海峡

浜鳴木

海峡

 二人の娘が寝転がりながら向き合っている。

 高い位置にある明かり取りの窓から差し込む月光に青く照らされる居室で、二つの体がなだらかに盛り上がり、足元から腰を越えて肩、頭へと続く起伏をなして黒々と横たわっている。

 並べられた敷布の上、肩から指先ほどの幅に隔てられて、二対の白く浮き上がる眼が微かな光を捉えて跳ね返していた。




 今日も多くの船が行き交う海峡の町にメルテムは暮らしている。

 大小の船が帆柱を林立し、それを操る服装も肌の色も様々な男たちの群れる港と、同じく形も彩りも種々雑多な、食物や衣類、宝飾品から香料、雑貨にいたるまで、まさに世界中から集まった品が所狭しと陳列される市場とを持つ二つの港町に挟まれた海峡である。

 東大陸と西大陸の間で海が狭まる地域の、陸地の一部が双方に向かってせり出すようになっているその両岸にある町は、世界各地からそこにやってきた人や荷を絶えずやりとりしてきた。

 各々の背後に続いているはずの大地が海と空の堺に姿を溶かしている一方で、向かい合った二つの町は、相手の町にある寺院の尖塔も見て取れる程度の距離しか離れておらず、そこに暮らす人々はお互いを同朋とみなしている。それでも、間を隔てる海によって行き来には船を用いるしかないため、案外、地元の人間こそ自分が生まれた側の町しか知らないことが珍しくない。

 まして女となれば、船も持てず、家から離れることがあまり世間に好まれないとあって、海峡を跨いで嫁ぐ場合くらいしか対岸へ渡る機会はなく、里帰りするにしても、親の死に目に会えれば上々、といったところであった。

 海峡跨ぎの嫁入りもそれ程盛んではなく、海に関わる生業の家であれば選択肢の一つには入るというくらい。そしてメルテムはその海峡跨ぎの嫁なのであった。


 父親の商売上の繋がりで、生家のある東岸の町から西岸の町に嫁いできたのだが、嫁いだ日についていえば、生まれ育った家との別れや初めて夫と顔を合わせたことよりも、めかし込んだ人々の晴れがまし気な顔と、海上の道中ばかりが印象に残っている。

 船乗り達にとっても、豪勢に飾り立てられた嫁入り船を操るのは誇らしいことらしく、メルテムも付き添いの父と、着飾った見ず知らずの水夫達に運ばれて海を渡った。

 てっきり、港から港へただ真っすぐ進めばいいものと思っていたメルテムだったが、水夫達は何やら声を張り上げては、帆を傾けたり戻したり、ときには明後日の方向に舳先を向けたりしている。何かの呪いかと思って目を丸くしていると、にこやかな船頭が教えてくれた。

「ここいらは、海がぐっと狭くなっとるせいで流れも速いし、水底の地形も入り組んどるで、潮目も複雑なんでさぁ。だからああして、ちゃあんと港につける進路に船を乗せてやる必要があるんですな」

 関心するメルテムに、まあ今日はいつもより気合を入れてやっとりますがな、と含み笑いで付け足す様子からして、花嫁に披露するお決まりの口上だったのかもしれない。

 メルテムには悠然と揺蕩っているようにしか見えないこの海にも、何か一筋縄でないものがあるらしい。水面の下に潜んだ穏やかならぬ起伏を思うメルテムは、なぜか惹きつけられるものを感じていた。


 そうして、よく財を成している商家の第二夫人として嫁いだメルテムは婚家での扱いもよく、不自由ない生活を送っている。

 夫とは二回り、第一夫人とも一回り歳が離れ、既に子供もいるという家に、やっと成人したばかりの歳で嫁いできたメルテムに対して家中はよく気を遣ってくれている。両家が身内になることが目的の嫁入りのようなものなので、メルテム自身が特段何かの働きかけを行う必要もない。

