教え子が私を挟もうとしてきます!?

刀柄鞘

第1話

 蝉の声とクーラーの音が、外の鬱陶しい暑さを保健室にまで運んできてるみたいだ。この時間、校庭には誰もおらず、熱中症でここに来る生徒もいないだろう。

 配属されて三か月、やっとこの学校に馴染んできた、と思う。生徒の皆も男女問わず気さくに話しかけてくれるし、先輩の保健室の先生も優しくしてくれる。

 他の先生方とはあんまり関わらないけど、仲が悪いってほどではないはずだ。ちょっと会議の時に自称進学校の片鱗が見え隠れしてしまうだけで、私がそれをどうこう言えるわけでもない。

 そんなことよりも問題なのが──


「せんせ~、体調が悪いで~す!」


 開かれたドアからはおよそ病人とは思えないような快活な声。

 彼女は保健室の常連(サボリ)、二年二組の皆川みながわ彩咲あやささん。いくら校則で許されているとはいえ、金髪にサイドテールは学校でただ一人。容姿と体型も相まって、着崩した制服も、きっと思春期の男子クラスメートには毒だろう。まあいわゆる陽キャと言われる生き物だろう。高校時代の私が一番関わろうとしなかった種族だ。


「皆川さん、今日も来たの? そんな満面の笑みの人の体調が悪そうには思えないけど?」


 彼女はほとんど毎日のように保健室へ来るが、いつ来るかは決まっていない。彼女に聞いたところ、出席回数を考えてのことらしい。姑息だ。


「先生ひどいっ! 本人の異変は本人にしか分からないって言うのに……シクシク……」

「はいはい。それで、今日はどんな症状でここに来たの?」

「ん~、先生のことを考えると体が熱くなって、心臓がドキドキしてきちゃって……」

「え~っと、十一時三十分、熱中症、と」


 上目遣いで分かりやすくアピールしてくる皆川さんをよそに、淡々と来室カードに時間と症状を記録する。視界の端で皆川さんが不平を唱えるような表情をしている気がするが、病人(自称)にはあまり話しかけてあげない方がいいだろう。


「じゃ、一番右のベッド使ってね」

「はぁ~い……」


 彼女は少し不満そうに返事をしたが、そのまま素直に私の言ったベッドへ向かい、カーテンを閉めた。唯一見える足元からは上履きを脱いだのが確認でき、布の擦れる音、そして重さがかかり軋んだベッドの音が、彼女が横たわったことを知らせてくれた。

 私も自分の机へ戻り、書きかけの来室カードに「桃井」と彫られた私の判子を押す。これで一応書類上は、彼女は体調不良となった。なんだか私まで悪いことをしているみたいだ。

 次にやるべきは保健室だよりの作成。正直どれくらい読まれているかは分からないが、楽しくてついつい凝ったものを作ってしまう。たまにもう一人の保健室の先生、山代やましろ先生に頑張りすぎだと言われることもあるけれど、誰かが楽しんで読んでくれたらいいなと思う気持ちを抑えてでも手を抜こうとは思わない。生徒も一人間で、対等に向き合うべき存在だと思っている。


「せんせぇ~」


 カーテンに囲まれたベッドから、さっき聞いたばかりの声が聞こえてきた。今ここには二人しかいないわけで、もちろんすぐにこの声の主が誰か分かる。


「どうしたの皆川さん? 体調が悪いならしっかり寝てた方がいいよ?」

「先生が暇だったら可哀そうだな~って思って」

「ありがとう。でも全然暇じゃないから静かにしてくれると嬉しいかな」

「え~。先生は、私が来て嬉しくないの?」


 聞こえてくる音から察するに、足をバタバタとベッドに打ちつけている。暇なら教室に居ればいいのに、どうやら静かにしてくれる気はないみたいだ。


「静かにしてくれたら嬉しいかな?」

「なるほど、つまり先生は私の中身じゃなくて、外見が好きってことだ。もう、先生ってば面食いなんだから~」

「……もちろん生徒のことは皆好きよ。特に真面目な子はね」

「ちぇっ、ほんとに暇じゃないんだ」


 それだけ言い残して、保健室には再び静寂が訪れた。最近は皆川さんの扱いにも慣れてきた。でもそれは向こうも同じようで、私の対応から私の状況を察してくれる。これがサボリ生徒とそれを容認する教員という立場じゃなきゃ、良い人間関係のお手本として保健室だよりに乗せられるのに。

