2章 雪兎と冬燕1
三日前。
クローネは昼食を食べていた。
その日は非番で、二の鐘までに雑事を終えた彼女は最近出来た食堂に来ていた。
「まずっ。よくこんなもの有難がって食えるわね」
考えるのも億劫で適当にオススメといったものにフォークを突き刺して口に運ぶ。店員に聞かせられない罵詈雑言を吐きながらロバのように口を動かす。
翡翠のように鮮やかな翠が映えるサラダだった。本来ならば下層でしか食べられないような高級品だが、上層の温度上昇と紫外線ランプのおかげで大規模な農場が作られていた。
ある程度安定した生産が見込まれるためそこそこの値段でクローネも手にすることが出来ていた。しかし芋虫の体液とは違う、歯に引っかかる固さとゴミを煮詰めた青臭い苦味に、胃が拒否反応を起こして荒んでいた。
……お金無駄にしたわ。
これ以上食べる気にもなれず、クローネは皿をテーブルの端に寄せる。
安くなったとはいえ金額にして日給の半分ほどを取られる。財布を裁断機で真っ二つに斬られたイメージが脳裏に湧いていた。
「そうか? 虫を食うよりはましだろ」
答えたのは正面に座る男性だ。細身ながら鉄心のように揺るがない所作が気品すら感じさせる。
ソクラティスだ。彼はこの二年の間に病を治し、体調を回復させていた。本人曰く、よく動くようになったから以前よりも調子がいいくらいだと大きく肩を回すこともあった。
顔にあった大きな痣は無くなり、髪には艶が出ている。元々下層の人間だったからか、乞食のようにかきこむ真似はせずにフォークを丁寧に操り、音をたてずに食事をする。
食べているのはチキンの魚醤ソテーだ。鶏は下層で広く食べられているもので、野菜の生産が増えた為に余剰分を使って上層で飼われている。魚醤は下層の地底湖で取れるものだ。乱獲は出来ないためまだ値が張るが、長年掘り広げてきた場所にもようやく水が張り、中層以上に供給する余裕も出てきていた。
二年という時間は環境を大きく変えた。背伸びをすれば寝床に羽毛の布団を敷けるほどに。
……なんだかなぁ。
住みやすくなった。その事実の裏にどのような悪意が煮詰まっているかを知らない人々は無邪気な笑顔を振りまいている。そのことを思うだけでクローネは今を良しと笑うことが出来なかった。
唇を突き出して考える。うまく感情を整理できないせいでしばらく熟睡出来ていなかった。
「……なあ」
吐き出したい気持ちを胸に秘めているとソクラティスが声を掛ける。
眉間に刻まれた深い皺を取り除いて、クローネは思考の海から這い上がる。
「何? 師匠」
それはクローネがつけた愛称だ。
運転、整備、天候、その他大勢の気をつけるべきこと。この二年間でクローネはソクラティスから多くのことを学んでいた。
下層にはドロッパーレースのようなものは無い。ではどうして飛行機に対しての知識が多いのかと言えば、下層にも外界へと飛び立てる坑道があり、お偉いさんから依頼を受けて空へ飛んでいたからだった。
その話を聞いてずるいと、クローネは憤慨していた。人には禁止しておいて、その快楽を独占する。それをずるいと言わずして何を言うのかと。
それを聞いたソクラティスはしばらく蹲り、笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭いながら、
「事情があるんだよ」
短く先に告げる。それが講義の始まりでもあった。
クローネが住んでいる、タールフルス火山は資源が豊富であった。しかしいずれは枯渇する。そうでなくとも手に入らないものも多い。
特に亜鉛や錫、プラチナなどの金属はほとんど産出されない。ないならないで代用を考えることも出来たが、もっと簡単な方法を取っていた。
現状余りある鉄や銅を持って、希少金属があるところと交換するのだ。
その輸送船のパイロットの一人がソクラティスだった。
十六から五年間、世界中を回っていた。そんな彼でも厚く覆う雲を抜けたことはなかった。
だから目指した。命尽きる前に。
そう言って泣きそうな目をしていたのは昔のこと。今は体調も良くなり再び空を目指すために資金集めに精を出していた。
クローネは以前に一度ドロッパーレースに誘ったことがあった。大金を得るには中層ではそれが一番近道だからだ。
強力なライバルを自分から引き込むような真似だが、そもそもドロッパーがなんなのか知らないソクラティスをお試しにとレース会場へ連れていた。異様とも言える熱気に気圧されている中、レースが始まった。
「……アホなのか?」
レースが終わり、少しの賭け金が戻ってきたクローネに降り注いだのがそんな言葉だった。
「どういうこと?」
「あれは乗り物なのか? 乗り手も機体も拙すぎる。今日だって怪我人で済んだのが不思議なくらいだ」
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