ムカデワサワサ儀軌の業
くろかわ
男、指より出たる虫を斬るのこと
ふっ、と空気が斬られる音が響く。木刀という面で叩き潰す武器にもかかわらず、圧している音は発されない。それほどに鋭く、研ぎ澄まされた一閃を男は繰り返す。
年の頃は四十少し手前。痩身とはいかずとも細身。上背は高く、平均的な身長の人間よりも頭二つほど伸びている。そこに生える長い髪は、無闇に乱れないよう結っている。防具は着込んでおらず道着姿のまま、一心不乱に木の棒を振り下ろして……否、文字通り空を斬っている。
仄かに夕陽の指す木板の道場に男の呼気と木刀の奏でる静かな音色だけが沈む。
ふっ、と男は一息吐いて、木刀を振り下ろしたまま残心を取る。手のひらには握り胼胝が膨れ上がり、男の剣への情熱が伝わるかのようだ。
ぽたりと汗が指先から滴る。どれほどの間、一心不乱に剣を振っていただろうか。並大抵の人間なら音を上げるであろう運動量を示している。
つまり、男は暇なのだ。
からからと戸の開く音が道場全体に響く。
「こんにちはー」
闊達とした若い声がしんとした木板を鳴らす。同時に男は入り口へと振り向く。
「おう、おつかれさん。今日から中学生だっけ?」
「はい!」
元気な声の主は小柄な少年で、きらきらと大きな瞳が特徴的だ。夏もまだだというのに日焼けしているのか、少し浅黒い肌をしている。髪も男とは対称的に短い。
二人並ぶと全く逆の属性を揃えている、奇妙な組み合わせである。
「先生、今日も暇なの?」
少年が着替えながら口にする。
「仕事、くびになってからずっとこっちじゃん」
男は頭をぐったりと垂れ、溜息をついてからどかりとその場に座る。
「仕方無かろうよ。あのな、俺らの年代は氷河期世代っつってだな」
「知ってる。お父さんも給料が新入社員とおんなじくらいですっげー辛いって」
少年は服を脱ぎ捨て、道着に腕を通しながら男の痛いところをざくざくと突き刺していく。男は未婚である。
はぁ、と男は三度大きく息を吐く。
「俺のことは先生って呼ぶな。先生と呼ばれて喜ぶ人間にだけはなりたくないんだ」
「でも無職にはなったよね」
「それはそうだが……」
ちゃんと服を畳め、と四十手前の男が少年を窘める。はーいと元気に応ずる少年。
「いやいや、ちょっと待て」
男は少年と一緒に彼の服を整えながら口にする。
「一応、親父からここを継いだから、無職ではない。ただ、暮らせるだけ食い扶持を稼げないだけで」
「それ、無職よりきつくない?」
「それはそうだが……」
男の白い指先が少年の浅黒い爪の先と触れ合い、互いに言葉を失う。双方互い互いに瞳を見つめ合い、数瞬の時が過ぎる。口火を切ったのは男のほうだった。
「だが、無職ではない」
「でも師範もただのぎっくり腰っていうじゃん。治ったら帰ってくるんでしょ?」
うん、まぁ。小さく頬を赤らめながら返すのは年嵩の方だ。その姿はまるで小雨に降られた子犬のようで、長身痩躯の男からとても想像のつかないしおらしい姿だ。
「大体だな、親父はもういい歳なんだぞ? いつ俺が師範になってもおかしくない」
「でもなってないじゃん」
準備運動を始めた少年と一緒に男は体を動かす。既に体は熱を持っているが、少年に合わせてゆっくりと体に火を入れ直していく。
