ポメラニアンは狼にならない!
真木庵
前編 高木苺の災難
天馬つかさはいつも優しい私の幼馴染みだ。
幼稚園生。ショートケーキの上の苺を譲ってくれるから、つかさは苺が嫌いなのかと思っていた。だが、そうじゃないことを後から知った。苺ちゃんに食べて欲しいんだって笑う姿に、私は戸惑って、そっぽを向いた。
小学生。私の塾が終わるまで、近くの公園で待っていてくれた。夜遅く、ひとり寂しそうにブランコを漕ぐ姿を覚えている。私の姿を見つけると、ぱあっと顔を上げて、子犬みたいに喜んだ。
中学生。朝起きれない私を起こしに、毎朝部屋までやってきてくれた。この頃になるとつかさの背はぐんと伸びて、背の順の一番後ろから、背の順の一番前に並ぶ私に手を振るようになった。
高校生。私に初めて好きな人ができた。だけど大好きなその男と、大嫌いな女が二人きりで遊園地に行くことになって……尾行すると宣言した私に、つかさは呆れながらも付き合ってくれた。
どうしようもないほどお人好し。穏やかで、いつでもニコニコしていて、怒った顔なんか見たことがない。たとえるならば、ポメラニアンだ。短い髪はもふもふで触り心地が良く、人懐こく愛嬌を振りまくのが得意。つぶらな瞳が愛らしい、小さな子犬。それが、私の知る天馬つかさだった。
それがどうして、こんなことになっているんだ!?
夕暮れ時。カラオケボックスにて――。
制服姿の男女がある一点を見つめ、頬を赤らめている。
その視線の先にあったのは、ソファに隣あって座る二人の女子生徒。
一人は、黒い髪をツインシニヨンにした女子生徒、高木苺。もう一人は、ふわふわな亜麻色の髪をショートカットにした女子生徒、天馬つかさである。
手首が痛い。つかさがきつく握り締めるせいだ。唇は柔らかいもので塞がれている。苺は無理にでも顔を背け、息を吸った。しかしその隙を突いて、つかさの熱い舌が口の中に侵入してくる。好き勝手に搔き乱され、苺はたまらず、下半身を擦り合わせた。
つかさが唇を離す。苺は、口の端から垂れる唾液を手の甲で拭った。
そして、つかさを見上げて睨む。涙ぐんだ瞳で、忌々しげに。
「なんでこんなことするんだ……! つかさ!」
けれどつかさは、冷たい顔で苺を見下ろすだけだった。
こんなつかさ、見たことない。苺は、背筋が凍るのを感じた――。
*
初夏の日差しに若葉がきらめく。雀のさえずる爽やかな朝だ。
公立南大原高等学校の廊下では、生徒達がまだ眠たげに挨拶を交わす。
しかし、どうしたことか。生徒達はある人影を目にすると、途端に顔色を青くして、一斉に廊下の端へと身を寄せていくではないか。廊下の真ん中を闊歩してこちらへやってくるのは、黒髪の少女。ツインシニヨンから出した後れ毛をなびかせ、優雅に歩いてくる。周りには二人の取り巻きが居て、彼女たちと比べると黒髪の少女は頭一つ分小さい。けれど強い存在感を放つ少女だ。高木苺。16歳。高校二年生である。
「やばいよ。目合わせちゃ駄目だって」
「高木先輩に逆らったら、取り巻きの女達に殺されるって噂だぜ」
「殺されるって、そんな大袈裟な……」
男子生徒が半笑いでそう言い掛けた時、刺すような視線が彼を貫いた。黒髪の少女の左隣を歩く、眼鏡を掛けたポニーテールの女子生徒が、こちらを横目で見たのである。それはもう、おそろしく冷たい視線で。
男子生徒たちはゴクリと生唾を飲むと、こう呟いた。
「おっかねぇー……」
同じ頃、ボブヘアのさえない少女、山田美栗は、紙袋からはみ出るほどの大量のパンを抱えて登校してきた。
「何度見てもゾッとするわ」
山田の友人、凛は、山田の姿を見てあきれる。
「へ?」
「その朝ごはんの量」
「そうかなぁ。そうだ、凜ちゃんにもおすそわけ。どーぞ! ここのパン屋さんのクリームパン、絶品なんだよ!」
