切りとりナイフ

天西 照実

第1話 私は悪い幽霊


 私は悪い幽霊。

 子どもをさらって、若い女の人をたぶらかす。

 私がナイフを一振りすれば、文句も言わずについて来る。

 そして、逝くべき場所へ連れ去るのです。



 いま、私と手をつないでいる男の子は、新しい建売住宅地から連れて来ました。

 幼稚園の年中組なのだと、さっき教えてくれました。


 よく似た建売住宅の並ぶ一角。玄関前に青いゾウさんのジョーロが転げている家。

 そのおうちから付かず離れず。

 もう何年も。

 おうちに居るのが怖くて、おうちに帰れなくなるのも怖くて。


 歩道をトボトボ歩いていた男の子の足元に、私はナイフを軽く走らせました。

 もちろん男の子の足に傷などつきません。

 でも初めから、男の子は顔に血を流していたんです。

 足を止めた男の子は、やっと顔に流れる血に気付いたようでした。

 服の袖で目元を擦り、頭の傷に触っています。

『痛い?』

 と、聞いてみると、振り向いた男の子は首を傾げて見せました。

『お祖母ちゃんの家に行こうね』

 私が差し出した手を、男の子はきゅっと握って頷きました。


 酔って「嫁の稼ぎがになるか!」なんて喚き散らす無職のお父さん。

 それも、いつものこと。疲れ果てたお母さん。

 特別な事が起きた訳じゃない。いつもより少し調子に乗っていただけ。

 機嫌よく蹴り飛ばした男の子が、いつもより勢いよく壁にぶつかって……。

「ちょっと蹴ったら当たり所が悪かった。こんな事になるとは思わなかった」

 いつもの様子を知らなければ、そんな言い訳も通ってしまうのかも知れない。


 のんびり一緒にお散歩がてら、男の子のお祖母ちゃんの家に向かっています。

 おもちゃやお菓子の供えられた、男の子の遺影のある仏壇が、私には見えているのです。



 先月に私がさらって来た若い女性は、まだ二十二歳でした。

 オフィスビルの屋上。モップや雑巾が干してあって。

 とても眺めのいい場所で、彼女は遠くに目を向けていました。

 フェンスの向こう側に立って、ぽろぽろ涙をこぼしていたんです。

 私が声を掛けるよりも早く、彼女は宙へ進んでしまった。

 嫌な風が、彼女の背中を押したんです。

 だけど、すぐにコツコツと静かな足音が聞こえました。

 彼女が、階段を上がって来たんです。

 もう一度フェンスをよじ登って、もう一度ぽろぽろと涙をこぼして。

 もう一度。もう一度。もう一度……。

 ずっと、繰り返していました。


 ナイフを使う場所、少し迷いました。

 ビルの屋上か、落ちた場所か。

 恐らく、下から上へ戻って来ている。

 彼女が戻る場所は、ビルの屋上。

 私は彼女と同じふちに立ち、遠くを眺める彼女と手をつなぎました。

 彼女は目をパチパチさせて、不思議そうな顔を私に向けました。

 私は、笑顔でナイフを一振り。

 もう、彼女が地面へ叩きつけられる事はありません。


 風より先に彼女をさらう。なんて、ちょっと素敵でしょう?

 私は彼女と手をつないだまま、ふわりと浮き上がって風に乗りました。

『もっと、いい景色を見に行きましょう』

 そのまま彼女と、空の旅を楽しみました。

 彼女が、自然と昇って逝けるまで。



 まあ、私は宙に浮ける幽霊なのですけど。

 ちょっと飛びにくい高さや場所というものもあるのです。

 生い茂る笹や飛び出す枝を避けて、やっと見つけた彼は宙にぶら下がっていました。

 四方へ枝葉を広げる大きな木にロープを掛け、首でぶら下がっています。

 私は壁も抜けられる幽霊なのですけど。

 邪魔な枝は通り抜けにくいものです。


 彼も、繰り返しているはず。

 私は、彼の悲しい姿を見上げながら待ちました。

 不意に、彼を吊ったロープが消え、ドサリと彼が落ちてきました。

 その手には、ロープがキレイにまとめられた状態で掴まれています。

 彼は目の前に立つ私に気付かず、大きな木を見上げました。

 今です。

 私はピョンと跳ねて、彼が目星をつけた枝にナイフを走らせました。

 私のナイフが木を傷つける事はありません。

 彼の手にも、もうロープはありません。

 辺りをキョロキョロと見回し、困ったように首を傾げています。

 さあ、手を繋いでいきましょう。

 もう少し奥へ進むと、断崖絶壁。

 見晴らしもよく、きっと逝く先も見通しやすい事でしょう。



 私のナイフは、地に縛られた地縛霊じばくれいを、その場所から切り放しているのです。

 地縛霊がその場に縛られ続ける理由も、どこかにはあるのでしょう。

 それでも、私のナイフは彼らを自由にする。

 縛られ続けなければいけない理由なんて知りません。

 彼らの望む場所へと、連れて逝くのです。


 私は、悪い幽霊です。

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