互いの指を絡め、相手の筋を痛めないようゆっくりゆっくりと伸ばしていく。両足から始まり、次第にふくらはぎ、太腿、腰とストレッチする部位を体の中心へと向かわせていく。凝りのある箇所に辿り着く度、少年は少し声を漏らすが、音にならないよう賢明に喉を抑える。
「声は出したほうが良いぞ。我慢は体に毒だ」
男の白く長い指が優しく少年の若い肢体をなぞり、柔らかにほぐしていく。
「つーか、先生って結婚とかしねぇんすか」
「しねぇんじゃねぇのよ。貯金も相手も無ぇんだわ」
少年が反撃のように男の耳元で囁く。男は判っていたかのように見事に切り返し、逆に幼さの残る胴体を弄る。
「お前さぁ、偏ってんぞ背中」
少年の背中に、つぅと手を伸ばして肩甲骨と背骨の合間をゆるりと触る。
「痛い痛い! 先生さぁ、整体師にでもなったら?」
僅か十二歳の青年は、肉体を執拗に責め立てる男に一矢報いようと必死に強がりを声にする。
「資格が無い。取ってる余裕も無かった。今はここの手伝いで余裕が無くなった」
少年に覆いかぶさり組み伏せたような姿勢で、男は彼の耳元でそう囁いた。
「あー! 世の中! クソだなー!」
男は吐き捨てながら綺麗な剣閃を描いて行く。
頭頂から始まり、剣尖が床をギリギリ掠めない位置で止める男。正しく人を殺めるための手段としての術であり、尋常このような剣は現代で振るわれることはない。
「先生、その掛け声止めて。うるっさい」
それに倣って必死に竹刀を振る少年は、男と比べれば些か見劣りするものの、十分に剣侠としての素質を秘めているように見える。男のように振り下ろすのではなく、ぴたりと中空で切っ先を止める。それは術としての剣ではなく、道としての剣だ。
互いに振る距離そのものが違うにも関わらず、同じ時間間隔で素振りをしている。これは即ち、男の剣が異様に速いことを示している。事実、同じ位置同じタイミングで振り始めてはいるが、残心に入るのは男のほうが速い。
「つか先生さぁ」
「先生はやめろ」
「結構な時間あったんじゃないの、今日」
まぁ、あったが、と言葉を濁す男。
「握り始めたらさぁ、止まんなくなっちゃって」
半目で男を睨む少年。視線は下からにも関わらず睥睨というに相応しい眼差しだ。
「ほら、解るだろ。テンション上がっちゃって。多分六時間くらい」
「ろくぅ!?」
思わず手を止めて時計を見る少年。現在十九時少し前だ。
「ほら、止まるな」
「もう百本終わったんで休憩です。数の数えられない先生だけ振っててください」
「口の回るガキだなぁ」
言いつつも、男が木刀を振る速度は揺るがない。薄っすらと道着の下が汗で透けて白い膚の下に血管が見え隠れする。
「ところで知ってるか?」
「何をです?」
面打ち以外の様々な型を男は披露しつつも、一切動きを止めず振り抜いていく。点を取る剣道では見られない動きだ。
「人間、腹の中に虫がいるって」
「いや居ませんよそんなの」
十九時半を回り、少年は両親のどちらかが来るのをじっと待つ。一方、男は七時間以上振っていた剣を始めて下ろし、少年の大きな瞳をじいっと見つめる。
「理科で習った、か?」
えぇ、うん、はい。そう答える少年。しかし、男の黒目がぎぃと捉えて離さない。
「そいつは、」
本当に腹ん中ぁ、割ってみたのかい?
