死ぬ前に食べられるなら君がいい
時坂咲都
死ぬ前に食べられるなら君がいい
その昔、不思議な病があった。
現代日本ではすっかり見られなくなったとされるこの病。完全になくなったわけではなく、年に数例だが発症が報告されている。今日の医学をもってしても明確な原因やメカニズムは不明であり、治療法も存在しない。
この病に罹ると数ヶ月かけて身体が甘い物に変化し、いずれ死に至る。見た目はそのままに、骨の髄まで砂糖菓子になり、血肉は焼き菓子やベリーソースに、髪や瞳はチョコレートや飴細工に、肌はバタークリームに変わっていく。巨大なケーキのように。その味はどんな甘味より極上とされ、まだスイーツなどなかった時代は患者の身柄が高値で取引されたとも言われる。
また、大規模な飢饉が起こったときに患者が増えるとされており、一説には人間という種の生存戦略だと言われている。病に蝕まれた身体は栄養価もカロリーも高く、人々はそれを食べることで飢えを凌いでいた。
「そして、その味はひとりひとりちがう――」
ぱたんと本を閉じ、
そんなバカな、と言いたくなるような奇病だが、それで死にゆく人間をこの目で見た。
「死ぬ前に食べられるなら君がいい、か……」
それはこがれにしかできない方法で、香恋が存在した事実を残すことだった。
*
最初に出会ったとき、死にそうだったのはこがれの方だった。
労基法を守っているのかよくわからないブラック企業。高卒一年目にして、毎日数時間のサービス残業が当たり前の業務量。仕事自体はデータ入力や雑用が主だったが、少しでもミスがあると先輩からの容赦ない叱責が飛んでくる。よく眠れない日が続き、疲れもあって正常な思考ができなくなっていた。
だから、無意識のうちに楽になりたいと思ったのだろう。
残業終わりの遅い時間。電車を待っていたとき、吸い寄せられるように足が動いた。
警笛が聞こえ、電車が近づいてくる。この駅にホームドアはない。このまま落ちたらどうなるかなんてわかりきっているはずなのに。虚ろな目をしたまま、ふらふらした足取りで進む。ところが転落する寸前で、誰かに腕をつかまれた。そのまま抱きしめられるように引き戻されて我に返る。魔が差したとはこのことだ。へなへなとその場でへたりこむ。見上げると、助けてくれた人と思しき若い女性が心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫……じゃなさそうだね。立てる?」
差し出された手を取って、なんとか立ち上がる。でも、足に力が入らない。肩を貸してもらい、近くのベンチに腰掛ける。
「顔色が良くない。駅員さんを呼ぶから、少し待ってて」
安心させるような、穏やかで優しい声だった。自然と大粒の涙がこぼれる。彼女は一瞬だけ驚いた顔をしたものの、こがれの隣に座ると黙って背中をさすり始めた。
自分が限界を迎えて自殺を試みたOLだってこと、きっと彼女も気づいている。
突然泣き出してボソボソ謝るめんどくさい人間に構う必要なんてない。そう伝えたいのに、言葉が喉の奥にひっかかって上手く出てこない。
「目の前で死にそうになってる人間を見て、放っておくなんてできないよ」
「でも」
申し訳なさで頭がいっぱいになる。見ず知らずの人に介抱されるなんて初めてだ。しかも、自分とあまり歳が変わらなそうな女の子に。
「気にしないで。私がそうしたいだけだから」
彼女は一切曇りのない瞳をしていた。黒飴を思わせる大きな目。吸いこまれるようにまじまじと見てしまう。綺麗な人、と率直な感想が漏れた。
「き、綺麗……?」
「え、あッ、その……心です! 綺麗だなって。優しい人もいるんだなって感動したっていうか……」
しどろもどろになって弁解する。だが、美しかったのはそれだけではない。なめらかな色白の肌に、愛らしい顔立ち。艶やかな髪は形の良いボブに整えられている。華奢な体格のおかげで実際の身長より小柄に見えた。飾り気のないシャツワンピ姿から、素材の良さが伝わってくる。香水だろうか、微かにバニラのような甘い香りもする。見とれていた、というのも否定はできない。
