1章 緋石と未だ届かぬ蒼穹14

「娘よ。この病は治るというのか?」


 そう尋ねたのはドクターだった。

 震え、飛び散った声がクローネに当たる。演技にしては白々しく、もはや馬鹿にされているようだ。


「治るも何も治しにきてるんでしょ? そんなになるまでほおっておいて、だらしないわねぇ」


 下手をすれば死んでいた。既にソクラティスの指先は黒ずみ、ところどころ壊死している証拠がでていた。

 痛いだろう、辛いだろう。しかしまだ毒素が身体を周り、切り落とさなければならないという程では無い。

 ……でも上層じゃだめね。

 早く治すにはより標高の高い上層の方がいい。しかし失った体力は食事でしか取り戻せない。ろくに食べるもののない上層では回復させることもままならないのだ。

 病を治すにはよく食べよく眠るしかない。この冷獄の地ではそのどちらも叶わないことだった。

 最悪じゃないだけ。中層に移動すればいいのにとクローネが惑いの目を向けていると、破裂した鉄屑のような速さでドクターが肩を掴む。

 痛みすら感じるほどだ。じっとりと滲んだ汗が服越しにも湿り気を伝えていた。

 目が、怖い。血走り赤く線を散らしている。


「嘘は無いなっ!」


「え、あっはい。レンの方が詳しいと思うわ、昔同じ症状でてたし」


 鬼気迫る剣幕が質量を持ってのしかかる。クローネは身を引きながらもなんとか答えると、


「吾輩は急用が出来たのである! さらば」


 一言をそこに置いて気分風のように足早に去っていく後ろ姿を、クローネはよく理解しないまま見送った。

 ……あっ。

 二人だけになった空間で、気付いて表情を歪める。帰り道に困るのだ。まさか病人に案内しろとは言えず、いつ帰るかわからないドクターを待つ他なくなってしまった。

 クローネは腕を組んで考える。しかしその顔には危機感はない。


「おい」


 黙り込んでいたところに声がかかる。

 見た先には奥へと向かうソクラティスの姿があった。

 大人しく寝ていなよと、思いつつ追い縋るように足が前を向く。


「何?」


 彼の背中を眺めながら問いかける。

 先程までとは違いいくらか背筋が伸びている。退廃的な雰囲気が少しだけ前を向いたようにクローネは感じていた。


「時間が無くなった」


「なんの?」


「この山で一番の禁忌を犯す」


 ソクラティスは一方通行の会話を投げつけるだけだった。

 どうしたというのだろうか。クローネは目を細めて前を見る。

 禁忌、という言葉には心当たりがあった。やってはいけないことであり、やるにしても労力に見合った成果の得られないものだ。

 それは横穴を掘り進めて外と繋がること。無限に熱を奪う外界への入口は厳しく制限されている。もし発覚すれば問答無用で死刑が確定する。

 とは言え、今まで外と繋がったことなど一度もない。白銀の世界にあるものなど雪しかないからだ。ハイリスクノーリターンでは誰もベットなどしない。


 その罪を犯す。理由はひとつしかない。


「ちょっと、そんな身体で外に出るつもり?」


「あぁ。人が増えれば見つかる可能性も高くなる。今しかないからな」


 突然動きを止めた背中が近づいてくる。

 ぶつからないように止まり、クローネは身体を逸らす。

 肩越しに見えたのは鉄扉だった。その表面は凍りつき霜が付いている。

 ……ここが、そこなのね。

 明らかに異質な冷気が足元に手を伸ばしている。それは近づくほどにはっきりとしていた。


「手伝うわ」


 扉に手をかけたソクラティスの手を跳ね除け、取っ手に手をかける。直前に厚手の手袋をして。

 白く息を吐く鉄扉を素手で触れば、噛み付かれたように張り付いてしまう。赤黒く変色している鉄の棒がその証拠だった。

 わあ……

 鉄扉を押し開いた先、そこにいたのは黒翼の怪鳥であった。

 全長はドロッパ―よりも一回り大きく、顔つきは鋭い。何より大きく機首から左右に伸びる主翼は、風を切り裂く鎌のように薄かった。


「フューゲンシュバルツ。こいつの名前だ」


 後ろから力強い声が背を叩く。

 フューゲンシュバルツ。その名前がクローネの頭の中を何周も駆け回る。

 胸に浮かんだのは、畏れだ。あまりにも先進的なデザインに、神々しさすら感じていた。

 これは飛ぶのではない、空という庭に戻るのだ。地下に縛り付けていることが不敬にしかならない。

 心打たれたクローネの頬を無垢な涙が伝う。


「気に入ったみたいだな」


 熱く白い吐息を漏らすクローネの頭に、骨ばった手が置かれる。


「……うん」


 多くの言葉が生まれ、そのどれもが的確に気持ちを伝えることが出来ない。歯がゆさを噛み殺すようにクローネは小さく頷いていた。

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