旅立ちの日にを聴きながら火葬場に座り込む

紺さてん

旅立ちの日にを聴きながら火葬場に座り込む

 今までどこに隠れていたの。

 そう問いたくなるような数の大人たちがわたしを囲んだ。

 大人たちは神妙な顔を向かい合わせて隅の方に固まっていた。

 はじめてお目にかかったわたしのおばあちゃんを名乗る老婆は車椅子に乗っていた。

 従姉妹のこだまは「これが本物のおばあちゃんってやつだ」と興奮していた。

 認知症を患っている彼女の話し相手に任命されてしまったわたしとこだまは、繰り返し話す昔話に相槌を打った。彼女が語っている間は他の大人が割り込んでくることはなかったし、近くにいた女性が思わず眉をひそめてしまうような昔話に耳を傾けるのは退屈ではなかった。

 おばあちゃんや他の親戚に出すお茶の準備をしようと控室に向かったけど、中には入れなかった。

「とにかく悪いように見せたくないんだろう」

「そうそう。どうせ隠したいだけで」

「どうすんだろうねえ、これから。今までだって毎月そこそこの額振り込んでもらってたんだろうし。妹のほうだってまだ中学生なんだろ?」

「今年からもう高校らしいよ」

「ああ、じゃあいいじゃん、高校出たらすぐ働いてもらえばさ」

「それに特待入学なんだって。さっき自慢されちゃったわよ。そんなこと聞いてないのに」

 わたしは話が落ちつくのを待ってから扉をノックした。

眉を下げて「お気の毒に」を連ねる彼女らに「こちらこそご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ないです」と、お母さんに倣って頭を下げた。

 一人がわたしが入学する女子校の卒業生なのだと告げてきた。

 お葬式だというのにキツイ香水の匂いを漂わせる女性は、自分が中学からの内部生であることを強調し、高校から入る外部生がどのような振る舞いをするべきかを嬉々として喋っていた。

 彼女はわたしの高校進学に入学金が必要なく、授業料も格安で済むことを知ると安堵した。

「お姉さんが残してくれたオモイデは大事にしなくちゃね。これからつらいだろうけどきっと大丈夫よ。前を向いて、乗り越えて。」

 式の終わり、誰かが口にしたその言葉を合図にして、役目を終えたように晴ればれした大人たちは帰宅の準備を始めた。わたしとお母さんは早々と立ち去る多くの車に笑顔で挨拶しなければならなかった。今日のお礼を言うと数人が握手を求めてきた。

 わたしの手より一回りも大きな手に何度も力強く握られた。

 今までのこと全てに対する清算の完了と、これからのわたしたちの生活に関与しないことが約束された握手だった。

 まだお昼ごはんも食べていないのに、彼らは半日残された休日を惜しむようにアクセルを踏んでいた。

 蜘蛛の子を散らすように再びどこかへ隠れてしまった彼らをもう一度みつけることはできない気がした。


 背の高い煙突から煙が上っていく。

 排出口から現れたときは真っ黒な集合体だったものも、次第に分散して見慣れた灰色の煙へと変わっていった。色味の薄い水色をさらに水で溶いて引き延ばしたような冬の空に広がった灰色は時間をかけてゆっくりと消えていく。

 ほんとは消えてなんかいなくて、さらに高い空へと上昇しているだけなのかもしれない。それでも、今年の視力検査で2.0を記録したわたしの目に見えなければそこにないのと何ら変わらない。消えていく煙に目を凝らしているうちに、視界の端には再び黒い塊が生まれた。

 かつては真っ白だったはずの煙突の外観はどこもかしこも薄黒く染まっていた。やんちゃな子供がペンキで落書きしたかのようなわざとらしい汚れがたくさんある。

 ついこの間、スーパー内に流れる音楽がクリスマスソングに変わった十二月の中旬、帰省した姉に連れられて行ったバッティングセンターで握ったバットは確か、あの煙突、あんな感じだった。

 午後のまだ早い時間、冷たい空気が首筋を撫でる。

 手袋をつけずにいたせいか指先は感覚が鈍くなっていて、ワンピースから覗く黒のストッキングはなにも守ってはくれない。タイツを履こうとしたらお母さんに止められた。

 改装工事が済んだばかりだという火葬場のホール内は不自然なほど明るく照らされていて、影などどこにも見つからない。天井から聴こえてくるオルゴール調にアレンジされたポップスは五年前に流行した曲でわたしにとっては時代遅れだった。

