お妃様の怒り

 シャノンは内心で盛大な溜息をつきつつも、落ち着いた表情を作っていた。


「妃殿下の最近の行いは、宮の在り方を徒に混乱させております。お控えください」


 シャノンの目の前には、妙に威圧感のある侍女長が、お世辞にも好意的とは言えない眼差しを向けて立っている。

 この場にはエセルバートは居ない。故に、あちらは取り繕う必要すらないという事である。

 道理も分からぬ小娘が、という心の声すら聞こえてきそうな、見事な慇懃無礼さである。


「……殿下の許可は頂いておりますが?」


 侍女長に采配を伝える時、シャノンは必ずエセルバートの前で伝えるようにしていた。

 シャノンだけで伝えると、そのまま理由をつけて無かった事にされると気付いたからだ。

 それだけではない、裏から手を回して妨害すらしようとしてきた。

 故に、何をしようとするか、を敢えてエセルバートの前で宣言する事でそれら防ぐ。

 宮の主であるエセルバートが好きにさせるようにと告げ、シャノンの言う通りに人員と予算を使わせるようにと命じた。

 侍女長は、従わざるを得ない。ただ了承の意を伝えて引き下がりはする。

 けれども、その視線に潜む暗いものが徐々に強くなっていくのに気付かないシャノンではない。


「この宮を支えてくれている皆が働くための環境を整える事がいけないと?」

「使用人を過分に甘やしては、他に示しがつきません。それに使用人達がつけあがっては手がつけられなくなります」


 努めて穏やかな声音で言葉を紡いだものの、それに返るのは嘲りの色すら込められた否定だった。

 実際、蒼玉宮の労働環境が劇的に改善した事は他にも伝わっているらしい。

 他の宮から、使用人……取り分け階下の者達が異動願を出すようになって困ると言う意見が届いたらしいが、エセルバートは「なら、そちらも蒼玉宮を真似されては?」と笑うだけ。

