アオミノウミウシ

紗也ましろ

アオミノウミウシ


 彼女と話すようになったきっかけが何だったのか、はっきりとは覚えていない。2年続けて同じクラスだったから。出席番号の関係で席が前後だったから。とにかくそんな些細な理由だったような気がする。


——東海月あずまみづき


 その名前を初めて目にしたとき、凪いだ夜の海の情景が漠然と頭の中に浮かび上がった。海牛葵うみうしあおいなんていう私の名前とは違った幻想的な名前。

 もちろん、そんなものはただの字面から連想される個人の勝手な解釈でしかなく、実際の彼女はそんな穏やかで柔和な雰囲気の人物ではなかったのだけれど。

 綺麗な黒色の長い襟足はうなじを隠し、目元にかかるギリギリのところで遊んでいる前髪から覗く眉間にはいつも皺が寄っている。女子にしては高めの身長と鋭い目付きはまるで近寄るなと辺りを威圧しているかのようで。そんな風貌で誰とも言葉を交わすことなく自席に居続けるその姿は、まさに孤高の狼だった。社交性の塊として17年間生きてきた私でさえ、前後の席という関係がなければ話しかけなかっただろう。


 初めのうちはどう話しかけても無反応だった。それでも、社交性の権化である私は「会う人々への挨拶」の対象から彼女だけを外すことはできず、半分事務的に声をかけていた。だから、別に反応がなくても気にしてはいなかった。事実、私は彼女と会話をするために挨拶をしていたわけではないのだから。

 だからこそ、初めて彼女の口から「おはよう」という言葉が返ってきたときは耳を疑った。それが本当に彼女の口から出た言葉なのか確かめるため、3回くらい続けて「おはよう」と繰り返したら流石に睨まれたけど。

 それからは彼女と「おはよう」から始まって「またね」で終わる、会話とも呼べない1日2回のやり取りを繰り返して。日を重ねるごとにそのやり取りの回数は増え、いつのまにか「おはよう」から「またね」までの時間も伸びていた。


「でね、深海には……うみうー?」


「あ、ごめん、ぼーっとしてた。で、なになに?」


 そんな不思議な人物について考えていたところで、別の級友に名前、というか愛称を呼ばれる。いけないいけない。今は放課後の教室で、それほど親しくはないが交流のあるクラスメイトとくだらない話に花を咲かせているところだった。

 誰にでも当たり障りなく接するが故に、こういった集まりに付き合うことが多々あるのだが、正直どれもこれも興味のない話ばかり。だから、こういうときは宙を舞う薄っぺらい言葉の数々に雰囲気を壊さない程度の相槌を打ちながら、頭の中では先程のように別のことを考えている。ただ、時々今みたいにぼーっとしすぎることもあるから気をつけなければ。そんな風にひとり反省会をしていると、ふと制服の裾が引かれる。それに誘われるように後ろを振り返ると、そこには委員会の集まりが終わって教室に戻ってきた例の彼女が立っていた。


「どした海月、もう帰る?」


「ん」


 その仕草から彼女の言いたいことを察して問いかけると、彼女は撥音一言で肯定の意を示す。彼女は人前で言葉を発することが少ない、というよりほぼない。あったとしても精々、私が何かを聞いたときの受け答えくらいだ。それでも私は彼女の言いたいことを汲み取ることができる。これはちょっとした自慢だ。

 少し得意げになりながら、そそくさと教室を出る支度をする。ちょうど退屈していたところだし、彼女を理由にスムーズにこの会話から抜けられる。海月様々だ。


 赤いマフラーを首に巻き、鞄に手をかけて席を立ったところで、私の周りに集まっていた人達が反応する。


「うみうー、帰るん?」


「海月が帰るみたいだから」


 ね、なんて後ろの彼女にアイコンタクトをおくると、再び「ん」という返事だけが返ってくる。


 黒髪ウルフでクールな海月。癖っ毛茶髪で社交的な私。その異彩な組み合わせと特有な会話の仕方が周りの人たちからしたら面白いみたいで。


「うみうーと東さんってほんと仲良いね」


「そう?」


 さっきまでひとり海洋トークで盛り上がっていた級友Aがそんなことを告げる。彼女のことを級友Aと呼んでいるのは、断じて名前を覚えていないからではない……はず。


「そりゃ、そんだけ毎日一緒にいて、言葉なしで意思疎通ができてるんだよ?それで仲良くないなんて言われたら、新手のツンデレかいってツッコむことになるよ」


「……まあ、それなりに仲良いかもね」


 そんな漫才みたいなやりとりをするのは御免だから、無難に肯定することで会話を終わらせようとする。しかし、今度は別の人物が他の疑問を口にした。


「2人はいつから友達なの?」


 それをさっき貴方たちがワイワイしているときに考えていたんだけど、なんて思っても口に出すことはしない。絶対面倒なことになるし。とりあえず、どうしたらこの会話を終わらせて愛しい自宅へ歩みを進められるだろうかと思考を巡らせる。その間僅か数秒、口を開いたのは意外にも海月だった。