 午前中から悲しげなメロディばかり往復している。お姉ちゃんが好きだったハスキーボイスの女性が歌う洋楽は流れなかった。

 ロビーでわたしを待っていたスーツ姿の男性が案内してくれた小さな部屋には既に全員が集まっていた。

「どこ行ってたの」

 お母さんは耳打ちするように小声で問う。

「なんか暑くてここ。」

「あんまり勝手に出歩かないで」

 お母さんは小さく息を吐き、わたしを案内してくれた男性とは別のスーツに目配せをした。よく分からないがわたしもお辞儀しておく。

 顔にべったりと貼り付いたような微笑みを浮かべた男性は手順を一通り説明してから、お母さんを含む大人たちをちらちら交互に見やりこれからの工程について相談していた。

「じゃあ、少しだけやらせてもらいます」

 母が申し訳なさそうに告げると、男性は会釈して部屋をあとにした。

「すーちゃん」

 隣でペン回しのように箸をくるくる回していたこだまがわたしの肩を小突く。

 彼女はわたしたちの真上のスピーカーを箸で差して

「これの歌詞ってさ、二股彼氏との失恋がどーたらーってやつじゃない?」

そう言って笑った。

 確かに、言われてみればそうだ。泣けると話題の学園モノ映画の主題歌だったはず。

 姉の骨が散らばったトレイを挟んで対岸にいた叔母さんがこだまを睨んだ。

「こだま、ソウイウこと言わないで」

「えー、でもあたしよりこの歌のほうが不謹慎だって絶対」

「黙ってやってよ。頼むから」

 こだまはわたしの方を向いておどけた顔をしてみせてから皆と同じように箸を動かしはじめた。

 同い年の従姉妹であるこだまはわたしの幼馴染でもある。

 人形のように小さな顔、顎よりも少し下で切り揃えられたボブカットは彼女の頭の形のよさを際立たせている。白シャツの上に深緑のジャンパースカート。リボンもない飾り気のないオールドスクールな制服はダサいと言われがちだが、彼女が着ると途端に隠されていた気品が伴われる気がする。

 わたしよりよっぽど大人に見える。

 何気なく眺めていると一瞬彼女と目があった。思わず俯いてしまう。

 おーい、とこだまはわたしの目の前で手を振った。丁寧にアイロンの当てられた前髪が揺れて、わたしと身長の変わらないはずの彼女が屈んで大きな目で覗き込んでくる。

 わたしの頭はバカみたいに空っぽになる。

「ごめん。ちょっとなんかぼーっとしてた」

「もー、だめだよーちゃんとしなくちゃ」

 彼女の目が細くなって目尻が下がると立派な涙袋が強調され、左目の目元にある泣きぼくろが歪んだ。

 お葬式の最中の重苦しいどんよりした空気はいつの間にか随分軽くなった。叔父さんと叔母さんも「仕方ないんだから」みたいな目でわたしたちを見ていた。

 こういうとき何か会話しないほうが良いのかな。ちらっと周りを盗み見てみるが、黙々と手を動かしている人がほとんどだった。叔母さんと叔父さん、お母さんも手元に目線を落としている。

 昨日の夜中、お葬式のマナーについて調べようと家族共用のパソコンを開くと、電源は点けっぱなしで複数のウィンドウが開かれたままだった。その検索結果には「喪主 挨拶文」「数珠 マナー」「学生 喪服」などが並んでいた。

 朝起きると、母は「わたしのお下がり」だという喪服を渡してきた。

 喪服は少しだけ大きかったが、鏡に映った全身を黒で包んだ自分はなんだか急に大人になったみたいで気分がよかった。

 半分ほどが壺に入ったところで先程の男性が部屋に入ってきた。

 彼はわたしたちの前で一礼してから、手に持った小さな箒とちりとりのようなもので残った骨をかき集めはじめた。銀色のトレイに広がった骨がきれいさっぱりなくなっていく。

 わたしたちが丁寧に時間をかけてやった作業を彼はほんの一瞬でやってしまった。一分もかからなかった気がする。それでも男性の手付きは繊細で壊れ物を扱うように 優しく、小さな破片やほとんど砂状態のものまですべて壺に収めてくれた。

