お妃様の戦い
夜更けて。
階下と呼ばれる使用人達の領域の、ある一室にて。
沈痛な面持ちで立ち尽くす使用人達の前で、空を切り裂く音がして、それは振り下ろされる。
その度に悲痛な呻き声が響き、それを見続ける人間の顔が更に苦しげに歪む。
「あの小娘……いい気になって……! この私に対して……!」
悪意ある凶器を――黒い鞭を振り下ろしているのは、侍女長グレンダだった。
打たれているのは、下働きの少女である。
グレンダはあらんかぎりの怨嗟を叫びながら、幾度も鞭を振り下ろす。
その怨嗟は全て、蒼玉宮に迎えられた王子の妃に対するものだった。
気に入らない、所詮ただの伯爵家の娘の分際で。ただ幸運に恵まれただけの引き篭もりが、由緒正しい家格の私に生意気な。
怨嗟は最早呪詛の域に達し、鞭に籠る力もまた増していく。
周りの人間は止めたいけれど、それが出来ない。
薄情だとはわかっている。けれども、止めたなら次は我が身に鞭は振り下ろされる。
少女の呻きが徐々に弱弱しくなる中、更に侍女長は鞭を振りかぶり、振り下ろした時。
駆け抜けた影が、少女を庇うように覆いかぶさり。
侍女長の鞭は、その人影を強かに打ち据えた。
その場は一瞬凍り付いたように鎮まり返り満ちる不穏な静寂の中、グレンダは震える声で呆然と呟く。
「‥‥…ひ、妃殿下……!?」
打たれる少女を庇ってその場に飛び出したのは、何と王子の妃であるシャノンだった。
侍女長も周囲も驚愕し、蒼褪めるしかない。
下働きの少女を庇った妃を、侍女長は結果として鞭で打つ羽目になってしまったのだ。
鞭はあろうことかシャノンの頬と肩を掠めいていて、頬に赤い筋を残し、肩をかすめたものはドレスを割いてしまっている。
血が滲み、静かに伝う。
懐かしい痛みに顔を顰めながら、シャノンは怒りに身体が震えるのを押さえ、口を開いた。
「道理で腹に何か抱えても、何も言ってこないはずだわ。……この子に当たって、憂さ晴らししていたのね……!」
シャノンに対して静かに従う振りをしながら、侍女長は逆らえない下働きの少女を虐げては憂さを晴らしていたのだ。
あの日、シャノンが少女の傷に気づいた日。
シャノンは侍女達に問いかけた、あの子が何をされているか知っているのかと。
最初こそ言葉を濁した侍女達は、やがて意を決した様子でシャノンに言ったのだ「あの子を助けてください」と。
侍女長の牙が少女に向いたのは、身寄りがない彼女が自分に絶対逆らえない存在である、というだけではないようだ。
『あの子は、妃殿下は優しい方だ、と言ったのです』
グレンダが怒り狂いシャノンを悪し様に罵った際、少女は震えながらもそう言ったのだという。
自分を叱責せず、庇ってくれたシャノンを悪く言われたくなくて。
しかし、グレンダの怒りは更に燃え盛り、それから毎夜のように鞭打たれる事になってしまったと。
シャノンは怒りを覚えていた。
グレンダには当然の事だが、自分に対しても。
シャノンに逆らえないというなら、グレンダがシャノンに対して抱く鬱屈、その矛先は何処に向くか。
それを考えて行動出来ていなかった自分に……少女に被害をもたらしてしまった自分に、腹がたって仕方ない。
彼女は自分を優しいと言ってくれた。悪意の言の葉を否定して立ち向かってくれた。
それならば、今度は自分が立ち向かう番だ。
「このような場所は、妃殿下がいらっしゃるべきではありません。お部屋にお戻り下さいませ」
嫌らしいほどの猫なで声に、寒気がする。
鞭を握る女に、継母の顔が被り、思わず唇を噛みしめてしまうけれど。
「……この、卑怯者」
女の作り笑顔が、僅かに引き攣る。
シャノンは低く呻くような声音で、もう止められない湧き上がる怒りを叫ぶ。
「私に対して思うところがあるなら、直接向かってきなさいよ! 自分に逆らえない人間をいたぶるなんて、卑怯な真似をしないで!」
「……っ! この、小娘……!」
過去と呼び覚まされた嫌悪と恐怖、それを乗り越えて叫んだシャノンの言葉は、グレンダの理性を完全に消し去った。
醜悪なまでに顔を歪めたグレンダが、奇声をあげながら鞭を振りかぶる。
皆が最悪の光景を目にしたくなくて、思わず目を瞑ってしまった瞬間だった。
「……何事だ」
燃え盛る怒りや憎悪すら冷ますような、冷たい男の声音が聞こえてきたのは。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます