コーヒーの拠り所

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コーヒーの拠り所

 消毒液と薬品の匂いが微かに漂う休憩室で、家で淹れてきたコーヒーを口に含む。タンブラーから漂う香りは、このコーヒーをブレンドをした奴のことを思い起こさせた。

 入店のベルを聞きつつ扉を開ければ、カフェのカウンターの向こうで「よう」と客にするには軽い挨拶を掛ける姿。近況を聞きながらどこか楽しそうにコーヒーをドリップする姿。そして高校時代のときのこと。



「なぁ、輪ゴム持ってない?」

 体育の授業前、体操服に着替えた後に友人は両手で自分の髪を纏めながら言う。肩に掛かるくらいの黒髪は、運動するには邪魔になりそうなくらい些か長い。

「あるけど」

「お前色々持ってるもんな! ちょーだい?」

「あげはするが、輪ゴムでくくるのは痛くないのか……?」

 姉が以前輪ゴムで髪をくくり、ほどく時に「痛い痛い」と嘆いていた。外した輪ゴムに数本の髪が持っていかれていた覚えがある。

「腕に付けてたゴムがどっかいってさ。くくらないのも邪魔だし、痛いのはほどくときだけだし、まぁ大丈夫っしょ」

「お前がいいならいいけどさ」

 昼飯の弁当に付いていた輪ゴムをなんとなくいつも使っていたタンブラーに付けていたので、それを一本渡す。

 さんきゅー、と軽く言いつつ受け取り、髪を纏めていくその横顔は今でも鮮明に思い出せる。

 なんでも出来る奴だった。初めてすることでもやり方さえ教えればすぐにコツを掴んで平均以上の成果を出せるような、頭が良くて勘が良くて要領も良くて性格も良くて、鼻筋も通っていて顔の作りも綺麗な奴。

 取り柄といえば真面目なことくらいで、それ以外は平均かそれ以下な自分とはあまりに違う奴だった。なのにどこか馬が合って、俺とそいつはいつも一緒にいた。さながらパズルのピースが合うように、短所と長所を補い合うような関係だったと今なら思う。

 その日の体育は体力測定で、あいつは握力も反復横飛びもシャトルランもそれ以外も、全てクラスの五位以内に入っていた。幅跳びに至っては、跳躍した瞬間輪ゴムで纏め損ねた髪が靡いていて、纏う風さえもあいつに味方しているみたいだった。

 運動も出来て、頭も良い。ちなみに美術や音楽もそれなりに出来るから、本当に万能な奴だった。

「なんでも出来るけど、なんにも出来ないよ、器用貧乏ってのはまさしく俺のこと。ある程度は出来るけど、どれかがずば抜けて出来る訳じゃない」

 褒めればそんな返答が返ってくる。謙虚な姿勢を崩さないところも好感度が高い。

「お前の真面目さの方が大切だし尊いものだと思うわけよ。俺なんてなんとなく生きてるだけだし」

 本心からそんなことを言ってくれるのが分かるから、悪い気はしない。

「お前の夢は医者なんだろ?」

「夢というか、家に医学部卒が多いから自然と俺もその道に行くことになってるというか」

 俺は医者の家系だった。家族はもちろん、従兄弟やお爺ちゃんも医者なのだ。

「その真面目さは医者に向いてると思う。お前が医者になるなら、その病院行くよ」

「病院には来ない方がいいはずなんだけどな……来るなよ?」

「なるべく来ないようには善処するけど、もしものときはちゃんと診てくれよな」

「お前はなんかやりたいことは無いのか?」

「カフェやりたくてさ」

 進学校にいる奴にしては珍しい夢だと思った。いや、高校生で夢なんて持ってる奴自体がそもそも珍しいのか。なんでも出来る奴だから、向いてそうだなと思った。コーヒーを淹れるのも、接客をするところも、容易に想像が出来た。

「お互いになりたいものになれるといいよな」

「けど不安だよ。本当になれるのか」

 模試の結果は第一志望がC評価という微妙なものだった。

 父親も母親も姉も国公立大学の医学部卒だ。その事実だけで重くプレッシャーがのし掛かる。家族が医学部を受けろと言うわけでも無いのだが、医学部に行って当然という雰囲気が漂っていた。親や姉に比べれば自分は凡人で、食らい付くように頑張らないと付いていけない。自分だけが落ちぶれるのではないかと、いつだってヒヤヒヤしている。