そんなはずはない。そんなことはない。小学生の知る「腹の中」など、所詮教科書の中だけのものだ。紙の上だけのものだ。
だから。
「居ませんって」
そう言うしか無い。そう断ずる他無い。
春先の十九時は既に夜の内だ。帳はとうに降り、ゆるりと闇が外を包んでいる。
てらてらと光る蛍光灯に道場は照らされ、まるでそこだけが存在するようにも感じられる。
否。
感じてしまう。
そんな筈は無いのだ。
一歩外に踏み出れば、車や人混みの喧騒が存在する、はずなのだ。
なのに、にもかかわらず。
ここしかない。そう、少年は思わされる。
上背の高い男に覗き込まれて、動くこともできず、ただ。
「居ませんよ」
首を横に振ることしかできない。
「だって、」
「教科書に載ってないから?」
男が一足先に、用意した答えを言う。髪が解け、どろりと流れるような髪が横顔に掛かる。
「呵々」
男がにたりと笑い、目を細める。
「さァて、どうだかな」
流れてしまった髪を、一度頭を振ってばさりと広げてから指で纏める。
纏めようとした。
しかして、それは失敗する。
指先から、声がしたからだ。
「あのぅ」
は? と同時に男と少年が顔を合わせる。同時の男の右手人差し指が裏返り、
「こんばんは」
ぬるっとした感触を伴って、長大なムカデが出てきた。
長さ、おおよそ二メートル。
「気持ち悪っ」
少年がぼそっと言う。
「えっ」
男はぽかんとした顔をする。
まぁ当然だ。指からムカデが出てくるなんて誰が思う。誰も思わないだろう。
「呼ばれたので」
呼ばれたので、ではない。
「呼んでおりませんが」
男が前職の癖なのかぎこちない敬語で素早く返す。
「でも、話題に出しましたよね」
「まぁうん、言い出しっぺは先生です」
ですよね! と嬉しげに無数の手足をわさわさと動かすムカデ。
「気持ち悪っ」
少年が再びぼそりと呟くのを急いで抑える男。
(おいバカ止めろ、いくら事実でも言って良いことと悪いことがある)
(いやでも、ヤバくないです? 今指から出てきましたよね? 体は平気です?)
二人でこそこそと──眼の前でこそこそも何もないのだが──やり取りをしていると、おずおずとムカデが声をかける。
「あのう、お二方?」
「はいなんでございましょう」
男がやはり敬語で素早く応じる。最早句点読点すら無い、器械的反応だ。何百度と繰り返した動作なのであろう。
「呼ばれたので出てきましたが、わたくし何をすれば」
「何」
オウム返しに男が言う。
「何と申されましても当方としてはお客様へのご要望はありませんので早急にお帰りいただくとありがたいのですがいかがでしょう」
男も混乱している。敬語こそ残って入るが、言っていることはめちゃくちゃだ。要は「さっさと帰れ」である。敬語だと逆に喧嘩を売っているようにも聞こえる。
「せっかく指の間からぬるりと出ましたゆえ、妖怪的にも何かしらしないとそのぅ」
「そのとは」
「先生、早口やめなって。ムカデさん怖がってるよ」
「いやお前恐くないのか。俺はデカい虫は苦手で──あっ」
あっ、ではない。男の声はしっかりとムカデの耳に入っている。
「苦手、でございましたか……そうですよね……大きい虫って怖いですよね……」
しょんぼりとしなだれる大ムカデ。二メートルの長さでうなだれるものだから、顔の頂点は床についてしまった。
「いやそのあのですね」
「先生、落ち着いて。このムカデさん妖怪なんだって」
「妖怪」
「妖怪にございます」
「妖怪の方でいらっしゃいましたか」
「左様でございます」
「「「……妖怪って何?」」」
三者、三様の形相で顔を見合わせる。
馬鹿が三人集まっても馬鹿のままだ。
しばしの押し問答の後だ。急に少年のスマートフォンがけたたましい音を鳴らし、その場の喧騒を破った。
「先生、父さんが代わってくれって」
「中堂のお父さん? まぁいいけど」
小首をかしげながらも電話を受け取る男。
「お父様、ですか」
ムカデが何やら感慨深げな声色を発する。