 そんなことを考えながら作業をしていると保健室のドアが開き、白衣を着た中年の女性が部屋に入ってきた。


「お疲れ様です、桃井先生」

「はい、お疲れ様です山代先生」


 職員室に居た山代先生がこっちに帰ってきたらしい。


「げっ」


 その声を聴いてにこやかだった山代先生の顔から一瞬にして表情が消えた。かと思うと山代先生はまたにっこりと笑顔を浮かべ、声のしたベッドへ首から上だけを向ける。しかしその引きつった口角、そして眉間に寄った皺からは怒りが簡単に見て取れた。


「桃井先生? もしかして体調不良の子が来てるんですかぁ?」


 いつもと変わらない口調、でもほんの少し震えた声とその形相は、本当に申し訳ないが皆川さんが「山姥」と忌避しているのも納得だった。


「え、ええ。皆川さんが体調不良で……」

「そうですか……」


 皆川さんは私が来る前、つまり一年生の頃から度々保健室にサボリに来ていたらしく、その都度、山代先生に説教をくらっていて、彼女にとっては軽くトラウマらしい。

 今日も言葉による鉄拳制裁が下るのかと、内心少し楽しみだったが、山代先生は何もすることなく私の机の向かいにある、自分の席へと腰を下ろした。

 少し呆気に取られている私を見て、いつの間にかいつもの温和な表情に戻っていた山代先生が話しかけてくれた。


「桃井先生、分かっているとは思いますが、生徒を甘やかすだけじゃ、立派な養護教諭にはなれませんよ?」


 うぐっ。自覚がある分、こういう優しい人に諭されるのが一番心に来る……。


「本当は直接私がしかるべきなんでしょうけど──」


 そう言って山代先生は壁に掛けてある時計へ顔を向けた。つられて私が時計を見ると、針は十二時二十分を指す手前だった。


「ね?」


 そう私に微笑みかけた山代先生の含みのある視線は、私のことを見透かしてみたいだ。

 ……もしかして私の趣味がバレているのだろうか? だとしたら流石、今まで何人もの人間を見てきたベテラン教師は観察力がすごい。

 キーンコーンカーンコーン──。

 ふいに四限終了を告げるチャイムが鳴った。それはつまり、私のお楽しみタイムの始まりを告げる音でもある。

 皆川さんがここに来て嬉しいと言ったが、あれは別に皆川さんをあしらうために放った嘘ではない。なぜなら──。

 チャイムが鳴って一分もしない内に、廊下から凄まじい足音が聞こえてきた。


「彩咲~! また四限サボった……で……しょ」


 壊れそうなほど豪快に開け放たれたドアの向こう側からサボリ魔への怒号と共に入り、シーンとした保健室に響いた自身の声とにこやかに出迎える私たちに気付いて、火山が噴火しそうなほど真っ赤な顔をした彼女は、皆川さんと同じ二年二組の早瀬はやせ果凛かりんさん。

 つやつやとした黒髪ポニーテールに、夏服のおかげで露わになった引き締まった体が美しい陸上部次期キャプテンのスポーツ女子で、なんと皆川さんとは幼馴染。

 そんな早瀬さんは皆川さんとは対称的な真面目な性格で、男女ともに人気が高いらしいけど、ずっと皆川さんのことを気にかけて、こうしてサボった時にはいつも迎えに来る。家も近所で休日はよく二人で遊びに行くらしい。

そうつまり──


 百合だ!!


 高校生の時に出会ってしまったこの概念。それ以来私はすっかりその美しさに魅了されてしまい、今ではこんなにまでなってしまった……。

 いくら生ものも大好物とはいえ、教師という立場でありながら、教え子である生徒で妄想するなんて、私だって胸が苦しい。

 しかし! そんなものを超越するほどの輝きが、この子たちにはある!