 レプリカ製品のように感じていた彼の笑顔がほんの少しだけマシに思えてくる。

 唖然として骨壷をみつめるわたしの肩をこだまが叩く。

「え、え、やばっ、はやくない?これむなしいねー」

 こちらを向いて目を見開いた彼女は叔母さんからこっぴどく叱られた。

 骨を拾う作業が終わったあとも、喪主としての仕事が残っているらしいお母さんは大人たちと話し込んでいた。葬儀屋の人たちだけではない、顔も知らない人たちがずらずら並んでいる。

 ロビーのベンチに腰掛けて横に持ってきた箱を降ろすとようやく肩の力が抜けた。

 小さな骨壷はその桐の箱に入れられてお母さんの代わりにわたしの手に渡されたのだ。

 骨箱というらしいそれはホームセンターで漂っているようなニスの香りを纏っていた。箱は固く、角が尖っていて、耳をすませてもなんの音も聞こえなくて、頬をくっつけても温かくない。それでもベタベタ触りまくる。

 耳をくっつけてからからと上下左右に振ってみたが、それはうんともすんとも言わない。

 重みを感じるのは壺のせい。

 いつの間にかわたしは眠っていた。


 目を擦っていたところにやって来たこだまに手を引かれて、火葬場ホールの外に出た。脇にある小さな喫煙スペースまでやってきたが、野外のためかタバコの匂いはそこまで感じない。

 昼間は煙を吐き出していた煙突や遠くに見える鉄塔に暗闇が差していた。いつの間にか辺りは夜になっていて、ホール内から漏れた光と外に建つ少しばかりの電灯がわたしたちを照らしている。

 こだまは二人分のマフラーと二組の手袋を持ってきて、片方を渡してきた。

 お母さんは今日いっぱい忙しいらしく、わたしはとりあえずこだまの家に行くことが決まったようだった。今は叔父さんが少し離れた駐車場へ車を取りに行っているらしい。

 そこまでを話し終えると、彼女は腰の位置ほどまであるスタンド型の灰皿を軽く蹴った。

 灰皿の底を覗いた彼女は眉を寄せて、まずいものでも食べてしまったように舌を出す。

「ねえねえ、タバコ吸ってみたいと思う?あたし絶対しない。タバコの匂いも煙も嫌いだし」

「わたしも嫌、かな」

「そうだよねー。すーちゃんいい子だもんね」

 顔を上げたこだまはこちらを見て微笑んだ。灰皿を挟んで隣に立っていたわたしはその反応を見て安堵していた。

「特待じゃなかったらうちの学校来ないって言うからさ、心配してたんだよ?」

「うん、それはごめんてば。でも結果とれたんだから許してよ」

「いいけどさー。約束守ってくれたし」

「こだま、合格発表のときわたしとお母さんより喜んでたよね」

「だってすーちゃん、手応えないとかいうんだもん。発表の前、お母さんにすーちゃんの分のお金もだしてよって言ったら怒られちゃった」

「そんなの。」

 そんなの、誰でも怒るに決まってるのに。

 わたしは返す言葉が見つからず、代わりに虚空を見上げる。

「でもあれは叔母さんが無反応すぎ。すーちゃんあんなに頑張ってたのに。それを知ってるはずなのにさあ」

「しょうがないよ。だってお姉ちゃん死んじゃったんだから」

「それはそうだけど。でも、それじゃあ可哀想だよ」

 お姉ちゃんが死んだのはわたしが高校に合格する二日前だった。

 わたしとお母さんは現実に追いつくことで必死だった。合格通知が郵便受けに届くよりも早く来てしまった訃報に目を凝らすことで必死だった。

「こだま、お母さんよりお母さんみたい」

 ぼそっと口にした言葉を拾った彼女の口角は見る見るうちに上がっていった。

 灰皿を蹴飛ばしてわたしの前にやってくる。わたしの両手はこだまの手に包み込まれた。

 急速に近づいた唇にキスをされた。

「ちょっとバカバカ。なにしてんの」

「今日、なんで泣かなかったの」

「え? なんの。」

 わたしが言い終わる前にこだまはもう一度顔を寄せてくる。鼻先と鼻先が触れ合い、くちばしでつつかれるように攻撃される。小鳥がじゃれるような遊びの最中でこだまの目はわたしの奥底を覗いている。

「全然泣いてなかったよね」

「そんなこと」

「そんなことあるよね。あたしずっと見てたから知ってる」

 目前にある整った顔は寒さのせいか頬を赤く染めている。

 穏やかな口調の皮を被った彼女の追求は今までの数少ない叱られた記憶を浮かび上がらせる。

「こんな悲しいときに、お姉ちゃん死んじゃったっていうのに、泣かなきゃおかしくない?ママもパパも叔母さんもちゃんと泣いてたよ?わたしも泣いてるのすーちゃん知ってるよね」

