文鳥ですが守りたい!(文鳥シリーズ②)
仲町鹿乃子
第1話
アリス・ウイスランドは、長い白銀の髪に緑の瞳をした十六歳の男爵令嬢だ。
――九年前までは。
若葉芽吹き、若人の心躍る春。
魔法学院の教員用寄宿舎の一室で、鳥籠の止まり木にちょんとのる、手のひらサイズの真っ白な一羽の文鳥。
これが、今のアリスの姿である。
そして、アリスの視線の先にいるのは、アリスと同じ白銀の髪に緑の瞳をした一人の男性だ。
その人は、アリスをじっと見ると
「アリス姉さん……」
そう、苦し気につぶやいた。
◆
話は少し前に戻る。
「わたしのために、ジンジャービスケットを?」
寄宿舎の廊下を歩くレイモンドの手のひらで、アリスは白い羽をぷるっと震わせた。
廊下には、レイモンドとアリスだけしかいない。
レイモンドは、本日最後の授業である実践魔法を終え、自室に戻るところだった。
「今日の夕方から毎日午後四時、おまえは用務員室のヨキアムさんのところへ行け。ヨキアムさんが部屋の出窓に、焼きたてのジンジャービスケットを用意してくれる」
魔法学院の生き字引と呼ばれるヨキアム爺さんは、菓子作りが得意だ。
生徒たちは、ヨキアムが作る菓子目当てに用務員室へ顔を出し、ついでにあれこれとヨキアムの手伝いをするのだそうだ。
レイモンドが、アリスのためのジンジャービスケットをヨキアムに頼んだところ、爺さんは二つ返事で引き受けてくれたらしい。
レイモンドがくしゃみを一つする。
「あの、レイモンドさま」
「なんだ」
「ジンジャービスケットは、そりゃとても嬉しいのですが。それよりも気になることがあります」
「言ってみろ」
「なぜ、そんなにびしょ濡れなのですか?」
「あぁ――」
レイモンドが空いた手で濡れた前髪を後ろへかきあげると、その指が通ったままの線が金色の髪に入った。
アリスだって、ジンジャービスケットには、もちろん心惹かれる。
けれど、それより、レイモンドのこの派手な濡れ方が心配だった。
アリスは真っ黒な丸い瞳で、レイモンドの姿を観察した。
レイモンドは髪だけでなく、青い瞳を縁取っている金色の長いまつ毛まで濡れている。
制服の白いシャツは、レイモンドの痩せ気味の体にピタリと張りついていた。
その様子は、雨に濡れたなんて甘ちょろいものではなく、水風呂にでも入ったかのようなびしょびしょのビタビタといった濡れ具合なのである。
現に、今もレイモンドが歩くたび、体のあちこちから雫が落ち、彼が歩いてきた廊下はその板の色を濃く変えていた。
「この間は、前髪が焦げていました」
「そうだったか」
「泥まみれのときもありました」
「うん」
今一つの反応しか返ってこないレイモンドの手のひらを、アリスは薄紅色のくちばしでツンツンつつく。
「おい、痛いぞ」
「痛くしております! レイモンド様! 焦げたり、泥団子になったり、果ては水浸し! 実践魔法の授業とは、いったいどんなことをするのですか?」
「おまえには、関係ないだろう」
「関係なくありません! わたしは九年間、レイモンド様の盾となり、あなたさまをお守りしてまいりました! そのレイモンド様が、実践魔法の授業を受けるたびに、泥団子になって帰って来るんですよ!」
毎回泥団子は違うだろう、とレイモンドがぼそりとつぶやくが、アリスはそれをあえて無視した。
本来ならレイモンドは、王の二十九番目の子として後宮で暮らし、魔法学院ではなく王立学園へ通うはずだった。
そして、名ばかりの男爵令嬢のアリスには知る由もないが、なにかしら重要な仕事を任される未来が待っていたはずなのだ。
その道を断つ原因を作ったのは、誰でもない、アリスだ。
アリスの食い意地により起きた事件のせいで、レイモンドと母で側室のビクトリアは、後宮を追い出された。
――「王立学園に進みたくなかったぼくにとり、おまえが誘拐され、ローガンに強請られた出来事は、一生に一度のチャンスだったのだ」
レイモンドにとっては、今の状況はありがたいそうだが。
だからといって、アリスの罪が消えるわけじゃない。
それはそれ、これはこれなのだ。
そのためアリスは、自分の人生……いや、鳥生のすべてをかけて、レイモンドに尽くし、幸せになっていただきたいと切に願っているのである。
「レイモンド様、やはり実践魔法の授業にも、わたしの帯同をお許しいただくよう、先生方にお願いをしていただけませんか?」
魔法学院では、座学における生物の帯同は許していた。
レイモンドは文鳥連れだが、トカゲやカナブン。芽の出ていない鉢植えを机の上に載せ授業を受けている生徒もいた。