「あの、ほんとにありがとうございます。救われました。あのまま飛び込んでいたらって思うとゾッとする……」
「ほんと、何も起こらなくてよかったよ。……だいぶ落ち着いてきたみたいだけど、やっぱり顔色は良くないね。医務室で休んでから帰った方がいいと思う」
「はい、そうします。……あの!」
もうすぐこの優しくて綺麗な人とお別れなのだ。少しだけ後ろ髪を引かれる思いがした。
「どうしたの」
「あの……その。本当にありがとうございました」
引き止めの言葉どころか、「なんでもないです」という誤魔化しの言葉も口にできなかった。きっと、彼女はそれだけで察してしまうだろうから。これ以上、迷惑なんてかけられない。それなのに、彼女はどこまでも優しかった。
「いいんだよそのくらい。気にしないで。……あ、そうだ」
バッグからメモ帳を取り出すと、何かを書いて渡してきた。名前と所属、連絡先が書かれている。甘宮香恋。この近くの大学に通う四年生。こがれは目を見開き、彼女とメモを交互に見た。
「なにかあったら連絡して。なんだか心配だから」
*
その後、終電近い電車で帰宅したこがれはそのまま布団に倒れ込んだ。電源が切れるように意識を手放し、目が覚めるとお昼近くになっていた。始業時間をとっくにすぎており、スマホには会社からの不在着信が溜まっている。布団を被ったまま、ダラダラと冷や汗を流す。
――やってしまった……。
初めての無断欠勤。今からでも出社する? 休むと電話した方がいい? こんな時間に? 迷惑かけちゃった。怒られるかな。人格否定されても文句言えないな。社会人失格だ。そんなことばかりが頭の中を駆け巡る。
――もういいや。どうでもいい……てか死にたい。
ポンと出てきた希死念慮にハッとする。人間ってこんな簡単に死にたいと思えるものなのか。
たくさん眠って体は少し軽くなったが、心は重いまま。仕事をサボってしまったこと、少しでも死にたいと思ってしまったことへの罪悪感。それらが一気にのしかかってくる。縛られたように動けない。布団から出られない。
また自然と、ぽろっと涙がこぼれた。これでも一応大人なのに。頑張ってきたのに。もう駄目なんだろうか。辛い。誰かそばにいてほしい。両親は仕事だし、平日の昼間にいきなり呼び出せるような友達はいない。本当にいないのか。誰か……いた。
「香恋さん……」
咄嗟に出てきたその名前に導かれるように、こがれは布団から這い出して手を伸ばす。彼女の迷惑になるだろう……なんて考える余裕もなく、縋るようにスマホと昨夜のメモを掴んだ。
*
「まずは、会社に連絡。それから、病院の手配も」
数十分後。午後の授業を欠席した香恋は血相を変えてこがれの家にやってきた。
状況を把握した香恋は、布団の上で脱力しているこがれに休暇を取ることを勧めた。疲れが溜まって心身のバランスが崩れているから、しばらく仕事は休んで療養すべきだと考えたのだ。会社に電話することに嫌悪感を示したこがれだが、香恋の助けもあってなんとか一週間の休暇を得ることができた。病院にも予約の電話を入れたが、診察は早くても明日の午前中になってしまうらしい。
「こがれ、よく頑張ったね。後はゆっくり休んで。すぐ元気になれるから。ね?」
ポンポンと優しく頭を撫でる香恋。今はその優しさが苦しいほど沁みる。
「……ほんとかな。わたし、もうだめかもしれない」
今まで普通にやってきた。仕事はきつかったけどなんとか一年近く続けてきたし、友達だってそれなりにいる。同居している両親との関係も良好だ。
「わたし、明るい性格だってよく言われてきたんです。死にたいなんて、一度も思ったことなかった。なのに、普通に毎日を過ごしているだけでこんなふうになっちゃうんですか」
