは知らなかったな」
「ここの兵長くらいなら、俺でも出来そうじゃないっすか」
「……自身を過小評価しすぎだ、君はもっと優秀だろうに」
「そんな事ないっすよ。俺はここで十分っすから」
立哨用の鎧兜を装着すると、ゴーザ君は踵を揃えて敬礼する。
「それでは、地獄の立哨業務に入ります!」
「……了解、居眠りだけはしてくれるなよ」
しかし、特例試験か。
フェスカは何と言うだろうか。
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