「無理だ。座学とは違い、実践はぼくたち生徒の未熟な魔法が教室中にあふれる。そんな中に、おまえを連れていくなんて無理だ。たとえ、認められたとしても、ぼくが嫌だ」
「でも、他の授業同様に、シャツのポケットに潜り込んでいれば……」
アリスの目に、レイモンドのびしょ濡れのシャツが映る。
「……おまえも、無理だとわかっているのだろう?」
アリスは小さな頭をカクッと下げた。
文鳥となってから九年間。
アリスは多くの時間を、レイモンドの肩やポケットで過ごした。
「なにが起きたのか、わからないのが不安なのです」
「おまえが一緒にいると、授業に身が入らない」
「そんなに、危険なのですか?」
「座学と違い、一クラスの生徒の数も少なく、そこに先生が三名つく」
アリスが黙りこむと、レイモンドが溜息を吐いた。
「今日の授業は、水の魔法だった」
「水を出すんですか?」
「移動だ。机の上に水が入った器があり、その水だけ上に持ち上げ、器に戻した」
しぶしぶといった感じで、レイモンドが説明を始める。
「びしょ濡れになるほど、大きな器だったのですか?」
「いや。授業は二人組でやるのだが。なぜだか、ぼくと組んだ彼は、教室にいた他の生徒の水まで全部集めてしまい、それをぼくたちの机にある器に入れようとした」
そのため、入り切らない水はそばにいたレイモンドにかかったのだそうだ。
「前髪の焦げも、泥団子も、もしや同じように?」
「思うに、彼は自分の魔法をコントロールする力が足りないのだろう」
「いつも同じ相手なのですか?」
レイモンドが頷くと、雫も落ちた。
そのレイモンドの声には、相手を見下したり、馬鹿にしたりといった色はない。
同級生のそのままを受け止め、それをアリスに話している。
魔法学院生活が始まって二か月弱。
レイモンドの口から同級生の話が出てきたのは、これが初めてだ。
というより、そもそもレイモンドと同級生の間には、いつもうっすらと距離があった。
後宮にいるときと比べると、レイモンドは丸くなったとアリスは思う。
とはいえ、一般的に見て、レイモンドが親しみやすい性格でないことは、わかっている。
そんな彼の性格に加え、同級生たちも「元文鳥王子」に対して、どんな態度をとっていいのか様子を窺っている状態であるように思えた。
中には、レイモンドについて「できそこない」とか、「落ちこぼれ」とか、本人に聞こえるように話し、果てはありもしない噂話を、真実だといわんばかりに堂々としている生徒もいる。
そういった彼らに共通しているのは、レイモンドを「王子」の名で呼ぶことだ。
レイモンドに対する話し方も、わざとらしいへりくだり方で、聞いてるだけでアリスの羽は怒りのあまり膨らんだ。
そして、これまた微妙なのが、魔法学院の寄宿舎におけるレイモンドの部屋の場所だ。
学院からの説明によると、建物の構造の関係で、レイモンドの部屋は他の生徒たちとは離れた場所になった。
そのおかげで、こうして人目を気にせずにアリスはレイモンドと話すことができるけれど、同級生から意図的に隔離されてしまったような気がしないでもない。
友だちが、なにがなんでも必要だと、アリスは思わない。
ただ、そういった結論は、一通り試したあとでもいいのかなと思うのだ。
レイモンドは泥団子君に対して、あんな目に遭いながらも悪い感情を抱いていないように、アリスは感じた。
アリスは、泥団子君に興味を持った。
レイモンドが、再びくしゃみをする。
「おまえと話すと、どうも話が脱線してしまうな」
「人のせいにしないでください。はやく部屋に戻り、温かい湯に入ってください」
「そうする。だから、おまえはヨキアムさんのところに行ってこい」
「でも、ほんとうに、ヨキアムさんはジンジャービスケットを焼いてくれるのですか?」
アリスは、にひひと笑うヨキアム爺さんの皺だらけの顔を思いかべた。
「妙に疑い深いな。焼きたてのほかほかだぞ」
ほかほか……。
アリスはうっとりと目を閉じ、すっと匂いを嗅いだ。
当然、この場ではジンジャービスケットの匂いなどしない。
するのは、レイモンドの匂いだけだ。
石鹸だかなんだかわからないが、レイモンドは濡れていてもいい匂いがする。
そういえば、びしょ濡れのレイモンドだけれど、アリスをのせる手のひらに水気はなかった。
「いいか。くれぐれもヨキアムさん以外の人からビスケットをもらうんじゃないぞ」
「……あい」
アリスが過去を思い出し、しょぼんと返事をすると、レイモンドが小さく笑った。
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