 目の下をうっすら赤くしているこだまは、昨日も今日もびいびい泣いていて、わたしの胸は何度も彼女のハンカチになっていた。叔母さんと叔父さんはみんなの前では泣いていなかったが、隅っこで何度か目元を拭っていた。

 お母さんはもうずっと。

 お姉ちゃんが死んだという報告を受けてから、実際に彼女の顔を確認してから、親戚に電話をしながら、今日ここへ来てからもずっと。

「だめだよ。お葬式で泣かないなんておかしいよ」

「いやだから、違くて」

「素直ちゃんが死んじゃって、すーちゃんは悲しくなかったってこと?」

「かなしいに決まってるじゃん」

 思わず語気が強くなってしまった。

 目を丸くしたこだまは少し眉を下げた。

 わたしは取り繕うように「違う」と言って息を吐いた。

「やっぱり、わたしが泣いちゃったらみんな気い遣うじゃない。色んな人から気の毒がられるのも嫌だったし。我慢しなくちゃっておもって。だから泣かなかったの。だからトイレとかで泣いてたの」

「ほんと?」

「うん」

 途端にこだまはしゅんとなってわたしの頭を撫でた。ごわごわした手袋の感触はあんまり気持ちよくなかった。

「そっか、ごめんね。すーちゃんはちゃんと考えてたんだ」

「いいよ別に。こだまがあのときわざと変なこと言って和ませようとしてくれてたの嬉しかったし」

「へ?なんのこと?」

「ほら、骨拾ってたとき」

「んー。えー、あたしなんか言ったっけ」

 目線を上げて口を開ける彼女はほんとに理解してないようだった。ただの空気が読めない不謹慎ガールなだけだった。

「ん、いいよ。わたしの思い過ごしかな」

「その言い方気になるなあ。あたし知らないうちにイイこと言ってたんでしょ?」

「まあね」

 こだまはうーんと唸っている。まだ思い出そうとしているみたいだ。彼女がいくら思い出そうとしても発言に行き着かないことはわたしが誰よりも知っている。

 一回咳払いしてからこだまの制服の裾を掴む。

「こだま今日制服なんだね」

「ん?そうだよ。お母さんが制服でもいいって言うから」

「わたし喪服着させられたのに」

「いいじゃん喪服。めっちゃかっこいい。買ったの?」

「ううん。お母さんが昔着てたやつ」

「そっかそっか。叔母さんも細いもんねー」

 彼女はわたしの病的な体の細さをは羨ましがる。わたしは彼女のほどよく細くてバランスの取れた体つきのほうが羨ましいとおもう。

 こだまはわたしの後ろに回り込むと腰に手を回してきた。細く白い腕はわたしのおへその位置まで来ると指を重ねた。

「ねえ、今日あたしガン見しすぎだった?」

「まあ、いつもより目合ったかも」

「似合ってるんだもん、喪服…ねえ、このファスナーって下ろしてもいいやつ?」

「聞きながら下ろすなって。だめに決まってるじゃん」

「あはは」

 首元まであげられていたファスナーを上下させて遊ぶ。わたしが体をよじらせてにげようとすると

「大丈夫だって、うちでタバコ吸う人なんていないし。ここ誰も来ないよ」

 そう言ってもう一度優しく腕を回してきた。

「そうかもだけど」

「でもあのときは焦ったなあ。ほら素直ちゃんにバレそうになったときあったでしょ?」

「あれはこだまが悪いんだよ。リビングであんなの」

「だってえ、まさか素直ちゃん帰ってくるなんて聞いてないし。すーちゃん教えてくれなかったしー」

 ガチャリと鍵が空いたときの慌てっぷりったらなかった。ダイニングテーブルに腰掛けていたわたしは勢いよくとびおりたせいで足首を捻ったんだった。

 お姉ちゃんはあのときも笑っていた。

 エンジン音が鳴った。

 こだまは何事もなかったかのように振り返って歩き出す。

 暗がりの中、彼女の姿を頼りに遠くからかすかに漏れてきたヘッドライトの光を目指して歩いた。

 こだまはふと立ち止まり、煌々と光り続けているそれに向かって「ごめんなさい」とつぶやいた。なぜそんなことを言ったのか、わたしにはよく分からなかった。


「今日は疲れたでしょ」

 叔父さんは、後部座席に座るわたしに聞こえるように少し声を張っているようだった。

「大丈夫ですよこれくらい。わたし特に何もしてないし、お母さんのほうが大変そうだし」

「それでも大人しかいないような場って疲れるからさ。帰ってゆっくり休んだほうがいいよ」

「まあ、それもそうかもですね」

 敬語とタメ口が混ざった変な言葉遣いは最近癖になってしまっていた。いつからだろう、友達相手のように接してきた親戚との会話に、気恥ずかしさを感じてしまうようになった。