 不真面目な子を更生させようと毎日世話を焼く幼馴染。昔とは変わってしまった二人の感性が、時にはいざこざの原因になってしまうかもしれない。離れてしまった二人は、自分の知らない、自分とは毛色の違う人と歩く相手を見て、胸にモヤモヤとした何かを抱える。そしてその時気付く、彼女という大切な存在……。正反対な二人だからこそ織りなせる絶妙なハーモニー。私はこの二人のためなら死ねる!

 ……なんて私の気持ち悪い妄想は絶対に知られてはいけない。というか、めちゃくちゃ気を付けてきたはずなのに山代先生はなんで分かったんだろう?


「あ、あの……彩咲……来てますよね」

「ちょ、果凛、今の何? 私のこと大好きすぎでしょ。顔めちゃくちゃ赤いし」


 気付けば皆川さんが必死に笑いを堪えながらベッドから出てきていた。


「な……! 彩咲が四限サボったから私がお昼ご飯誘いに来たのに! 挙句先生に恥ずかしいところ見られちゃったじゃない!」

「ご、ごめんって果凛! お詫びに今日の唐揚げ一つあげるから~」


 あ~~! 今日も二人で一緒にお弁当食べてるんだよね~、解釈一致~。きっとかまってほしくて皆川さんもサボってるんだよね。それにおかずを一つあげちゃうなんて、もしかして「あ~ん」とかしちゃったり……⁉


「先生も! 彩咲をあんまり甘やかさないでくださいね! 先生が来てから彩咲のサボリも増えてるんですから、もっと厳しくしてください!」

「え⁉ ご、ごめんなさい……」


 まさか流れ弾がこちらに飛んでくるとは思っていなかったため、ぎこちない笑顔と簡素な言葉しか返せなかった。にしてもこれは明らかに正妻の発言でしょ……。結婚式には呼んでほしいな。明後日とかでも大丈夫だから。


「それでは、お騒がせしました」


 私の空虚な謝罪に満足してくれたようで、そのまま早瀬さんは皆川さんを連れて保健室を出て行った。


「良かったわね、桃井先生?」


 彼女たちが出て行ったドアを眺めていると、山代先生が煽るような笑みで私に聞いてきた。


「ど、どういう意味ですか?」

「いえ、深い意味はないですよ? やっぱり早瀬さんはしっかりした良い子だな、と思いまして」

「え、ええ、そうですよね。私もそう思います」


 私の焦りがよほど面白かったのか、山代さんは満足してそれ以上は何も言ってこなかった。本当にどうして分かったのかが謎だ。

 ただ実際、早瀬さんは本当に良い子だと思う。それは初めて会った時からずっと抱き続けている。



彼女と出会ったのは二か月ほど前、五月の初め。私がまだここに来たばかりで右も左も分からない時だった。


「すみません、陸上部の早瀬です。少し足首を痛めたみたいで……」


山代先生が席を外している時に、部活中に足首を痛めた彼女がテーピングをもらいに来た。

 辛うじて応急処置の道具の場所は分かっていたから、ゆっくりと彼女をベッドの上に座らせてテーピングと氷を取りに行った。


「あの、少し痛むだけですから、それくらい自分で巻けますよ。それに、アイシングスプレーで冷やすだけで大丈夫ですから」


 私が持ってきたテーピングと氷嚢を見て、彼女はそう言った。でも、その言葉の端々からは焦りが感じられた。


「何言ってるの。怪我人は安静にしなきゃ。ほら、私がやるからリラックスして」


 真剣に彼女の鍛えられた脚に向き合う。怪我人に優劣をつけるわけじゃないけど、スポーツをしている人は一つの怪我がその人のスポーツ人生を大きく変えることだってよくある。だからこそ、いつも以上に丁寧に処置をした。


「ありがとうございました。それじゃあ私は部活に──痛っ!」


 テーピングが終わるとすぐに彼女は立ち上がり、氷も受け取らず部活に戻ろうとした。けれど体は正直で、足首の痛みに耐えられず、彼女の口からは苦悶の音が漏れた。


「何してるの! そんな状態で部活に戻っていいわけないでしょ? ちゃんと安静にして冷やさないと!」


 つい声を荒げてしまった。それを聞いた彼女は一瞬驚いたようだったけど、私の気持ちを汲み取ってくれたらしく、ゆっくりと痛めた足を上げてベッドに横になった。

 賢い子だ、と思った。同時に、怒られたことに対するあの何とも言えない悲しそうな顔に、私は自分を恥じた。


「ごめんなさい、早瀬さん。でも、そんなに焦ってもあなたの体が壊れちゃうわよ。あなたが何に焦っているのかは私には分からないけど、あなたのことが心配な人だっているのよ。もちろん、私もね」