「別に、友達じゃない」


 彼女はその言葉を発してから、何を思ったのかハッと私の方を見る。まるで悪いことをしてしまった子供のように。


「そ、そうか。何か難しいんだな」


 そんな彼女の返答に、問いかけた張本人は困惑した表情をしている。まあ、会話が途切れたからナイスパスではある。いや、会話を切っているからナイスシュートか。

 そんなくだらないことを考えながら、私は何か言いたげな彼女を連れて教室の外へと踏み出した。

 昇降口に着き、中靴を履き替えようと靴箱を開けたところで、可愛らしい小さな封筒が私のローファーの上にのせられていることに気がつく。


 手紙を靴箱に直接入れるなんて古典的な方法を使うなと若干の感動を覚える。でも確かに、連絡先も知らない相手に何かを伝える場合これが一番確実か。

 その手紙のことで数秒間悩んだ後、封筒の中身は確認せず、そのまま鞄に入れて靴を履き替える。


「ごめん、お待たせ」


「別に平気」


 先に外に出ていた海月は、なぜだか少しムスッとしていた。待たせたことに対して怒るような子ではないと思うけど。ああ、海月はツンとしてるのがデフォルトか、なんてひとりで勝手に納得する。


「じゃ、いこっか」


 その言葉を合図に、私達は昇降口を背に歩き出す。歩幅は少し遅めの彼女に合わせて。


 この高校から最寄りの駅までは1キロ以上あり、入学当初はその間を歩くことが億劫だった。ただ、今はそうでもないのだけれど。理由は言うまでもない。


「ん」


 学校を出て数分、人気の少なくなった線路下の通路で海月が徐に左手を差し出してくる。


「はい」


 私はその意図を汲み取って、手をとり指を絡ませる。そして、互いの距離を腕ひとつ分近づける。


「ん」


 海月と一緒に帰るようになってから、いつのまにかするようになっていたこと。歩幅を小さめにすること。人通りが少ない道を選ぶこと。そこで手を重ね合わせること。それらは全て、どちらかが言い出して始めたわけではない。ただ、自然な流れでそうなっていた。


 繋がれた右手から彼女の体温が伝わってくる。冷え性の私には彼女の体温が心地よくって。その温度を堪能するために、何度も指を絡める。

 いつもならこの時点で満足そうな表情をする海月が、なぜか今日は浮かない顔をしていることに気がついたのは、ひと通り彼女の温もりを堪能した後だった。


「もしかして、さっきのこと気にしてる?」


 さっきのこと、というのは教室での「友達じゃない」発言のことだ。教室で海月が喋ったことにも驚いたが、内容も内容で中々パンチが効いていて面白かった。おそらくあの場にいた人達には「海月はツンデレ」という新しいイメージが追加されたことだろう。


「友達じゃない、ねぇ」


 私がその発言を繰り返すと、海月は一瞬キョトンとする。まるで予想していなかった角度から話題が降ってきたかのように。


「……?ああ、教室の」


 ただ、ちゃんと話が繋がったらしく、少し考える素振りを見せてから、先程と同じ言葉を続ける。


「だって、友達じゃない、でしょ」


「はいはい、そうだね」


 軽く流すような返事をすると、なぜか握られている手に力が込められる。それがどの感情からくるものなのか私には検討がつかない。ただ彼女が羞恥心からマフラーで顔を覆い隠そうとしていることだけはわかる。まあ、片手だけでは口元だけしか隠せず、赤くなった頬と耳は隠せていないんだけれど。

 もう片方の手も使えばいいのにと思わなくもないが、それは絶賛私の手をホールド中で使う気はないみたいだ。無論、私も離してやる気はないが。


 そんなことを考えながら、先程の発言を反芻する。


 友達ではない。


 確かに、私たちは一般的にいう友達の距離感ではない気がする。では何なのだろうか。別に幼馴染とか恋人とか、そういうわけではない。いや、お互いがお互いを好意的に想っているのは明白なんだけれど。その好意が何を意味しているのかまではわからない。