「ムカデさんはお父さん、いないの?」
「今、何やら話しこまれている方がお父上と言えなくもないのですが」
ふぅん、と少年は興味なさげに応じる。彼が血縁に意味を見出すのは難しい。
「ちょっとシャワー浴びてきまーす」
男とムカデは少年の声に腕一本ずつ上げて応じた。
「はぁ!?」
男が素っ頓狂な声を上げて電話口に答えているところに、少年が帰ってくる。
「うちで預かってって……いや困りませんけど……でも赤の他人ですよ?」
「あのぅ」
おずおずとムカデが腕だか脚だかを一本上げて、少年に質問の形を取る。
「先程から、私の生みの親は何を騒いでおられるのでしょう」
少年はすっかり洋服に着替えが済んでいる。道場に隣り合った男の実家でシャワーも借りて、さっぱりとした顔をしている。自分にとっては毎度のことだが、どうやらイレギュラーが起きたらしい。
ムカデが男の指先から出てきた時点で既にアレなことにはなっているのだけれど。
「先生が手に持ってるやつのこと?」
「はい、貴方様が出ていったあと、何やらかまぼこ板のようなものと話している様子で御座いまして」
少年はうーん、と少し考えてから、
「これじゃない?」
スマートフォンを見せる。
「おぉ、これです。当代の皆様は斯様なものをお持ちで?」
小難しい言い回しをするムカデだ。妖怪とはみんなこんな感じなんだろうか。疑問を口に出して良いのか少し迷った結果、黙っていることにした。
「うん、誰でも持ってるよー」
必需品だ。持っていないと困る。ただ、今見せているのは男のスマホだ。
「あれは多分、一晩僕を泊めてくれって話だね」
「お父様と先生殿が……あれで、お話を?」
本当に? とでも聞きたげな顔の角度で、大ムカデは尋ねてくる。
「遠く離れた人と会話できるんだよ」
はぁ、と納得いかなそうな声を出すムカデ。
納得いかないのは僕らも同様だ。指先から大ムカデが出てくるわ、親は習い事先に自分を外泊させようとしているわ、とにかく腑に落ちないことばかり。
いや、腑に落ちるといえば落ちる。ただ、納得したくない。それだけだ。
両親の不仲は決定的で、そのうちに、先生のスマホへ母親から連絡が来るだろう。僕を一晩家に泊めてくれ、という内容で。
つまり、両親は互いに申し合わせて「自由時間」を作っている。
さっさと別れればいいものを、僕が邪魔でそう簡単にはいかないのだろう。
「良いものですね、家族というのは」
事情を知らないムカデが的はずれなことを口にする。そういえばこのムカデ、どうやって喋っているんだろう。口や喉の形状は人間と大きく違うのに、言葉はすんなり綺麗に聞こえる。不思議だ。
だからきっと、ムカデは本心で言っているのだと思う。たぶん。
「良くないよ。本当は仲悪いのにさ。無理して子どものために仲良しごっこして」
気持ち悪いよ。
最後の言葉は飲み込んだ。
「常人が狂人の如き振る舞いをすれば、それすなわち狂人にございます」
よくわからない例えが返ってきた。
「どうゆうこと?」
ふむ、と姿勢をただしたムカデは、蛇のようにとぐろを巻いて座り込む。
座って見上げていた僕に視線を合わせたのだ。
「例えば、の話でございまして」
前置きしてから、ムカデは妙なことを口走る。
「先生殿が、急に全裸になって往来を走り出しましたら、いかがでしょう」
そりゃまぁ。
「通報、かな……」
「でしょう」
うなずくムカデ。
「明らかに怪しげな行いをするものをケイラに突き出す。せんなきことです」
ケイラってなんだろう。警察かな。
「例え先生殿がきちんとした意味を持って全裸で疾走したとしても、余人からは狂人にしか見えないわけです。ですが、狂っていたとしても普通の人と全く同じふるまいなら、それはある意味で『狂っていない』のです」
難しい。難しいが、
「気持ちなんて行動次第でごまかせる、ってこと?」
「ごまかすとは少々違いますが、概ねそうです。行為によって人は作られる」
でしたら、と言葉を区切るムカデ。