 私の言葉がうまく伝わったのか、彼女は何かに気付いたように目を開き、少し照れるように目線を外して「ごめんなさい」と呟いた。


「分かってくれたなら嬉しいわ。今日はゆっくり休んでね。あと、親御さんにも電話で話を伝えておくから、明日にでも病院で診てもらってきてね」


 顔を背けながら小さく頷いた彼女を見て、私はご両親に電話するため職員室へ向かった。

 これが私と早瀬さんの初めての邂逅だった。



 少し日が傾き始めた校庭からは、サッカー部や野球部の声が保健室まで届いてくる。時刻は六時も半分を迎えようとしていた。


「そういえば先生って、告白されたことってある?」


 その言葉に、つい手を止めてしまう。もしかしてこれは恋バナ? いや、相談なのでは?

 いつものように放課後も保健室へやってきては、早く帰った山代さんの席に座って私と談笑しに来る皆川さんは首を傾げ、私が手を止めたことを疑問に思っているようだった。

 一日の授業も終わり、忙しいという理由以外では皆川さんを追い出すことはできず、また、部活で帰るのが遅い早瀬さんを待つためだと知ってからは、むしろ私が進んで彼女がここに居ることを許してさえいる。

 そんな彼女が私に相談を⁉ もしかしてついに早瀬さんから⁉ いや、皆川さんは男子にとても人気そうな見た目と性格だ。まさか男から⁉ 百合に挟まる男……いや、でも恋愛は自由であるべきだし……ぐぬぬ。


「ねえ先生、どうなの? あるの? ないの?」

「何なのその質問。もしかして皆川さん、誰かに告白されたの?」

「いや、ただ先生の恋愛遍歴が知りたくて」


 にやにやとした悪戯っぽい笑みを一切崩すことなく、皆川さんはすぐに返答してきた。おそらく本当に恋バナがしたかっただけだ。良かった。


「そうね、今まで四人くらい告白されてきたかな」

「へ~! やっぱり告白されたことあるんだ。先生って可愛いしモテそうな性格してるもんね」


 そう言われると少し照れてしまう。いくらサボリ魔で絶対に挟まりたくない推しカプの片方だからって、顔が良い女の子に可愛いなんて言われたら、お世辞だとしても嬉しくなってしまう。


「そういう皆川さんこそどうなの? 私よりも可愛いし、この学校じゃ目立ってるじゃない。良い意味でも悪い意味でも」


 そう言うと彼女も私と同じく少し照れたようで、可愛らしく下を向いて私と目を合わせないようにした。


「先生、それ誉め言葉になってないからね?」

「ごめんなさい、つい本音が」

「もう! まあ、私も何人かに告白されてきたけど、全部断ってるよ」


 もしかして、ずっと気になってる人(早瀬さん)がいて、っていうパターン⁉


「そうなんだ。どうして皆川さんは断ってるの?」

「前までは、なんだか好きでもない人と付き合うのっておかしいと思って断ってきたんだけど、最近は……その……好きな人ができて」


 キマシタワーーー!! これはもう確定演出では⁉


「そ、そうなの⁉ じゃあ、その相手ってどんな人?」

「え~っと、その人を好きになったのは最近なんだけど、可愛くて、すごく優しくて、まるで私とは違う世界に住んでるみたいなんだけど、他の人とは違っていつも寄り添ってくれて、私のことを心配してくれてる人、かな」


