9年前に死んでしまったお姉ちゃんが、9才になって帰ってきた

菓子ゆうか

第1話

 私には姉という者がいた。


 いたと過去形で言ってしまうのは――現在、私に姉がいないからである。


 十二階建てのマンション、その一室が私の家族が住まう場所だ。姉がいない話は社会人になって引っ越ししたとか、バイトで今はいないなどの叙述トリックみたいなことではない。


 九年前に姉は死んだのだから。


 昨日亡くなった太陽は平然と今日も世界を照らす。


 私も例外に漏れず、カーテン越しでも眩い光線を受けて、唸り声を零しながら目を開ける。


 一般的に目を開けるとは、起きるわけである。


 これは生きていることをこれでもかと表した一文だと、私は思う。


 だから、私は目覚まし時計を眺めて、今日も目を覚ました事実を嚙み締めた。


 時刻は十時半。


「にゅわぁっ⁉ 遅刻じゃん!」


 充電中のスマホを強盗のように取り、布団から這い出た。


「いや、今日って土曜日だった。というか、夏休みに入ってたわ。私としたことがおっちょこちょいだね~」


 自分の頭を軽く小突いてみる。


 さっきまで哲学者のような言葉を奉っていた私は、一瞬で女子高生に戻ってしまう。もとより頭脳の方は普通で、顔も普通で、性格もたぶん普通だと自負している。


「安心したら欠伸が……ふわっ~」


 欠伸をしつつ、着衣するパジャマを脱いでは床に落とした。ちぎっては投げちぎっては投げの具合でパジャマを脱ぎ終わる。


 下着姿のまま自室を出て、洗面所に向かう。


 お母さんとお父さんは、朝の七時には会社に行ってしまう。そのせいか、朝の時間は下着でうろうろすることが習慣になってしまった。別段、誰かに見られるわけでもないので、気にはしないけど、ズボラと自分でも感じている。


 洗面所の前でヘンテコなポーズを三種類ぐらいやってから、顔を洗う。夏の朝一の冷たい水は至福のひと時である。一杯目の生ビールと似ているかもしれない。いやいや、私は十八歳で、最近成人年齢が上がったからってお酒と煙草は禁止だよ。飲んでないからね。


 歯磨きをさっさと済ませた私は、リビングを越えてとある部屋に足を進める。


 で、一室の前で止まった。


 扉に掛けられたネームプレートに「あおい」とひらがなで書かれている。


 その「あおい」というのは姉の名前だ。


 折に触れて説明するが、姉は九年前に鬼籍に入った。年齢は今の私と一緒で十八歳らしかった。


 九年の時を越えても、姉の部屋がこうして残っているのは理由がある。


 これは両親から小耳に挟んだことだが――姉は、お姉ちゃんは、「自分が亡くなってから十年後まで、私の部屋をそのままにしていてほしい」と遺言を置いていた。


 死んでしまったら終わりなのに、変な話である。今に思うと、家族の喪失感や悲しみを減少させようと姉ながら思案したのだろう。


 十年間、部屋を残し続ける役目があれば、少なからず姉に対する気持ちを、部屋へ割くことになる。


 姉の葬式に出席した時、私はたったの九歳で子どもだった。


 姉との記憶はあるにはあるけれど、印象的な出来事以外さっぱり忘れてしまった。エビングハウスの忘却曲線に沿って、思い出は脳の底に沈んでしまったわけである。


 今になっては、姉がいないことに物寂しくは感じなかった。


 金属独特の冷たさを纏ったドアノブに触れる。


 ゆっくり捻って扉を開けた。


「あぬえぇ――ちゃん!」


 姉の部屋に侵入した瞬間、ベッドに飛び込む。布団に自分の肌を擦り合わせ、枕に顔を埋もれる。


 深呼吸すると、自分と違う女性の残り香と、スパイスにカビの匂いが鼻を透き通っていく。


 ベッドから飛び上がり、勉強机に向かう。


 木製の椅子に腰を下ろし、机に頬ずりした。エアコンが付いてないため、熱気を帯びた机から鉛筆や日焼けした紙の薫香が漂い、私の肺に吸収された。自分の体に姉の一部が取り込まれていることを感じると、顔が火照り、思考が恍惚と蕩けていく。


 まあ、同じ両親から生まれているので、遺伝子レベルで一緒な部分は多いわけだけど。


 左頬を勉強机に接触したまま、机の表面に残った黒い痕を指でなぞる。


 鉛筆かシャーペンで汚れた痕の、その黒は手の側面を魚拓したみたいな形をしている。ここで姉が勉強していた存在が、薄っすら残っているのだ。


 本棚に手を伸ばし、一冊の本を開いて顔に被せる。たまに姉の髪の毛が挟まっていたら、1日がハッピーラッキーになる。


 姉ルーティンを終えると、静かな足取りで部屋を出た。


 姉の部屋を守る扉にもたれかかって、座り込む。


 それから満足感が籠った吐息を漏らした。


「こんな姿……お母さんとお父さんが見たら、病院に連れていかれるよね」


 自分でも異常行動に走っている事実は、しっかりと飲み込んでいる。今の行為を平常通りなんて言う奴が世間にいるとは思えない。


 姉に対して家族愛以上の何かがあるのかは、自分では分からない。九歳の自分が恋愛感情もなかったし、そういう禁断の恋というわけではないと思うけど、なんだろう……形容しがたい感情しか浮かんでこなかった。