「仲良しごっこでも良いではありませんか。問題が噴出するのは後々であっても、今は少なくともあなたのためにご両親が我慢なさっている。それはそれで立派な事だと思います」
ふぅん、と再び息が漏れる。
じゃあさ、と目の前の稚児が疑問を呈する。流行り言葉なのか、少し聞き慣れない響きである。慣れないも何も己は先程、先生と呼ばれる大男から生まれ出たばかり。つまり、彼のほうが存在としては先達なのだ。己は認識や知識が旧いのだろう。
「百足さんは、どうして百足なの」
「どう、とは」
恐らく、何故百足の形を取った妖怪なのだろうか、という問いだろう。
「言われましても。虫であるが故に百足に御座います。人、
遡れば凡そ徳川の御代からの風説である。現代でも真実とは誰も思うまい。
己とて、指より出てから始めてそう認めざるを得なかったのだ。
「ん? じゃあつまりさ。先生って病気だったの? 百足さんがここに居るって事は病気だったから虫が居て、それが出てきたから治った……ってならない?」
成程。
「成りますな。否、成らぬ場合もあります」
「えっと?」
「気持ちが形として出ただけならば、病とは無縁でしょう。畢竟、己が何故にここへ有るのか、皆目見当も付きませぬ」
眉根を寄せる幼子。少し難しかっただろうか。
「つまりですね、先生殿の病気が私なのか、先生殿の気分が私なのか、区別できないのです」
噛み砕くと、少年は顔をぱっと輝かせて大きな瞳で私を写した。
「そっか、病気じゃないなら良かった」
それもまだ完全に否定された訳では無いのだが、彼がそう望むなら私は病で無い事にしておこう。
「中堂。今日泊まらせてくれってよ」
男は携帯端末を弟弟子に投げて寄越しながら、流れるような動作で髪を結う。
「ご苦労なことに、ご両親双方から別口でお願いされちまった」
むすりとした顔で、一人と一匹の輪の中にどかりと座り込む。
「まぁ、いつものことですから」
「達観なさってらっしゃるのですね。そのお年で」
ムカデが口を開く度に、男はなんとも言えない顔をする。
「達観っていうか、諦めてる」
「気に食わんな」
「気に食わない、ですか」
男の怒気にムカデが応ずる。男とは対称的に、ムカデはあまり感情の無い声だ。
「産むなら責任を持って産め、とは思っていたんだが」
「先生、そういうとこ気にしますよね」
「不惑も近くなるとな。迷うことも減る。だから、俺の立ち位置はお前の横、少し先だとばかり思ってたんだが」
「今は相違が生じましたか」
問うたのはムカデ。
「おう。困ったことにな」
お前を産んだのは俺だから、その理屈なら俺が責任を取らねばならない。
男はそう言って、大ムカデを顎で指す。
「だがなぁ。責任ったって。どうすりゃいいんだ。妖怪なんて」
「望まれて産まれたわけじゃないもんねぇ」
無責任なことを人間二人が口にする。
いやいや、と頭を振る大ムカデ。
「責任なら御座いましょう。私という妖怪、私という物語を口にした」
ならば、まろび出るのが妖怪というもので御座います。そうムカデは居直る。
「つまり何だ。言葉にすると出てくるのか。妖怪ってのは」
「私のように明瞭な形になるのは例外でしょうが、少なくとも怪を語れば怪至る。昔からそう申されましょう」
「人を談ずれば害を生ず。昏夜に鬼を語ることなかれ。鬼を語れば怪至る、だな」
「然り」
つまり、これは、
「お前は、そういう物語なんだな」
「はい」
ムカデと男が一頻り話し終えると、男のほうがすくりと立ち上がる。少年は割って入ることもできない話題だったが、男を見上げてその向こうに天井があるのが解ると少し安心した。
「ムカデと言えば、だ」
「はい」
ムカデも同様に伸び上がる。男より更に大きな、否、長いそれは、しかし天井まで届かず、ただ男の少し上に頭を落ち着けた。
双方、睨み合うでもなく見つめ合う。
これは、そういう物語なのだ。
「唾をつけて眉間を鉄で叩き切る。弓矢は妹夫婦が持って行っちまったが、鈍らなら一振りうちにもある」
だがよ、と男は続ける。