「どーも。朝っぱらから元気なことで」
友人と話しながら廊下を歩く山田は、足元の障害物に気がつかなかった。足を躓かせ、紙袋の中のパンが床に散らばる。
「あいてて……」
「どんくさい女だな」
山田が顔を上げると、そこに居たのは、黒髪の少女――高木苺だった。
両脇に取り巻きの女達を従え、くすくす笑っている。
「た、高木先輩……!」
「この量のパンが朝食? 相変わらず、意地汚い女だな」
苺の左隣に立つ眼鏡の取り巻きも山田を馬鹿にして笑い、右隣に立つショートヘアの取り巻きは、感情のない目で山田を一瞥した。山田は居た堪れなくなり、俯いてしまう。周囲は関わりたくないという表情でどよめくばかりで、誰も味方になってはくれなかった。しかし、山田の友人、凛は違った。
「ちょっとアンタ、今、わざと足引っ掛けて転ばせたでしょ!? 謝んなさいよ!!」
「よそ見をしている方が悪い」
「アンタねえ……!」
凛と苺は額を突き合わせ、睨み合う。今にも互いの胸ぐらを掴み合いそうだ。山田が凛のスカートの裾を掴み、両者の仲裁に入ろうとした――その時だ。
「たくさん食べる女の子って、可愛いと思うけどな」
透きとおる白い肌に、絹のような髪。
突如として現れたのは、スラリとした美青年だ。第一釦を留め、襟を正した、いかにも優等生という印象の男子生徒。これが実に端正な顔立ちな男の子であった。美しく整った柳眉に、目じりの上がった猫のような目。どこかミステリアスで、尚且つ涼やかな雰囲気を漂わせている。
涼宮は山田に手を貸して、立たせてやった。
「あ、ありがとうございます……涼宮先輩」
山田は耳まで真っ赤にして俯き、一部始終を見ていたギャラリー達は、まるで王子様のような涼宮の登場に、黄色い声を上げた。
これに腹を立てたのは苺だった。
「……ッ!! 行くぞ、涼宮! 始業の時間だ」
涼宮の腕を掴んで連れ去る。涼宮はされるがままであったが、別れ際、山田に対して優しく微笑み、手を振った。クソ――!
どうしていつもこうなるんだ!
入学式の日。苺は幼馴染みのつかさを探していた。家から一緒に来たのに、校内ではぐれてしまったのだ。あの天然ボケのことだから、大方迷子にでもなっているのだろう。満開の桜の下、苺はつかさの名前を呼んだ。突然、びゅうっと風が吹く。苺は目を瞑った。砂が目に入って、涙が出る。そしてあることに気がついた。右手に持っていたリボン徽章がない。新入生は全員着けるようにと受付で渡されたものだった。突風が吹いた拍子に飛ばされてしまったのだ。まずい。高校生活初日から失敗するわけにはいかないぞ。焦った苺が辺りを見渡すと、そこには一人の男子生徒がいた。彼は腰を曲げて、地面に落ちた苺のリボン徽章を拾ってくれていた。「これ、君の?」「あ、ああ。そうだ――」その男子生徒こそが、涼宮だった。満開の桜の下、真剣な瞳で苺をみつめる涼宮は、まるで御伽噺に登場する王子様だった。
この日苺は、生まれて初めての恋に落ちた。
幸運にも同じクラスになって、不器用ながら、何度もアプローチを繰り返した。けれど二年に進級した頃、涼宮に「ある異変」が起きた。どんなきっかけがあったのか知らないが、新入生の山田美栗と親しくするようになったのだ。
涼宮に振り向いて貰う為、苺は血の滲むような努力をしてきた。スキンケアとヘアケアは毎朝毎晩抜かりなく、体育祭に向けて苦手な運動の猛特訓だってした。成績優秀な彼に恥じない女になるべく、テストの点は満点か90点以上をキープした。それなのに! 何の努力もしていない山田が涼宮の気を引くなんて、納得がいかない。寝癖のついた頭で、朝から異常な量の炭水化物を食べる女なんかに、涼宮を譲ってたまるか――!