 最初こそ婚家での生活に慣れるのに気を張っていたが、一年も経つ頃にはメルテムの日々は穏やかに凪いで過ぎるようになった。

 天気もよく予定もない日には、屋敷の敷地内に与えられた、メルテムの居室がある別棟の屋上に出てみることがある。屋敷は高台にあるので眺めがよく、そこでしばらくぼんやりと過ごしてみたりする。

 眺望の一角にはメルテムが後にしてきた町も見える。しかし間にあるはずの海はこの町の家並みに遮られており、あたかも二つの町が地続きのようで、自分の足だけでも帰れそうに思える。戯れに生家の屋根を探しながら、その気もないのに実家への道をたどる自分を思い浮かべてしまう。

 生家が見えて、思わず駆けだすメルテムは幼い姿をしている。今よりも短い脚をめいっぱい伸ばして駆けていく。門を潜り、母屋へ向かう短い道から逸れて、脇の使用人棟へ。その一室で暮らす、大好きな家庭教師の先生の腰元目掛けて飛びついて柔らかな腹に顔を埋めるメルテムを、先生は優しくたしなめて……

 想像を打ち切ったメルテムの鼻から、思わず自嘲の混じった息が漏れた。

 生家の屋根は見つけられないし、見つけても、その家にもう先生はいないのだった。

 洗い物を干しに来た家事奴隷が、そんなメルテムを怪訝そうに見ていたから、家中で心配されてしまったのかもしれない。

 どうも寂しがっている様子のメルテムに、年頃の近い娘を行儀見習いとしてつけてやろうということになったらしい。




「向こう岸に渡ってみたいって、昔から思ってたんです」

 それからしばらくして、行儀見習いとして奉公にあがった娘が、来たばかりの頃にそう口にしたことがあった。

 メルテムよりもかなり背は高いが僅かに年下にみえるこの娘はアスリという名で、この町の下町に住む細工物の職人の家の生まれだという。

 自分が仕えることになる相手が対岸の町から嫁いで来たということを、前もって聞かされていたうえでの何かしらの意思表示であろうとは思うのだが、メルテムは意図を図りかねて、気のない相槌を返すことしかできなかった。

 続けて何かあるかと思ったが、アスリもそれ以上何を言うでもなく、少しの間、ただこちらをくりくりとした目で見ているだけであった。


 アスリは物怖じしない娘のようで、自分の視線を隠そうとしない。話していてもこちらをじっと見るし、不意に視線があっても目を逸らさずに堂々と、御用ですかと訪ねてくる。始めはメルテムのほうがたじろいでしまって、思わず窘めようとしたのだが、どう伝えてよいものかわからず、言い出しかねている内に間が空いてしまった。


 少ししてお互いの気心も知れてきた頃、どうして対岸に渡りたかったのか訪ねてみたことがある。

 町の中でも港側からは離れた細い路地が入り組んで見通しの悪い地区にアスリは住んでいたのだが、そこと高台のお屋敷町の堺の辺り、ならされていない急な斜面を折れ曲がりながら続く坂を昇っていると、時折、家と家の隙間に、海とその先の対岸の町が覗けるのだという。

「あの海を越えた向こうはどんなとこだろうって、そこを通るたびに気になってました」

 そう言いながらも、実際のところを聞いてこないアスリに、メルテムは落ち着かない気分になる。

 彼女の視線はかつての自分が、先生の姿から何かを探ろうとしていた様を思い起こさせた。



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「寡婦の仕事を奪ってはなりませんよ」

 話すときはいつでも目を合わせてくれた先生が、目をそらして言った。

 十歳を少し過ぎたころ、綺麗でやさしく、何でも知っている先生は非の打ちどころのない人に思えた。そんな先生のすることはどんなことでも真似したかったメルテムが、自分も教師になりたいと伝えたときだった。

 どういうことかその場では聞くことができなかったが、一緒に授業を受けていた兄が後から教えてくれたところによれば、先生は夫と離縁して生活に困っていたところをこの家に雇われたのだという。

「夫のない気の毒な女性は働きに出なきゃいけないこともあるんだよ。彼女は教養があるから、こうして家庭教師の職を見つけられたけど、仕事はどこにでもあるわけじゃないからね」