「お前それで良いのか。妖怪物語のオチなんて、退治されてお終いだ。でも、お前はどうなんだ」
「不惑、とは申しませなんだか」
ムカデの言葉に、男は少し困り顔になる。
「惑わない、ではなく惑えないんだ。今まで生きて、選択肢が無くなっちまった」
他の可能性に手を出せるほど若く無い。別の生き方を見い出す程の熱も無い。
鈍らである。
「なら、矢張り私は斬られるべきでしょう」
きっと、私はそういう
そういう、
「取ってくる。念仏は済ませておけ」
「御意に」
少年は、男とムカデの不可解なやり取りをぽかんと眺めるばかりだ。
結局、切られた妖怪がどうなるのか気になって少年も場に居合わせる事にした。
男がすらりと刀を抜く。
「先生、銃刀法違反じゃないのそれ」
「実は資格持ってるんだ。刀剣所持の」
「道場、本気で継ぐ気だったんですね……?」
「さぁ。その時はそういう気分だったんだよ」
抜かれた刀はしかし、
「刃がありませんね……?」
ムカデが訝しむ。
「おう。鉄刀ってぇより鉄棒だな。体裁は刀に近づけてあるが、実際は鋭い鈍器だ」
「殴られたらめちゃくちゃ痛そうじゃないですか。しかも長いし重そう」
思わず突っ込む少年。
「痛ぇと思う。そもそも切られても痛いしな」
「斬れるんですか」
問うムカデ。
「違う。斬るんだ」
答える男。
「成程。銘は?」
「あるよ。烏羽」
「先生と同じ苗字ですね」
「先生はやめろって。俺じゃなくて、うちの爺様と同じってことだ」
「でも、先生とも同じですよね?」
少年の言葉に、くく、とムカデが笑う。
「幼子というものは、時に本質のみを突きますね」
「痛ぇんだよなぁ、本物ってのは」
「進退窮まり此処に至っては仕方ありますまい」
では、と双方が構える。
ムカデは頭を垂れて。
男は肩に刀を載せて。
斬られる刹那、ムカデは思う。斯様な構えで、本当に斬れるのか、と。
あまりにも自然体に見える。せめて、両の手で柄をしっかと握り締めてくれれば、こちらも相応の心構えができるやもしれぬのに、と。
けれど、結局それは杞憂に終わった。
男は片手でもって、刃渡り三尺余りの長大かつ重厚なそれを振り下ろし、ムカデの頭を両断する。
少年が見えたのはそこまでだった。
いつの間にかムカデの眉間は十字に割れ、男が再び肩に刀を納めていた。
二振りめは、ムカデの目に写っただろうか。それとも、その間もなく絶命したのだろうか。
少年の物語は、そこだけは載らずじまいで幕を閉じる。
斬られて一秒ほど中空に留まったムカデは、その後にすぅと消えた。
まるで何も無かったかのように。
まるでそこにいなかったように。
男は空へ向かって、南無阿弥陀仏、と唱えた。
「ほら、肉ばっかじゃなくて野菜も食え」
男はそう言って、すき焼きの甘辛く煮詰まった葱やら葉物やらを少年の器にどかりと載せていく。
「あぁー! 肉! 肉だけで良いんで! 野菜は苦手なんですぅー!」
少年はわぁわぁと喚くが、男は気にせず器へ肉も野菜も均等に満載していく。
「うるせぇ! 肉は俺が食う! あとな、何度も言ってるだろ。偏るなって」
不満げな少年をよそ目に、男は大量の白米を茶碗に入れて差し出す。
「こんなに食べられませんよ」
「食ってみないとわからんだろ。俺は俺の食える分量を弁えてるが、そんなもんまだお前には早い。若い内は死ぬほど食え。他人の金で食える肉なんて、滅多にないぞ」
それもそうか、と少年は膳を前に意を決して手を合わせる。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
「……先生、自分は本当に肉ばっかりですね」
あぁ、と男は頷き、
「俺は、偏ってるからな」
そう言って、溶いた卵に漬けた肉を口の中に放り込んだ。
「念仏唱えてやるくらいしかできねぇんだ」
ムカデワサワサ儀軌の業 くろかわ @krkw
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