 顔を真っ赤にしながら想い人の話をしてくれる皆川さんを見ると、まるでこっちが告白されているみたいに恥ずかしくなってきた。


「へ~、すごい良い人なんだね。ちなみに、皆川さんはその人に告白されたいの? それともしたいの?」

「え、え~っと、私は告白、したい、な。先生は、その、どう思う?」


 たどたどしく、赤面しながら言葉を紡ぐその光景は、普段の皆川さんからは想像できないほどピュアで、世界中のピュアと可愛さを混ぜ合わせた絵の具で描かれた絵画みたいだ。


「もちろん応援するよ! たとえどんな障害があったとしても、先生は絶対に味方になるからね!」

「あ、ありがとうございます……」


 珍しく敬語が出た皆川さんは、どうやらまだ熱が冷めきっていないらしく、ずっと真っ赤なまま俯いていた。

 そんな意外な一面を見せてくれた彼女を、おそらく引かれるほど満面の笑みで見守っていると、部活動終了を知らせる六時半のチャイムが鳴った。

 そのチャイムが合図だと言わんばかりに、皆川さんが顔を上げ、真っ直ぐこちらを見てきた。


「先生、私──」


 ガラララッ──。

 彼女の言葉をかき消すかのように、外に繋がっている方のドアが開いた。


「彩咲―、もうすぐで終わるから先に靴箱……どうしたの?」


 制服に着替え、部室の鍵を持った早瀬さんが皆川さんを呼びに来たらしい。陸上部はいつもこの時間にはグラウンド整備や片づけ、着替えまで終えていて、部室の鍵を返しに行くついでに早瀬さんが皆川さんを呼びに来る。


「な、なんでもないよ。りょーかい。先に行って待っとくね」


 私に何か言おうとしていた皆川さんだったが、早瀬さんの言葉を聞いて逃げるように保健室を出て行った。


「よし、それじゃあ私も職員室に戻ろうかな」

「あの、先生、今ちょっとだけお時間いいですか? 少し相談したいことがあって……」

「? 大丈夫だけど? 珍しいね、早瀬さんが相談してくれるなんて」

「そう、ですね。あ、中に上がってもいいですか? あまり人には聞かれたくなくて……」

「もちろん。じゃあ、山代先生の席にでも座って」


 そう言って、私は早瀬さんが椅子に座るまでに、窓やドアを閉めに行く。勿論保健室を出る前の戸締りも兼ねているが、あの早瀬さんが私を頼ってくれたのだ。彼女の相談を万が一にでも他人に聞かれてはならないようにするのも、相談を受けた教師の務めというものだ。


「それで、相談ってどうしたの?」


 私は自分の椅子を動かして、座ったまま早瀬さんと向かい合うような形をとる。私たちの間には何もなく、目線も同じ高さにする。これも彼女が安心して相談できるようにと、私ができるだけの配慮だ。


「あの……実は……」

「うん、無理はしないで、ゆっくりでいいよ。嫌なら言わないでもいいからね」


 きっと悩んでいるのだろう。ここで私に言っていいのかと。ここまで来ても、いざ悩みを打ち明けるというのには相当な勇気がいる。だからこそ、彼女のペースで、打ち明けてくれればいい。


「いえ、大丈夫です……。その、私、実は」


 そこまで言って、早瀬さんは大きく深呼吸をした。


「女の子が好きみたいなんです!」


 吸った息をそのまま出したかのような大声に一瞬ビクリと体が震えた。が、それは重要なところではない。今、なんて?

 私がその言葉を脳内で反芻して呆気に取られていると、俯いている早瀬さんの耳が真っ赤に染まっていくのが分かった。早く言葉を紡がなくては、彼女が泣き出してしまうかもしれない。


「え、えっと、早瀬さんの相談って、自分が同性のことを好きかもしれないってこと? 恋愛的に?」

「そ、そうです……」


 今にも泣きだしそうな声で答える早瀬さん。でも、私の頭の中には、さっきまでここに居た皆川さんがちらついていた。


「大丈夫だよ早瀬さん。確かに、最近は理解されるようになってきたとは言うけど、まだあなたの抱く感情は、世間では、学校なんて言う小さな社会では受け入れられないかもしれない。でも、必ずあなたのことを分かってくれる人間はそばにいるから。だから安心して。ね?」