「気の毒な人しか先生になれないの?」

兄が通っている私塾や、寺院で開かれている教室にも教師はいるはずだ。

「そういうわけではないけど……つまり、暮らしにも嫁ぎ先にも困らないお前が、可哀そうな女性の働き口をとってはいけないってことさ」

 メルテムと同じように先生を慕っているものだとばかり思っていた兄からは、違う姿で先生が見えていたのだった。


 その後しばらく、先生を失ってしまう怖れに心を曇らせる日々が続いた。

 兄と同じように見てしまったら、もう先生を好きでいられなくなってしまうのではないかと案じながらも、怖いものからはかえって目をそらせず、知らない姿を探ろうとするような視線を注いでしまうことをやめられないでいる。

 先生の側でもそんなメルテムの様子に気づいたのかもしれず、少しづつ、互いの目を見て話すことも減っていったのだった。


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 行儀見習いといっても、良家の暮らしぶりを内から垣間見つつ、日々の仕事を通して細かなお作法や物事の始末のつけ方を覚えていくといったものだから、言葉通りに立ち居振る舞いにいちいち口を出すということはほとんどなかった。

 それでもアスリは自分で周りの所作を見て取ってくれているようで、メルテムは密かに安堵している。

 メルテムからすると、アスリにはどこか、頭ごなしにあれをしろ、これはするな、とやることを憚らせるところがあり、それはまるで、異教徒の詩に添削をしなければならないような躊躇いを感じてしまうのだった。


 思えばメルテムは、顔合わせに連れてこられたアスリを初めて目にしたときから、こんな娘がいるのかと驚かされたものだ。

 ずいぶんと背が高い。同年配というわりには縦にだけ先に育ったようなひょろひょろした感じもなく、首から下だけみれば年増といっても通じそうなのに、その上にはまだ幼げの残る丸顔が載った不思議な愛嬌のある娘といった風である。長身に見合った手足の長さによるものか、物怖じしない質によるものか、動作にいちいち目を惹く活力があり、どうしたらこう育つのかと思わされた。


 その印象はひとつ屋根の下で暮らすようになっても変わらなかった。

 外出するメルテムの供を初めてさせたとき、一緒に玄関を出たアスリが自分の調子で進むものだから、歩幅の差であっというまに距離が空いてしまった。さも当然のことのように歩いていくので、思わず主であるメルテムのほうが急いで追いつこうとしてしまう程である。主人を置き去りにしたことに気づいたアスリは、戻ってくるでもなく、その場でくりくりした目でこちらを見ながら追いつくのを待っている。従者は主人の後からついて歩くものだという当たり前のことを言ってやらなければと思う一方、あの伸びやかな歩きぶりを縮こめさせることへの気おくれに、思わず緊張してしまう。それなのに、追いついたメルテムの後ろに何も言わずにすっと下がった彼女は、それ以降は従者然として主の前に出ることはなかったものだから、もどかしい気持ちとともに背後を妙に意識してしまった。


 そんな風でも、この家の暮らしにアスリはうまく馴染んでいった。仕事も覚え、メルテムの傍についていないときも周りとよくやっているようだ。誰かの余計な口出しを受けた様子もないまま、見よう見まねで所作を覚えてしまったのは、周囲もそのままの彼女に得難いものを感じていたのかもしれない。

 そうして長所が損なわれることなく、下町育ちらしさの抜けてきたアスリの振る舞いに、ある時ふと既視感を覚えた。

 耳に、髪をかける手つきに見覚えがある気がした。思わず訝し気な声を漏らしてしまったメルテムに気づいて、アスリは照れくさそうに応えた。

「……奥様の真似です」

 ああ、これは先生の面影だ、とメルテムは思い至る。同時に、アスリは私を見ている、とも思った。

 それからというもの、メルテムはともに過ごすアスリの気配が強まったように感じてしまう。気の持ち様だとわかってはいるのだが、彼女から放たれる何かが産毛を撫でているようで、気づくとその気配の中に己に向く視線を探ってしまっている。そんな日々は、なんだかそわそわと足元が定まらず心許ないような、後ろから背筋を伸ばされているような、何とも言えない心地がした。



