第3話 魔法の最初の一歩
アリシアが私の家を訪ねてきた日、長旅で疲れていたようだったので、私はアリシアを早めに寝かせた。
遠慮するアリシアを私室のベッドに無理やり寝かせて、私は居間兼、研究室のソファで眠った。研究中は、ベッドに行くのも面倒で、ソファで寝ることもよくあった。むしろ絶妙な位置のひじ掛けに頭を乗せて寝ると、私はベッドよりもはるかに熟睡できるのだ。
そういうわけでソファで熟睡していた私だったが、目覚まし代わりになったのは小鳥の声でも、差し込む朝日でもなかった。
何だか焦げ臭い匂いがする……
「ん……何この……におい?」
まだ起きたくないとわがままを言う重たい身体をなんとか腕で支えて、私は上体を起こした。
とたとたという足音、かちゃかちゃという食器の音を聞き、私は誰かが台所にいると気づく。
まさか、強盗⁉ と、寝ぼけた頭で考えて、一瞬心臓が止まりそうになるが、そういえば昨日からアリシアがこの家にいるのだと気づき、すぐさま自己解決する。
ちょうどその時、アリシアはお皿を両手に持ち、台所からこちらへと歩いてきた。
「お、お姉さま! 起こしてしまいましたか? その……朝食を用意しようと思ったんだけど……」
褒められた行動をしたというのに、アリシアは歯切れが悪い。手元を見ると、そのお皿の上には、ほぼ
その瞬間……私は心を落ち着けるように、空気をいっぱいに肺に吸い込んだ。
これが、人と一緒に暮らすということなのだ。そんな些細なことで、いちいち心を乱していてはいけない。
「……ありがとう……ございます。気を遣わせてしまいましたね」
できるだけ不安を与えないように、笑顔を浮かべようとしたが、愛想笑いの仕方などとうに忘れてしまっており、ぎこちない笑い方になっているのが自分でもわかった。
「うう……ごめんなさい。私のこと、怒らないんですか?」
「怒りません。な、何というか……新鮮ですね。朝起きたら、他の方がお家にいるのって。じゃあ、頂きましょう」
「はい! そうしましょう!」
アリシアは椅子に腰かけて、真っ黒こげのパンをちぎって口に入れた。苦みのある味を理解しようとするように、必死で眉間に皺を寄せて視線を上に向けているのが可笑しくて、私は思わず微笑んだ。
片や私は特に気にもせず、少し苦味があるパンを口に運んで食べた。
パンの表面を焦がしたって、中のふわふわまで黒焦げになるわけではない。そのほとんどは実のところ、無事なのだ。
アリシアはどうやってパンを焼いたのか? その答えは魔石である。
この世界には、魔法というものが存在し、魔法とは人間が万物に働きかけることでその力を借りるものである。
魔石は特に一定の属性を強く内包した石であり、魔力の操作に長けたものではなくても、誰でも簡単にその石が持つ力を引き出すことができる。
そうした魔石の力を借りることで、この世界では以前私がいた世界と比べても不便しない、発達した文明が築かれている。
アリシアは炊事場に置かれた、火の魔石の上で、パンを炙ったのだろう。出力の調整はやはり魔法に長けた者の方が得意なので、アリシアが上手に料理をしたければ、まずは石からの距離や火にかける時間で調整しないといけない。
それは経験さえあればどうとでもなるので、アリシアはパンを焼くこと自体、ほとんど初めてだったのだろう。つまりやっぱり、いいとこの子だ。
私は朝食を平らげたらすぐ、いつものように日課の菜園の水やりをしに行こうと思った。しかし、視線に気づいてふと思い直した。アリシアが食器を片づけると、そわそわしたように、こちらを見ていたのだ。
弟子、か。まず何から教えようか。
何かを学びたいとき、最初にすることは、とにかく簡単で、わかりやすく、気軽に成功できるものがいい。一度小さくでも成功できれば、次のこともできるようになりたいと自然に思ってくれる……はず。
「アリシアさん。えーと、では修行、始めましょうか」