 こだまは今日も四十近く年が離れた親戚相手にくだけた口調で話していた。

 それなのに、わたしは愛想笑いをしながら彼女らの世間話に頷くだけだった。

 等間隔に立つ道路照明灯のオレンジ色がわたしの顔に車線を引くように流れていく。この時間の国道は交通量も多く、隣車線を大型のトラックが通過するたびに体が揺れた。

 隣に座るこだまは眠そうな目で車窓に顔を映している。

「今日素晴ちゃんのこと見てたらさあ、沢山の人に挨拶してて、お茶とかお手拭きとか配ってくれて、もうなんだか大人なんだなーって思ったら俺寂しくなっちゃったよ」

「う、ううん」

 反応に困って唸っていると、叔父さんはハハっと笑ってバックミラー越しにわたしを見た。

「相変わらずちゃんとしてるよねえ。すごいよ。こだまも素晴ちゃんみたいにできればなあ」

「またこれ、あたし一億回聞いてる。すっごいデジャブ」

「あ、でもこだまは今のままでも十分可愛いからな」

「ソウイウこと人前で言わないでよ。パパキモいから」

「素晴ちゃん、こだまはね、素晴ちゃんが萩野女子来るってわかってから家でもずっとテンション高いんだ」

「ちょっと余計なこと言わないでよ!」

「へーかわいいとこあるね、こだま」

「ホントふたりともめんどくさい!」

 暗がりで表情のよくわからないこだまが、運転席のシートをぽかぽか叩く。

 はいはい、と空返事をして慣れたように受け流した叔父さんはそれから「ふたりとも寝てていいよ」と穏やかな口調で言った。

 口を尖らせたままのこだまが目をつぶって窓ガラスに額を押し付ける。わたしも同じように身を傾ける。空調の効いた社内は暖かく快適だったが、頬に押し当てたガラスのひんやりした感触のほうが心地よく感じた。

 目を閉じてからしばらく経ったとき、シートの上に置いたわたしの手をわたしより少しだけ大きな手が握ってきた。力がこもった彼女の手はわたしのてのひらに爪を立てるように押し込まれる。思わず腕を引こうとするが、強く握られた彼女の手は離してはくれなかった。