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 先生の言うことをよく聞いているみたいだってお母さんが喜んでたぞ、と兄が言う。確かになんだか最近大人びてきた感じがするよ、と褒められて、そうかもしれないとメルテムは思う。

 メルテムはもう長いこと先生を観察しているから、先生のように振る舞うのがとても上手くなった。

 先生と視線を合わせることが減ったのは寂しい。でも今では、別の衝動がメルテムを慰めている。

 それまで気にも留めていなかった、垂れた髪を耳にかけ、そのまま細い指が首筋に流れる繊細な手つきや、ふと屈んだ際に衣装の襟と胸元の間に生じる暗がりを抑える仕草に目を惹かれるたび、身の内が微かに震えるような何ともいえない感覚がする。

 メルテムはその感覚を求めて先生を眺めるようになり、いつしか、視線を先生から外していてさえ気配からその感覚を探るようになって、ついに過日の恐れが実現したのだと悟った。

 曇りなく先生を慕っていたころとは変わってしまった自覚がメルテムにはある。

 今の私が見ているものに先生は気づくだろうか。気づいたら、先生はこれが何か教えてくれるだろうか。そのときを思い描くと、弾かれた楽器の弦が共鳴りするように、身の内の震えも高まるようだった。

 もう教師になりたいとも考えなくなったメルテムにとって、授業はただ先生の傍にいるための時間になっていた。


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 用事があるのに見当たらないアスリを探していると、屋上にいるのを見つけた。何やら座り込んで、対岸の町の方を向いてぼうっとしている。

「また、向こうのことを気にしてるの?」

 かけた声が知らずに尖ってしまって、気まずく思うメルテムの方に向くこともなくアスリが言う。

「いえ……もう行ってきたので」

 不意をつかれた驚きに、メルテムはしばし言葉を詰まらせた。

 確かにこのあいだ数日の休みを与えて里に帰したが、そのときだろうか。これまでに聞いていた身の上からすれば伝手もなさそうだったし、メルテムという細い縁でしか、対岸との関わりはないはずだった。だからアスリが向こう岸を見ることはないと思っていたのに。それほど強く想っていたなんて。

「どうして……」

 やっとのことでメルテムの口からこぼれ出た言葉に、少し俯くようにしながらアスリは応える。

「お給金、たくさん貰ったので、行けるかなって思って。なら、行ってやろう、って」

 まるで言い訳するような、自嘲するような声音で続ける。

「もったいないことするなって言われるに決まってるから、一人で行こうって」

 若い娘相手だと思われるとうまくいかないかもしれないと考えて、母親の着物を借りて既婚者を装い、港の船溜まりで乗せてくれる船がないか聞いて回ったのだと聞いて、メルテムは肝の冷える思いがする。案の定、散々叱られたり疑われたりしたそうだが、付き添いもなく娘一人でそんなことをして、物盗りにあったり拐かされたりしてもおかしくない。

「そうしたら、行けちゃったんです」

 メルテムの方に振り返った顔は、なんだか呆然としているように見えた。

 どちらの町にも同じように世界中から人と物が集まり日常的に交流があるのだから所詮は似たような町でしかないという、面白みのない事実と期待との落差にそんな表情になっているのかと思うと、今度はメルテムが俯く番だった。

「……がっかりした?」

 メルテムのほうを見たまま、アスリが少し考えている気配がする。

「多少は……でも、踏ん切りはつきました」

 間を空けて返ってきた声はいつも通りで、思わず顔を上げて見えたのも、いつものくりくりとした目でこちらを見つめるアスリの顔だった。

 アスリは立ち上がると、手にもっていた藍染の糸束を懐にしまいながらメルテムの前までやってくると、軽く屈んでメルテムの手を取って言う。

「メルテム様、私、メルテム様のことをお慕いしています」

 正面から目を合わせつつ握られた手にアスリの力を感じる。彼女の唐突な行動に驚いているにも関わらず、メルテムはこの手を握り返したいと思った。しかし、自身のアスリへの想いはそれをしていいものなのかという躊躇いで、メルテムの手に力は籠らなかった。