「そうだ!」
日直としてクラス全員分のノートを職員室へ届けた苺は、荷物を取りに教室へ戻ろうとしていた。放課後の廊下にひと気はなく、苺が独り言をつぶやいたとして、視線を向ける者はいない。
「今度の日曜日、涼宮を遊園地に誘おう。山田は良くて私は駄目ということはあるまい。そして山田などどうでもよくなるくらい、私に夢中にさせるんだ! うん、良いアイディアだぞ! 決まりだ!」
苺が勢いをつけて拳を上げた時、誰もいないはずの科学実験室からガタッという物音が聞こえてきた。苺は気になって、扉に耳をくっつける。駄目です、先輩。こんなところで……。聞こえてきたのは女子生徒の声だ。どこか聞き覚えのある……。
扉の隙間から覗き込んだ光景は、目を疑うものだった。
絹のような髪が、夕焼けの茜色に染まる。瞼は伏せられ長い睫毛が煌めく。白く大きな手が包み込むのは、ボブヘアの女子生徒の頬だった。
苺は確かにこの目で見た。――涼宮が山田にキスをするのを。
*
最近、苺ちゃんの様子が変だ。
星のまばらな夜のこと。オレンジ色の街灯が、古びた商店街を照らす。
高木青果店の二階には、青果店の愛娘、高木苺の部屋がある。勉強机には参考書がズラリと並ぶが、ベッドカバー、クッション、カーペットなどのファブリックの配色は、ローズやダスティピンクで統一された、フェミニンな部屋だ。
ショートカットの少女、天馬つかさは、幼馴染みの苺の部屋へ遊びに来ていた。
つかさと苺はベッドの上に腰掛け、ドラマを観ていた。金曜日の夜は決まって、苺の部屋でドラマや映画を観る。幼い頃からの習慣で、苺の趣味で選ばれたラブロマンスやラブコメディを観るのがお決まりだった。彼女は夢中になって、画面の中で繰り広げられる物語にかじりつく。だけど、この日は違った。苺は、くだらない、と言わんばかりの荒んだ目で、男女のロマンチックな場面を眺めていたのだ。
つかさはローズヒップティーを一口啜り、事もなげに訊ねた。
「苺ちゃん、何かあった?」
「べつに」
「当ててあげようか」
苺が鬱陶しそうにするのにも構わず、つかさは続けた。
「小テストの点が悪かった」
「ちがう」
「いやーん! そんなところに? ってところに、ニキビができた!」
「ちがう!」
一拍間を置いて、つかさは本命の質問を投げかける。
「涼宮くんと、何かあった?」
案の定、苺は俯き黙ってしまった。否定も肯定もしない。こういう場合は、ほとんど肯定の意味を持つ。大当たり。つかさは人の良い笑顔を崩すことなく、苺の華奢な背中を撫でる。
「そんなに落ち込まないでよ。今度はどこ? 遊園地でも水族館でも、どこでもついていきますよ」
大方、涼宮くんと山田さんが二人きりで出掛けることになったとか、そんなところだろう。だけど、そこで挫ける苺ちゃんではないのだ。彼らを尾行して、偶然を装って邪魔をしに行く。そんな底意地の悪いところも、好きですよ。わたしは。
「そうじゃない。ただ……」
「ただ?」
「なんでもない! お前、今日は帰れ!」
「ええ? 泊めてくれないの?」
「一人になりたい気分なんだ! 出ていけ!」
つかさの顔面にクッションが飛んでくる。出ていけだなんて。酷いなあ、苺ちゃんってば。つかさは高木青果店を後にすると、徒歩十秒のサイクルセンターテンマへと帰宅した。
幼馴染みが去った後、苺の部屋に、ピコン、と音が響く。スマートフォンにメッセージが届いたのだ。メッセージの内容を見た苺が、目を見開く。
「これは……!!」
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