「ど、どうしてそんなこと言えるんですか?」


 決壊寸前の涙のダムを何とか抑えながら、早瀬さんは私に言葉を投げつけた。

 教え子の、百合カップルの危機を救うためなら私は幾らでも力になろう。そう思って、私は話を始めた。


「実は私、自慢じゃないんだけど、今まで何人かの男の人に告白されたの。でも、全部断ってきたの。だって私も、あなたと同じで、女の人が好きだったから。言ってなかったよね。私が保健室の先生になった理由。実は私、あなたと同じ高校生の頃に、保健室の先生を好きになったの。でも、こんな感情はおかしいって思って、自分の気持ちを押し殺して、気付いたら百合好きになってて、いつの間にか自分の恋じゃなく他人の恋を応援するようになってたの。しかも、自分と同じ気持ちを持った人のね。だから安心して。私はあなたを応援するし、あなたと同じ気持ちの人はすぐ近くにいる。それもきっと私だけじゃないから」

「先生も、私と同じなんだ……」


 そう呟いた早瀬さんは真っ直ぐに顔を上げ私を見つめた。その顔には、涙も戸惑いも一切ない。


「ええ、そうよ。だから安心して、早瀬さんは自分の心に正直になっていいのよ」

「ありがとうございます……」


 そう言うと早瀬さんはまた大きく息を吸って今度は何も言わずに吐き出した。強い彼女のことだ。もう心配はいらないだろう。


「先生」

「どうしたの?」


 私を呼んだ早瀬さんに、優しく聞き返す。彼女はにっこりと笑いながら──


「先生、私──」

「ちょいちょいちょい、ストーップ!」


 その声に私も早瀬さんも思わず閉めていた廊下側のドアを見る。突如開かれたドアの先には、下駄箱で待っているはずの皆川さんがいた。


「え、彩咲⁉ 下駄箱で待ってくれてるはずじゃ……?」

「果凛遅いな~って思ってこっちを見に来たら、もしかして果凛、抜け駆けするつもりじゃないよね?」

「ぬ、抜け駆け? どういうことかな? 全然そんなつもりないけど?」

「な、先生の前だからって猫被っちゃって。果凛が桃井先生のこと好きなの、もうバレバレだから!」

「な、彩咲こそ、先生にかまってもらいたくて毎日保健室に行ってるのお見通しなんだからね!」


 目の前で繰り広げられる口喧嘩が、何の話なのか、一切分からなかった。

 というより、上手く脳が処理してくれなかった。

 私を好き? 誰が? この二人が?

 そんなはずはない。だって二人は、私が見出した最高の百合カップルなんだから。


「「先生」」


 私を呼ぶ二人の声に、ふと意識が現実の方へ戻ってきた。


「「先生、私と付き合ってください」」


夕日の射し込む放課後の保健室に重なる二つの声。

私が好きだった百合カップルは、二人とも私のことが好きだった。

でも、私は彼女たちの気持ちに応えることができない。挟まることは許されない。だって彼女たちには、もっと素敵な人が、もっと近くに居るはずだから。

 覚悟を決めた二人は、じっと私を見つめてくる。自分を選べと言わんばかりに、選ばなければ噛み千切るとでも言わんばかりに。でも、私にだって、彼女たちと比肩できるほど強い感情があるんだ。

 自分の気持ちを伝えるため、彼女たちの気持ちを踏みにじらないため、慎重に言葉を探し、選び、紡ぐ。


「ごめんなさい、私は二人の気持ちに応えてあげられない。私には立場があるし、それに何より、あなたたちには、私よりもふさわしい人が、ずっと近くにいるもの」


 私の答えに、二人とも呆気にとられたように顔を見合わせる。そしてお互いに指を差し合い……。


「「もしかして、こいつのことですか⁉」


 二人そろって大声を上げた。あれ? 伝わってるはずなのに、伝わってない……?


「私と果凛が⁉ 絶対にありえないよ!」

「そうですよ! 私が彩咲なんか好きになるわけないじゃないですか! あ、もしかして、そうやって私たちをはぐらかそうとしてるんですか?」

「先生……純情な乙女心を弄ぶなんて……ひどいよ……」

「いや、そういうわけでは……」

「「絶対、こいつより先に、私のことを好きにさせますからね!」」


 どうやら私は、とんでもない争いに巻き込まれ……いや、挟まれようとしてるみたいだ。

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