「嬉しいわ」

 アスリの目の中に、その答えは見えない。どう確かめればいいのだろう。アスリには、私の目の中に自分と同じ想いが見えているのだろうかと疑いながら、まだ言うつもりのなかったことをメルテムは告げる。

「それでね、あなたの嫁ぎ先が見つかりそうなんですって」

 咄嗟に開いたらしいアスリの口から何も言葉が出ないまま、その顔に呆然とした、けれど先程のものとも違う表情が広がっていくのをメルテムは見ていた。



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 メルテムの嫁入りが決まるより前に、先生はこの家を去ることになった。兄が密かに、先生に言い寄っていたのだ。

 先生も周囲に感づかれないようになんとか受け流していたようだが、ある日それをメルテムが見つけてしまい、兄に食ってかかって騒動を起こした末に、家中の知るところとなった。

 そのときは何故そんなに激昂しているのか自分でもわからないまま、私の先生なのよ、と掴みかかろうとするメルテムに、兄は大人ぶりながらも苛つきを隠しきれない態度で言った。

「おい、よく考えてみろよ!どうせお前が嫁に行ったら先生とはお別れじゃないか。でも僕の妻になればずっとこの家に居られるんだぞ、そうすればお前だって会えるじゃないか!」

 そんな理屈を一顧だにせず、私の先生、を繰り返すメルテムをせせら笑う兄だったが、彼の言い分もまた認められることはなかった。

 未婚の息子の第一夫人にわざわざ歳の離れた寡婦である先生を選ぶ必要はなかったし、そんな女性を妾扱いするような外聞の悪いことを敢えてする意味もない。

 結局、多少のお金と見込みのありそうな家への紹介状を持たされて、先生は暇を出されることとなった。

 それを聞いて泣きながら謝るメルテムの頭を上げさせながら、諦めの滲んだ穏やかな顔で先生は言った。

「嫁ぐあなたについて行って、あなたの子にも教えられたらなんて想像したこともありましたけど……うまく行かないものですね」


 夫が第二夫人を訪れる日の夜、横で眠る夫にちらりと向けた視線を天井に戻してメルテムは考える。

 実際に嫁いでみれば、メルテムは兄の言ったような形でも別に構わなかったという気がしている。しかし、つまるところは互いをどう思っているかであって、どうせ望みはなかったのだとも思う。

 もし先生が最後に漏らした望みが叶うとしても、そんなことをしていいものかとメルテムは大いに悩んだだろう。けれど先生は悩まなかったに違いない。そういう関係でしかなかったのだ。


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 メルテムの心に確信が訪れないまましばらくの時が過ぎ、ついにアスリを嫁に迎えてもよいという相手が見つかったと、この家の主から告げられた日の夜。

 普段は使用人部屋で休むアスリが、今夜はメルテムの居室に夜具を延べていた。

 二人は向き合う姿勢で横になり、ただ見つめあっている。室内を薄く照らす月明りだけが移ろっていくなか、どれ程の時間そうしていただろうか、アスリがふと口を開いた。

「対岸の町を見に行くことなんて、きっとないんだろうなって思ってました。でも、そんなことなくて」

 メルテムを見つめたまま、茫洋とした口ぶりで言う。

「なんだ、やってみれば案外なんとかできるんだって思って、だから私、メルテム様に、あなたを……」

 既に水が飲み干された革袋を逆さにしたときのように、ぽつぽつと声がこぼれていく。

「断ったりなんか、できませんよね……そんなことしたって、どうせ……どうしたら……」

 もう続きが出ない様子のアスリに、メルテムも言葉をかけることができないでいる。

 そもそも行儀見習いの奉公に上がる前提として、いずれ縁談の紹介があることを周囲はみんな承知している。アスリだってそうだろう。この家とアスリの実家、間に立った世話役、関わる皆に責任と面目がある。それらを蹴飛ばした先で何ができるのか、メルテムにも分からない。