 睡魔は襲ってきているのに、絡んでくるこだまの指は一瞬の夢を見ることさえ許してくれない。

 数分経ってようやく、静かな寝息と共にわたしを掴んでいた力も消えていった。

わたしはゆっくりと指を剥がして蚊に刺された箇所に爪で印をつけたときのような跡を見やる。それから熱いものを覚ますように手のひらを窓ガラスにくっつけた。

 指の間から隙間見える寂れた街並み。歩道を行く人の姿なんか見えなくて、車道だけが意味を持つわたしたちの街。

 それでも、ここには生活に必要なものが何でも手に入って、なんにも困らない、みんなの自慢の街。お母さん自慢の故郷。

『ここにはなにもないんだよ。だから素晴もこんなところさっさと出ないとダメだよ』

 あの日「息抜きしないよ死んじゃうから」と、勉強中のわたしを連れ出したお姉ちゃんはどこか憐れむように街を眺めていた。

 それは彼女の口癖でもあったし、わたしは「またはじまったよ」ということくらいしか考えていなかった。

『そこに当たれば遠くに飛ぶんだよ。バットのシンっていうの』

 子供用の金属バットは先端を中心に多くのかすり傷みたいな痕があった。

 わたしにバットの握り方を教えてくれたお姉ちゃんは、ほとんどのボールを前に飛ばしていた。「ホームラン」と書かれた的まであと一歩のときもあった。

 わたしは一球さえかすることもできなかった。ふにゃふにゃバットをまわしていると隣のゲージから大きな笑い声が飛んできた。

 初心者をバカにするとは何なんだこの姉は、と内心腹が立っていたけど、わたしは

『これは違うの。このバットが痛そうだからやめてあげたの』

と、意味のわからない言い訳をしてバットのシンについていた痕を手のひらで擦った。

 キン、という金属の鈍い音が鳴る。

 バットを降ろしてこちらへ振り向いた彼女は目を細めて口角を上げた。

『へえ、ずいぶん優しいんだね、素晴は』

『お姉ちゃんとは違うからね』

『どうせわたしはイジワルですよー』

 お姉ちゃんはコインをじゃらじゃら投入して再びバットを構えた。

 わたしはバッターボックスを出てから、メロンソーダを買って三ゲーム目をプレイ中のお姉ちゃんの姿を背後からみつめていた。休日出勤後の帰省だったらしく、パンツスーツ姿にわたしのスニーカーを合わせている。ちぐはぐな格好がなんだか面白かった。

 六ゲームを終えて出てきたお姉ちゃんはようやく満足したみたいだった。受付カウンターに向かって元気よくお礼を言う彼女の後ろについて助手席に座った。

 スマホのロック画面は二十二時を表示していた。

 お姉ちゃんは、手をグーパーグーパー、開く閉じるを繰り返していた。

『素晴ちゃ~ん、お姉ちゃんもう握力なくなっちゃったから運転して~』

『ソウイウのいいから、はやく帰ってよ』

『ねえ銭湯いこうよ銭湯。ほら、国道ずっと行くと二十四時までやってるとこあったよね』

『ムリ』

『なんでそんなこというのーいこうよー』

『あそこの銭湯ってここから二十分はかかるし、お風呂入って帰ったら絶対すぐ寝ちゃうし』

『いいじゃーん、お金出すしさあ。ほら、お姉ちゃんがコーヒー牛乳も奢ってあげる』

『いやだってば』

『もー。なんでそんなツレナイかなあ』

『お姉ちゃん知ってるじゃん。わたしさ、二週間後もう受験なんだよ?』

『そんなのさあ、大丈夫だよー。素晴は優秀なんだから楽勝でしょ』

 彼女は目を細めて、わたしの頬に触れた。

 なんかイライラした。

 その日は図書館の自習室が満員で使えなかったことや、コンビニで嫌いなクラスメイトに会ってしまったことで、なんとなくよくない日だった。

 わたしがなんのために特待を狙っているかなんて分かっているはずなのに、その気持ちを酌んでくれなかったことにムカついた。

 なんの反応もせずにムスッとした顔でそっぽを向いていると、車は家への帰り道に曲がった。

「ごめんごめん、お姉ちゃんが悪かったよ。よし、じゃあ早く帰ろ!都会の道路で慣らしたドライビングテクニック見せちゃうから」

 アクセルを勢いよく踏んで、大げさにハンドルを切る様子をちらっと横目で見てから不貞腐れたように体を窓ガラスに傾けた。その後、帰路の途中で寝てしまったわたしは、気付いたときもう既に自分の部屋のベッドの上で毛布にくるまっていた。

 朝の匂いがする時間、起きてみると家のなかには人の気配がなくお姉ちゃんはもう出かけたようだった。

 リビングのダイニングテーブルの上に置かれたコピー用紙には、ケーキを買ったからお母さんとわたしで食べるようにという旨のメモ書きが残されていた。大人なのにこんな丸文字って変なの、と担任の書く角張った文字を思い浮かべた。

 冷蔵庫を開けるとサランラップを被った苺ショートのホールケーキが鎮座していた。

 欠けた一ピースはお姉ちゃんが食べたんだろう。わたしはシンクの水切りカゴにあったフォークを取り出し、切り分けることなく欠けた部分をさらに削るようにしてケーキを食べた。

 そうして、今のわたしと同じように一人で食べ進める彼女を思い浮かべた。

別に、寝る前にスマホをいじったり、動画サイトをだらだら観たり、つい長電話をしてしまった日なんていっぱいあった。

 勉強会と称してただただ友達とおしゃべりした日があるし、面倒な数学の宿題の答えを写したこともある。

 定期テストで頭のいい人の答えをうっかり見てしまったとき、解答欄に同じ答えを書いたこともあった。

 寂しかったかな。

 なんか、悪かったかもな。

『かなしいに決まってる』

 こだまに放った言葉がわたしのなかで何度も跳ね返る。何度も壁にあたった挙げ句、その脆い塊が砕け散る。

 わたしはお姉ちゃんが入っている小さな箱を、膝の上で抱きかかえるようにして目を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

旅立ちの日にを聴きながら火葬場に座り込む 紺さてん @konsatenn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