 以外に私はまだ、姉が死んだことを受け入れられないのかも。自分では乗り切ったのか、忘れてしまったのか、分別つけられないが、そういう可能性もあるかもって話である。


 それか、憧れかもしれない。


 姉を象徴する印象的な私の思い出は、カッコよくて、可愛くて、凄い人ってイメージ。うーん、小学生の事だから語彙力のない表現だね。それでも、あの時の私は姉をそんな風に思い、慕っていた。


「暑い……」


 誰もいない姉の部屋にクーラーを付けるわけにもいかないので、三十分ぐらい部屋にいた私は汗まみれだ。


 手を団扇代わりに、クーラーの入ったリビングに向かった。


「あわっ~。天国があるならきっと、汗が止まらなくなって、室温二十四度の場所なんだろうね。加えて、アイスと紅茶が飲食し放題!」


 私はクラスメイトには到底見せられない格好で、リビングのフローリングに寝転がる。ひんやりの床から私はもう立ち上がれない。夏休みの宿題も、受験勉強も、全てを忘れて私はコップの中で漂う氷になるのだ。


「……」


 寝転がったまま、足をソファに乗せる私。両手を広げてフローリングの冷たさを堪能しているわけで、あと一時間はこの場から離れられないだろうと、怠惰の夢想を決めた時だった。


「あっー……スマホ、お姉ちゃんの部屋に忘れたかな」


 顔を右に傾けて、手持ち無沙汰になってワキワキ動く右手を見つめる。


「しかたない、しかたない。一仕事しますかね」


 ソファの背もたれを蹴り、でんぐり返しで起き上がる。怠惰な体を起こさせるのは、娯楽の結晶体スマホ。そしてスマホを手にした私は更なる堕落の沼に沈むのでした。


 リビングを出たタイミングで、インターホンが鳴った。


「あん?」


 壁掛け時計は十一時半を指している。こんな時間に誰だ? 十一時半はこんな時間でもないかもしれない。


 両親から来客がお見えになるなんて聞いてないけど。


「はいはーい、今行きますよ」


 両手をブラブラさせて廊下を走る。


 サンダルに足を通した瞬間、体中から危機回避の信号が早鐘を鳴らした。不整脈かと胸に手を当てたことで理解する。


 いま、下着姿じゃん。


「すみません! 三十秒待っててください」


 扉の奥でまだかまだかと待機する人に声をかけてから、早足で自室に戻る。パジャマで出向くのは乙女チックな心が許さず、適当な部屋着をいそいそと身に付けた。


 白Tシャツと、麻色の短パンを纏った私は、ロックを解除して扉を開ける。


 身長百六十二センチの私よりも、かなり小さなお客さんだった。


「どうしたの、お嬢さん?」


「おおっ!」


「なに⁉」


 野球帽を被った幼女が、背伸びまでして顔を近づけてきた。


 声の大きさと、急な距離感に私はサンダルを後ろに擦ってしまう。


「おはようございます」


「あうん、おはようございます」


 挨拶してきた少女は、歌でも披露するみたいに咳払いをする。


 そして、子どものやたらと聞こえやすい声色で言った。


「いきなりの質疑で狼狽するやもしれないけど、落ち着いて聞いてほしいです。わたしは、後ろ暗い界隈で広がりつつあるロリロリ詐欺の一派ではないことは、先に伝えておきたい、よろしいですか?」


「はあ……」


 淀みなく流暢に話す少女に、驚きを隠せない。最近の小学生の語彙力はどうなっているのだろう。スマホの普及で知識の吸収率が上がったのかもしれない。スマホでちんたらチックトックを閲覧しているのが恥ずかしく思えてきた。


 おほん。


 まあ、それはそれとして。


「お姉さんの名前をうかがってもよろしいですか?」


「名前? もしかして詐欺に使うの」


「違います。急に現れた子どもが名前を聞いてこれば、怪しく感じるのは理解できます。だからこそ、さきほど詐欺じゃないことを既出したのです。もちろん、わたしのバックに反社やネットワークビジネスと言った怪しげな大人はいません。いるとしても、扶養という形で両親がいるぐらいです」


 子どもの口からそんな単語が飛び出すとは、末恐ろしいと思う。


 大人の指揮で動いていないことを確認するため、廊下を見渡し、少女の耳にイヤホンがはめられていないかも調べた。


 異常はなかった。異常なしだ。


 頬に浮かんだ汗を掻きながら、曖昧な調子で答えることにした。


「あー……涼風雨音すずかぜあまねです。涼しい風で――」


「涼しい風で涼風。雨の音で雨音さんですね」


「そ、うだよ。音だけでよく漢字が分かったね。お利口なんだね」


 これが学歴社会のため、幼少期から鍛えられた子どもか。受験生なのにサボり気味な私とは全然違う。おかしい、数分前で怠惰の悪魔と戯れていた幸福感が、劣等感と情けさないでゼロになってしまった。


「次はわたしの自己紹介をさせていただきます。わたしは、冬城千夏ふゆきちなつと申します。前世では、涼風葵すずかぜあおいをやっていました」


「???」


「よろしくお願いします、お姉さん。そして、久しぶりだね、妹よ」


「……はああぁぁぁ――――っ⁉」

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