自分は普通だから大丈夫だと思っている人ほど、ある日突然糸が切れる。それをこがれは知らなかった。
「わざわざ来てもらって、いろいろしてくれたのにごめんなさい。今はしっかり休むべきだって、頭ではわかってます。でも、そんな前向きになれない」
このまま生きていたら、こんなふうにあらゆる人間に迷惑をかけてしまう。今の自分に生きている価値なんてない。消えたい。死にたい。そんなことばかり頭に浮かんでくる。きっと、生気の感じられない酷い顔をしているのだろう。いたたまれなくなったのか、香恋が口を開いた。
「……じゃあ、このまま死ぬとして。やり残したことはない?」
そう訊ねる香恋の表情からは、なんの感情も読み取れなかった。ただ、今のこがれを否定するような言葉でないことは確かだ。少し考えてから答える。
「パンケーキが食べたい。久々に。自分で作ったやつ」
*
たっぷりのメレンゲを混ぜ合わせた、ふわっふわの生地をホットプレートの上へ。水を加えて蒸し焼きにすると、次第に甘い匂いが漂ってきた。火が通って膨らんできた生地の厚みもいい感じ。焼きあがったそれを皿に盛り付け、ホイップクリームとミントを添えて完成。手作りとは思えない、おしゃれなカフェにありそうなパンケーキ。天使の羽のように軽やかな触感と、ほのかにチーズが香る素朴な甘さ。味の方も、店で提供されているものと遜色ないクオリティだ。
こがれの料理の腕がこれほどまでとは思わなかった香恋は、感嘆の声を漏らした。
「これ、うちの思い出の味なんです」
辛沢家にとって大切な味なのだと、こがれは語る。両親が初デートで行った店の味で、こがれも幼い頃に何度も食べた大好物。ところが、何年か前にその店は閉店。二度と食べられない幻と化した。
「だから、再現したんです。いつでも食べられるように」
こがれがパンケーキを頬張りながら微笑む。このフワフワの生地のように、幸せが詰まった笑顔だった。先ほどまで死にたいと言っていたのが嘘のようだ。
「すごい。さらっとできることじゃないよ。大変だったでしょう?」
「ええ、まあ。でも、そんなに難しくないかな。わたし、食べたものの味はよく覚えている方なので」
きっと、それは才能だ。食べることも、作ることも好きなのだろう。そうじゃなければ、心身があれほど弱っているときにお菓子作りなんてしない。パンケーキなんてボリュームのある食べ物をぺろりと完食するなんてできない。
「こがれはすごいね。どんなにしんどくても、ちゃんと作って食べられる。それ自体がすごいことなんだよ」
「そうかな……」
いまいちピンと来ていない様子のこがれに、香恋は力強くうなずいた。
「そうだよ。それだけ食べられるなら大丈夫」
口にするなら希死念慮を表す言葉なんかより、甘いものの方が絶対に良い。
*
本当に死にそうなのは香恋の方だと判明したのは、後片付けの最中だった。うっかり手を滑らせたこがれが、皿を割ってしまったことがきっかけだ。
「やっぱ体調悪いときに料理なんてしちゃダメですよね」
力なく笑うこがれの顔色はあまり良くない。香恋が割れた皿を片付けようとしたものの、大きな破片を掴んだ時に指を少し切ってしまった。
「あ、血が」
怪我をした本人はケロっとしていたが、それを見ていたこがれの方が動揺してしまった。
「ごめんなさい、わたしのせいで。どうしよう、止血しなきゃ」
オロオロしながら香恋の手を取ったとき、ベリーのような甘酸っぱい匂いが鼻をついた。匂いの元が彼女の傷口からだと気づいたとき、自然とその血を舐めとっていた。血の味とは程遠い、木苺を煮詰めたジャムのような甘みが舌先に伝わってくる。手を取ったまま固まるこがれに、香恋は淡々と病気のことを告げた。
「私、もう長くないんだ。そろそろ大学も辞めて入院するの」