 落ちれば道がない。落ちたときの諦めるような顔も見たくない。

「……路頭に迷いそうだ」

 頭の片隅にはいつだって焦燥があり、心に陰りを落とす。目を伏せて吐露すれば、隣の奴は元気を出せとでも言うように俺の背をバシバシと叩き肩を組む。

「大丈夫だって! 医者になれなかったら、俺のカフェで働いたらいいじゃん。お前となら楽しくやれる気がする」

 こいつの腕のせいで肩は重くなっているはずなのに、どこか軽くなった気がする。

 簡単に言うその言葉に、酷く救われた。医者という選択肢しか無かった自分に、他の道があることを教えてくれた。細く長い平均台の上で足を震わせていたのに、例え落ちてもそこは崖の下ではなくコーヒーの香るカフェらしい。

 思わず噴き出すように笑ったら何を勘違いしたのか友人は「えー」と不満そうな声をあげる。

「給料ならしっかり出すしボーナスもちゃんと出すよ? そりゃあ医者ほどの給料じゃないかもしれないけど……あっ住宅手当も出すから!」

「違うんだ」

 言葉を遮るように言い、一頻り笑った後にちゃんと向き直る。

「ありがとう。なんか助かった」

 こいつにしてみればなんてことのない言葉だったようで、少し驚いたような顔をしていた。それでも、俺にとっては必要で大事な言葉だった。

「もしものときは本当に雇ってくれよ?」

 その後、自分は無事に大学に合格し、医学部で学ぶこととなった。そして法医学の道に進むことになる。

「石原さとみの影響?」

「全く無いとは言い難い」

「病気になっても、お前に診てもらえなくなったな」

「そもそも俺はお前のことは診たくないんだよ。いつまでも元気でいてくれ」

 大学卒業後、あいつは無事にカフェを開いた。カフェは家と大学との間にあったから、朝に時間が合うときはいつもタンブラーにコーヒーを入れて貰っていた。

 コーヒーが好きで、ブレンドは自分でしているらしい。酸味の少ない苦めな味は俺の舌に合ったから、いつも好んでこのコーヒーをお願いしていた。

 法医解剖医になって五年が経ったとき、依頼された情報を見ていると見知った名前があり目を疑った。同姓同名だろう、と震える手を押さえながら資料を捲る。しかしながら、年齢・性別・生年月日……情報を得れば得るほど、あいつであることが確定していく。

 そんなまさか、と自分のスマートフォンを取り出すと、丁度あいつの親から連絡が入った。訃報だった。

 実感が無かった。あいつに会ったのは一昨日で、いつものようにタンブラーにコーヒーを入れてもらった。高校の友人が結婚したらしいから、来週お祝いも兼ねて飲みに行こうか。お前は最近どうなんだよ? お互いに忙しいもんな。お前のコーヒーに癒される毎日だよ。おう、ここに来てないときも家でここのブレンドコーヒー淹れてるよ。そういえばストックが無くなってきたからそろそろ一袋貰おうかな。売る分は売り切れてる? 来週届くなら、またそのときに貰うよ。じゃあまたな。

「そんな会話を、したばかりだったろう?」

 思い出ばかりが蘇って、現実が受け入れられない。けれども俺は向き合わないといけない。それが俺の選んだ道で、あいつが応援してくれた道だから。



「コーヒー、来週入荷する分って届くのかなぁ」

 ちびちびと名残惜しみながらコーヒーを飲むと、まだ温かいそれが喉を通って下へと下りていく。

 店長がいないからキャンセルされるのかな。俺が受け取ることは出来ないのだろうか。コーヒー豆はもう少し早く買っておくべきだった。家のコーヒー豆はこの一杯を淹れたときに尽きていたから、もしかしたらこれが味わえる最後の一杯なのかもしれなかった。

 しかし、いつまでも浸ってはいられない。最後の一口を一気に飲みきり、休憩室を出た。

 資料を読んで分かったのは、あいつは殺されたということだった。カフェの売り上げを狙っての犯行。後頭部に傷があることから始めは頭を殴打され気を失ったところで金を奪ったとの見解だった。しかしその後の鑑識の調べで、飲んでいたコーヒーから毒物が検出されたのだという。不可解な点も多いため、この度うちに遺体が回ってきたとのこと。

 滅菌された術医を着て、手を洗い、グローブを嵌める。手術台の上に広がる黒髪は、高校のときと変わらず長い。俺はお前のことを診たくはないって言ってたんだけどな。

 さて、仕事をしましょうか。

 お前が殺された原因と犯人の手がかりを俺がなんとか見付け出そう。お前のカフェで働くことにならなかった俺は、今日のために医者になったんだって誇るから。

 拠り所だった友人に、俺はメスを入れた。

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