 それでも、という執着が恐らくアスリにはあるのだろう。それはメルテムにも共感できる。しかしそれが何から生まれるのかを問う言葉を知らないメルテムは、口を開けずにいる。

 再び沈黙が漂う中、メルテムに向き続けていたアスリの眼差しに月光が煌めいたのに気づく。煌めきがアスリの目の間を上から下へ転がり落ちる様子に、はっと胸をつかれた。

 メルテムは思わず身を起こしたが、その次が頭に何もない。間を埋めるように寝乱れた髪をかきあげようとして、ふいに思う。

 私が先生に感じていたあの艶めかしい感覚は、アスリとは互いに抱けるものだろうか。

 あれは執着に繋がるものだという実感があった。理解できる執着を共有できると分かれば、確信を得られるのではないだろうか。目の前に横たわるアスリを眺め渡したメルテムは、身の内で予感が疼くのを感じた。

 何かを期待するような視線を向ける相手をしばらく見返していたメルテムが、おもむろに立ち上がって帯を緩め始めたのに、足元でアスリがぎょっとしている気配がする。帯をほどき、夜着の前が開こうとするのを手で押さえながら言う。

「あなたも同じようにしてくれる?」

 えっと声を上げ、少しの間とまどっていたアスリが立ち上がろうとするのを見て、メルテムは夜着を床に落とす。

 腕を伸ばせば届く距離に立つ二人の足元で、乱れた布が重なりあいながら、陰影の襞を作った。

 鎖骨の浮き出た肩も、重たそうに突き出した乳房も、まるく柔らかげな腹も、彼女のすべてがメルテムをくすぐる。隠すもののなくなった全身に這うアスリの視線も身の内の熱を高めるようで、視界を外れた肌を冷やす夜気が心地よい。

 踏み出そうとする気配を目で制する。見開かれた目にぎらつく光にメルテムはついに確信を得たと感じた。

 これ以上は不貞だ。それを犯しては、たった今共有され繋がったものが、違うものに置き換わりそうで嫌だった。まだ触れ合うことはできない。まだ、であってほしいとメルテムは願う。

 たとえアスリが嫁いでからも、この夜が二人の関係の底に深く横たわる。それはきっと、何気ない日常の行き来に、二人だけが感じる流れや渦を生じさせるだろう。メルテムの内の予感が、そう囁いていた。




 その後、この家が仲介に立ってアスリの実家と先方の交渉が行われ、無事に縁談がまとまってアスリが嫁いでいってからしばらく経った頃。

 そろそろ婚家にも慣れただろうし連絡をとろうかと考えていたメルテムの元に、先にアスリからの手紙が届いた。一緒に何やら手のひらに満たない幅の細い帯が同封されていて、近況に加えて、彼女が対岸の町へ行ったときに買った糸で織った細帯を贈る旨が書かれている。

 その細帯の地の藍色になんだか見覚えがある気がした。

 そういえば、嫁入り支度として諸々を作ったり買ったりしていた折に、時々アスリがこんな色の糸で何かやっていたのを覚えている。どこにでもあるような糸だったから、どうしたのか気にも留めていなかったが、忙しい最中にメルテムのために織ってくれていたことに思わず胸が高鳴った。


 メルテムはよく澄んだ空が広がる屋上に出る。

 二つの町がまるで地続きになって見える町並みを眺め、この町のどこかに私の家をもつことができるだろうか、と考える。

 それは困難で、誰かを傷つけたり顔を潰してしまったりしかねない、途方もない望みのように思えた。

 目の前にアスリから贈られた帯を掲げる。その藍色の帯には白波の上を行き来する帆掛け船が織り込まれている。


 メルテムの背に、海峡を渡る風が吹いている。

 今はもう、駆けていく先が見えていた。


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海峡 浜鳴木 @hamanaruki

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