発覚したのは三ヶ月ほど前。身体が人間のそれではないものに変化していく不安と戦い続けながら死を待つだけ。できることなんて、死んだ後に遺体を研究機関に提供することくらいだった。
飢え死にすることのない現代で、この病に罹った意味はなんだろう。ずっと考えているが、未だに答えは出ない。
こがれはそんな人間の前であっさりと命を投げ出そうとした自分の愚かさを呪った。彼女は自分を見てどう思ったのだろう。
「そんな顔しないで。こがれだってつらかったんでしょ。私のそれと比べて否定しちゃダメだよ」
心を読んだかのように、香恋はそう言い聞かせた。これまでも病気のことを話す度、同じような顔をされてきたのかもしれない。沈んだ空気を吹き飛ばすため、香恋は軽く手を叩いてから言葉を続ける。
「どうせケーキになっちゃうなら、だれかに美味しく食べてほしかったな。こがれ、食べてみない?」
君は本当に美味しそうに食べるから。香恋は屈託のない笑顔でそう付け加えた。
「同じ病気の人を救うって決めたんでしょ。笑えないですよその冗談」
「冗談なんかじゃない。だいぶ進行しているから、食べようと思えば食べられるはずだよ。まだ人の形は保てているけど、ちゃんと味はするんだ。死ぬ前に食べられるなら君がいいな」
初めて会った時に漂ってきた、バニラのような匂いを思い出す。あの白い肌も舐めたら甘いのだろうか。一瞬でもそんなことを考えてしまった自分が嫌になる。こがれは湧き上がってきた好奇心を否定するように、きっぱりと断った。
「そんな残酷なことできません」
「じゃあ、代わりにお願いをきいてくれないかな。この血のように、味見できるところだけでいい。私が生きていたってこと、覚えていてほしいんだ。こがれならできるでしょ」
最後のひとことで、香恋が何を望んでいるのか理解した。彼女は本当に食べられたいわけではない。遺体すら残らないであろう彼女は、自身が生きていた証を残したいのだ。
「……わかりました。香恋さんが教えてくれる味、必ず再現してみせます」
*
「やっと、できた……!」
完成したパンケーキを一口サイズに切り、そっと口に運ぶ。ほのかに弾力を感じる軽やかな食感、なめらかな舌触り。口の中で広がる甘酸っぱいベリーの香り。ほのかにチーズの風味がする生地にメープルシロップが絡まることで生み出される、濃厚で贅沢な後味。それは胸やけがするほど甘いのに、どこか上品なまろやかさを感じさせた。
これが甘宮香恋の味を再現した食べ物。なんて美味なのだろう。こがれは満足そうにうなずいた。
あの日、こがれは彼女をじっくり味見した。詳細は二人だけが知っていればいいことなので割愛するが、グロテスクな事態は回避できたことを念の為断っておく。
甘宮香恋の味。それはこがれのパンケーキに少し似ていた。とくに近かったのは肌で、質感、味、舌触り、どれもあの軽やかな生地を彷彿とさせた。だが、フランボワーズソースの血液とメープルシロップの涙。これらのおかげで、辛沢家の味よりかなり甘くなっている。再現するにあたってベースとなるスイーツは、やはりフワフワのパンケーキだろう。
それを香恋に伝えると、「それは嬉しいな。こがれの大切な味に近いなら忘れないだろうから」と喜んでいた。
己の記憶だけを頼りに試行錯誤を繰り返すこと数ヶ月。ようやく努力が報われたことが嬉しくてたまらない。
「約束は果たしたよ、香恋さん」
口元に付いたクリームを拭いながら呟く。
材料と作り方は、メレンゲの状態からソースに使用した木苺の品種まで細かく記録してある。こがれがいなくなっても、このレシピがある限り彼女の味が忘れ去られることはない。
「死ぬ前に食べられるなら君がいい、か。……わたしもそう思います」
――最期に食べたい味、あなたに上書きされてしまったから。
死ぬ前に食べられるなら君がいい 時坂咲都 @sak1tokisaka
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