 なお、側妃様は「それはいい」と賛同して黎明宮の階下事情に取り入れて下さっているという。

 目の前のこの女性にとって、それは面白くない事態なのだろう。

 侍女長は明確な嘲笑を浮かべると、まるで部下に命令するような声音で、ただし言葉だけは丁寧にシャノンに告げた。


「妃殿下は、殿下の為に美しく淑やかにある事、相応しい教養を身に着ける事だけを第一にお考え下さい」


 ――つまり、余計な事をせずに大人しくしていろという事である。

 最近、シャノンを支持する声が増えている事を目障りに思っていたらしいのは感じていた。

 自分の天下であった蒼玉宮の采配を脅かすと感じたのか。着服していた蒼玉宮の予算が懐に入らなくなった事が不満なのか。或いは、その両方か。

 シャノンは、静かにひとつ息を吐いた。

 そして、毅然とした面持ちでグレンダを見据えて口を開く。


「侍女長。一つ聞きますが」


 何だ、と言いたげな不遜な眼差しを受けて、シャノンは続ける。


「……わたくしは、誰ですか?」

「……? エセルバート殿下のお妃様であられるかと」


 唐突な問いかけに、ぽかんとした表情になったグレンダが一瞬目を瞬いた。

 しかし、すぐに表情を引き締めると、低く応える。

 それを聞いたシャノンは一度頷いてから、静かに告げた。


「そうです、この宮の主である殿下の妻です」


 グレンダが表情を強ばらせたのが分かる。シャノンが何を言おうとしているかを察したかのように。

 シャノンは表情を動かさずに、問う。


「この宮の女主人である私と貴方と、何方の立場が上ですか?」


 如何に蒼玉宮を影で牛耳っていようとしても、如何に側妃の縁の身分ある出自であろうとも、今の彼女の身分は侍女の長――最終的には使われる者。

 こうして正面から問われたならば。

 主である使う者――エセルバートと、その妃であるシャノンに従わなければならぬ者である事実は、変えられない。

 シャノンが仮初の妃であることは、彼女は知らない。

 シャノンは、重々しく更に重ねて問いかける。


「貴方は、私に行動の指図できる権限をお持ちですか?」


 侍女長の表情が、目に見えて歪む。忌々しいう思いを隠そうとしても、隠しきれてないのが分かる。

 本当であればこのような高圧的な、立場を笠に着るような物言いなどしたくない。

 でも、蒼玉宮の階下で使用人達が理不尽を強いられていたのは、間違いなくこの女性の所為だ。

 グレンダが予算の横領をしていることは、既にシャノンは掴んでいる。

 この人が設備にかけるもの、召使の待遇改善にかけるものを惜しみ、その分を全て自分の利益にかえて居た。

 自分の為ならば、自分の利益の為ならば。

 幾らでも他人を踏みつけ虐げても心が痛む事がない。自分が幸せでありさえすれば、何が犠牲になろうと構わない。

 周りの全ては、自分が豊かに幸せに暮らす為の糧でしかないのだ。

 この女は、あの継母――ジョアンナと同じ人種だ。

 あの日叱責されていた少女の姿が、かつて鞭に怯えながら許しを乞い耐えていた自分の姿と重なる。

 今の自分にエセルバートが我儘を許してくれるというなら、この人の専横を許しておきたくない。


「下がりなさい」


 冷徹にすら聞こえる固い声音で短く言うと、シャノンは視線を侍女長から外し、手元の本を開いた。

 憎悪にも似た激しい眼差しが突き刺さるのを感じていたが、それはやがて無言のうちに消えた。

 沈黙のまま一礼して相手が去った後、シャノンはそのまま椅子から滑り落ちそうな程の脱力感を覚えた。




 数日後、夫婦水入らずのお茶の時間にて。

 エセルバートは、首を軽く傾げるとシャノンに問いかけた。


「……シャノン。お前、グレンダに何かしたか?」

「……少しお話はしました」


 あらから、侍女長は不気味なほど大人しくなっていた。

 建前であったとしても、恭しい口調と態度を崩さない。

 それはエセルバートが居ないところでも同様で、シャノンを侮るような言動はなりを潜めている。

 シャノンに命じられる事があっても、何かを言いたげにする事はあるが、結局は静かに受諾する。

 エセルバートがシャノンを人前で愛でていても、以前のように苦言を呈しに現れる事もない。 

 口答えしたことにより、シャノンが大人しくやられっぱなしではないと判断して逆らうのを止めたのだろうか。

 そんな素直に引き下がる性格には見えなかったけれど……。


「話が出来るようになった事を喜ぶべきなのか……。ただ……」


 恐らく友好的な『話』ではなかった事はこの人なら察しているだろう。

 エセルバートは溜息交じりに言いながらシャノンの頬に手を伸ばすと、覗き込むようにして低く呟く。


「少しでも何かされたなら、隠さずに言え。……例えあいつであろうと、お前に害を及ぼす人間を俺は許さない」


 向けられる真剣な蒼の双眸に、思わず声が上ずりそうになる。

 吐息を感じられる程の距離で真剣な声音で囁かれた言葉に、咄嗟に「はい」と消え入るような言葉しか返せなかった。

 耳まで熱を感じたので、多分耳まで赤くなっていたのではないだろうか。

 ごく自然に自分を翻弄してくるこの人の方が、ある意味分かりやすい敵より怖い、とシャノンは密かに思った。


 

 しかし、エセルバートの懸念に反して、侍女長はその後も大人しいままだった。

 シャノンが階下の改善に対して新しい提案をしても、それに反発する事なく受け入れる。

 些か拍子抜けする気がしつつも、それなら好きにさせてもらおうとシャノンは次の目標に思いを巡らせる。

 どうにも蒼玉宮は、使用人一人当たりの負担が大きいのだ。宮の規模に対して、維持する人間が少ない気がする。

 過労で体調を崩さぬように使用人を増員し、交代勤務制を明確に定めて各自の負担の軽減を図れたら。

 ただ、人間はそれでも怪我や病気をするもの。

 自身が怪我をしても病気をしても休めなかったのを思えば、怪我や病の際には安心して休養できるようにもしたい。

 ただ、増員となるとシャノンだけでは何ともできない為、エセルバートに相談してみようか。

 そんな事を考えながら歩いていると、少し先を以前みかけた下働きの少女が歩いている。

 重い道具箱を抱えながら、シャノンに気付くと急いで隠れようとした。

 けれども、不意にふらついた少女はその場に倒れ込んでしまう。

 慌てて駆け寄り少女を助け起こしたシャノンは、少女の着ている服の綻びが酷い事に気付く。

 まずはお仕着せの新調からか……と思っていたシャノンは、垣間見えた少女の肌に愕然とした。


「ねえ、あなたその傷……」

「な、何でもございません……! 申し訳ございません……!」


 少女は恐縮して謝罪を繰り返すと、呆然としたままのシャノンを置いて駆けていってしまう。

 あれは、と呟いた。

 少女の肌に刻まれた、赤い線条。

 彼女の腕や足にあったのは、あまりに見慣れた傷痕だった。

 飽きるほどに見た傷だ――我が身に、幾度も幾度も。


「ああ、なるほど」


 侍女達が何かあったのかと駆け寄ってくる中。

 少女が去るのをただ見送るしかなかったシャノンは、暫ししてから漸く呻くように言葉を絞り出した。

 彼女が何故あんなにまで怯えていたのか。その身体に傷を負っているのか。

 ――何故、自分に対する牙は潜められたままなのか。


「大人しいと思っていたら、そういう、こと……!」


 シャノンの翠が、そこに居ない誰かを睨みつける。

 低く呟かれた言葉には、隠しきれない激しい感情が滲んでいた……。

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