 名前をつけるのも難しい関係。ただ、まだそれでいい。今は曖昧なままで。きっと触れれば崩れてしまう。そんなギリギリのところを行ったり来たりしているのだと思うから。


 しばらくの間、沈黙が私たちを包む。ちらっと彼女から目を離して、辺りに目を向けると、遠くの高い木に透明なケーブルのようなものが巻いてあるのを発見した。ああ、そういえば。


「もうすぐクリスマスだ」


「ん」


「どこか出かける?」


「外寒い人多い」


「ははは、あんたはそういうやつだったわ」


 せっかく誘ってやったのに、なんて軽口を叩こうとしたところ、彼女の言葉で遮られる。


「でも」


「でも?」


 そう言った彼女は、再び口元をマフラーに埋め、少し小さめの声で言葉を続ける。


「葵が出かけたいなら、別にそれでもいい」


 ああ、そんなことを言われたら。


「うりゃ」


「ひゃっ」


 思わず繋がれていた手を解いて、両手で海月の頬を優しく摘む。私の手の冷たさに驚く姿も愛おしい。それに加えて、解かれた手を寂しそうにグーパーさせるものだから。


「ほれ」


「ん」


 今度は私から手を差し出す。その手を取った海月は、今度は離さないと言わんばかりにしっかりと握ってくる。そんな彼女の行動に思わず頬が緩み、可愛いやつめなんて思いながらその顔を覗き込む。


「……まーだ不安そうな顔してる」


「別に」


 そんな私の問いかけに目を逸らした海月には、どうやらまだ何か気がかりなことがあるみたいで。何がそんなに彼女を不安にさせているのか私にはわからない。友達じゃない発言以外に何かあったっけな、と一生懸命に頭を捻ること数十秒。その答えは彼女の方から告げられた。


「……手紙、読まないの」


「ん?……ああ、さっきのやつか。よく見てるね」


 どうやら、彼女の不安の原因は靴箱の手紙だったらしい。彼女は私より先に外に出ていたはずなのに、本当によく見ているなと感心する。


「別に後でもいいかなって」


 正直、封筒の柄的に内容が少し面倒な可能性が高いため、あのタイミングで読みたくはなかったのだ。


「放課後の呼び出しとかだったら、相手を待たせてるかもしれない」


 彼女の方も、大方手紙の内容に予想がついているようで。


「なーに。心配なさんなって」


 大抵こういうのは気持ちだけ伝えたいというパターンがほとんどだ。それはある意味彼女のせいというかおかげというか。


「それに、そんなことしてたら海月がひとり寂しく帰ることになるでしょ」


 だから今は読まないの、と告げる。すると彼女は不貞腐れたかのように静かに呟く。


「別に、葵の好きにすればいいし」


 その言葉に私はちょっとだけイラッとしてしまうわけで。


「そうですかー。したら手紙の子と付き合っちゃおうかなー」


 我ながら大根役者だと思う。抑揚ゼロのわざとらしすぎる棒読み。逆女優賞みたいなものがあれば、大々的にノミネートされるのではないだろうかというくらいには雑な言い方。それでも、彼女への効果は覿面だったようで。


「あーもう泣かない泣かない」


「泣いて、ない」


 声を震わせながら強がる彼女の瞳には、薄らと水膜が張られていて。それが私の色を反射させながらゆらゆらと揺れている。


「クラスの人たちは、海月がこんな泣き虫で可愛いこと知ったらびっくりするだろうね」


「……泣き虫じゃ、ないし」


 そんな赤くなった目元で否定されても説得力はなくて。


「大体、私が海月以外とそんな深く関わることはないんだから。何も泣くほど心配する必要はないでしょ」


 それに――


「私よりも海月の方が危ないんだからね」


 彼女はクールでミステリアスだなんてお決まりの印象が強くて、隠れ人気が高い。なんなら、海月の声が聞きたくて私に近づいてくる輩もいるくらいだ。


 ただ、こんな彼女の姿を見ることができるのは私だけ。これは私の特権なのだ。


——無愛想なのは人見知りだから。


——眉間に皺を寄せているのは目が悪いから。


——いつも自席を離れないのは、私が後ろにいるから。


 そんな、私だけが知っている彼女のこと。他の人よりも早く、長く彼女と関わり続けたからこそ生まれたこの不思議な関係。


「そうだ、今日うち来る?」


「……」


 無言は肯定と捉えますよ、なんて軽口を叩きたくなるのを我慢して、もっと有効そうな言葉を彼女の耳もとで囁く。


「今夜、親居ないんだ」


 急に、握られる手の力が強くなる。


「……行く」


 たっぷり十秒間の沈黙を使った後、蚊のなくような声で返事をしてマフラーに顔を埋める姿は、本当に愛らしくて。


「はーい、1名様ごあんなーい」


 今のやり取りで思わず生まれてしまった照れくささを隠すために、わざとらしく茶化して歩いていれば、駅はもう目の前で。

 いつもなら上りと下りで別れるホームへの階段。今日は同じ階段を2人でのぼる。

 駅のホームには、ちらほらと同じ制服を着た人たちが見受けられるが、海月は気にしていない。というより気づいていないのかもしれない。

 片手で携帯を使って親に連絡を入れている彼女の姿を見て、器用だなと思う。果たして彼女は、私たちが人前で手を繋いでいることをわかっているのだろうか。多分忘れているんだろうな。それほどまでにこの行為が習慣化されていることに、嬉しさと少しの恥ずかしさを覚えて、私も空いている手でマフラーを少し持ち上げる。直後、連絡が終わったのか、海月が携帯をポケットにしまう。


 そろそろ気がつくかな。恥ずかしがり屋の彼女が、この後どんな反応をするのか少し楽しみだ。






 ▽ ▲ ▽






 翌日、彼女と一緒に登校して教室に入ると、級友Aがむむむと言いながら駆け寄ってきた。


「同じシャンプーの匂い。君たち、ゆうべはお楽しみでしたね?」


「こわ、きも」


 いけない。オブラートに包んだつもりが、つい本音が漏れてしまった。仮にも社交性の権化として過ごしているのだから、気をつけなければ。

 ただ、級友Aはそんな私の暴言を咳払いひとつでかき消して、再び口を開く。


「そういえば、海月ってクラゲとも読めるよね」


「でた、あんたの海洋オタク」


「いやいや、ただの雑談だよ。それで、クラゲって毒を持ってるし強そうじゃん?でもそんなクラゲにも天敵はいてさ」


「はぁ」


 昨日の放課後の話の続きでもするつもりか、なんて内心毒づきながら相槌を打つ。


「中でもアオミノウミウシっていうウミウシが、クラゲにくっついて移動するのに、そのクラゲを食べて毒素を自分のものにしてしまうっていう——」


 なぜ私を見ながらそれを言うんだ。さしずめ私はウミウシかとツッコみたくなる。いや、確かに苗字は海牛だけれども。そんな私の心の中を知ってか、海月が徐に口を開く。


「……そっか」


 急に聞こえてきたその珍しい声に、級友Aも思わず喋ることを止める。


「だから私は葵に食べられてるんだ」


 そんなことを言いながら、そっと私に寄りかかってくる海月。

 いや、何に納得しているんだと声を大にして言いたくなるのをグッと堪える。何だ、理解できていないのは私だけか。何で朝からこんなにツッコまなければいけないんだ。昨夜は疲れたんだから朝くらいゆっくりさせてくれ、なんて心の中で嘆く。


 そんな私たちの様子に、級友Aどころか周りの人たちも感嘆している。


「わぁ、お熱いことで」


 とりあえず級友Aは後で殴ろうなんて柄でもないことを心に決めて、この混乱の原因である発言をした海月に視線を移す。何を考えてこんなことを言ったんだと問い詰めるつもりで彼女の顔を覗くと、その瞳には闘争の炎のようなものが宿っていて。


 ああ、もう本当にこいつは。


 ただ、ちょっとこれは牽制の域を越えているではないでしょうか、なんて思わなくもなかったり。それを少し嬉しく思ってしまっている自分自身にも頭を抱えたくなっているのだけれど。


「……はぁ」


 何度も思考を巡らせた後、色々と考えるだけ無駄だと悟って小さなため息をひとつ溢す。


 名前も距離も曖昧な私達の関係。それらはきっと、これから少しずつ変わり、形作られていくのだろう。

 願わくば幸せな形を、ついでにあまり波風が立たないでほしいな、なんて思いながらそっと彼女の手を握った。

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