なぜか自分のほうが緊張しながら私は言った。勝手に、自分のほうが良き先生になれるか試されているかのように感じてしまう。アリシアは青い宝石のような目をさらに輝かせて、笑顔で大きく頷いた。
私は食器の片付いたテーブルの上に、道具を準備した。
石ころを一つ。そして火のついたろうそく、青い葉っぱと、水の入ったコップ。それらを一つずつ持ってきて机の上に四つ並べると、アリシアは不思議そうにそれを眺めていた。
「さて……えー、こほん。アリシアさんは、魔法を使ったことが、今まで全くない、ということですね」
「はい、全く!」
元気のいい返事が返ってくる。知らないことや、できないことは決して恥ずかしいことではない。変にそれを恥じて隠すよりは、よっぽどいいことだ。
「ではまず、この中からどれでもいいので一つ、手や息を使わずに、少しだけ、動かしてみてください」
「は、はい。でも、どうやって?」
「えーと、手をかざして、結果をイメージする。それだけです。大事なのは……そうですね……他のことは何も考えないこと」
「なるほどぉ……やってみます!」
アリシアは一瞬何か言いたげだったが、素直に石ころに手をかざして、目を閉じて念じ始めた。きっと、それくらいのことは今までもやったことがあるのだろう。
そして、その時は全く何もできなかったし、できるようになる気もしなかった、と。
でもそれを口に出さずに、アリシアは素直に従ってくれた。呆れられたらどうしようと思いながら指導している身からすれば、それが何よりありがたかった。文句を言われたらすぐに投げ出したくなる。私の心はすぐ欠けるガラス細工並の繊細さなのだ。
当然、すぐには魔法なんて使えるようにならない。ほんの少し、物を動かすだけというこの修行だけでも、数日を要するかもしれないと、私は覚悟している。
しかし言ってしまえば、先ほどアリシアに伝えたことを本当にその通りにできるようになれば、魔法など程度の差はあれ誰にでも使えるのだ。
だったら、そんなことの何が一体難しいというのだろうか?
まず、結果をイメージして、それが可能だと信じて疑わないこと。
簡単だと思うかもしれないが、実際に試してみればわかる。石ころだろうが、巨大な岩石だろうが、俺は絶対にここを動かないぞという強い意志でそこに転がっている。
石ころを手を使って動かすのは強制的で簡単なことだが、石に自ら動いてもらうと思うと、突然、絶対にそんなことはできないという気になり、なぜ手でどかせば簡単なのに、そうしてはいけないのかという疑問が頭から離れなくなる。
一たびそう思えば……いや、その感覚はいたってまともで、ほとんど全員がそう思うのだが……どつぼにはまる。当たり前の感覚を拭うのはとても難しく、それだけで数年要したっておかしくない。
次に、他のことを何も考えないこと。
これが滅茶苦茶難しい。例えばたった今、本を読むことに集中しろと言われたって、脳の半分くらいは勝手に動いて、今日しなければいけないことをふと思いださせたり、自分の過去の記憶を掘り起こして、読んだ文章と関連付けたりする。
「何も考えないようにしよう! 無心でいよう!」そう必死に考えた瞬間、「何も考えないってどんな状態だろう? 無心になるにはどうしたらいいんだ?」と、脳が勝手に思考を開始する。
それは生きるために必要な脳の機能であり、欠かしてはならないものだが、こと魔法を使うときには邪魔になってしまう。
そんな単純なことを滞りなくこなすことがとても難しく、本来誰にでも程度の差はあれ魔法が使えるというのに、実際に魔法使いとなる人間はこの世界でも一握りなのだ。
私は、しばらくアリシアがうんうんと唸りながら、小石やろうそくに手をかざすのをぼーっと眺めた後、脳が勝手に今日すべきことを思い出させたのに抵抗なく従って、ソファから立ち上がった。
アリシアの後ろを通って、裏口から庭へと出る。アリシアは、私の方を見たり、何か尋ねたりもせず、ずっと手をかざして念じ続けていた。
そんな姿を見ている時の私はまだ、アリシアがあんな方法で……すんなり魔法を使って見せるとは、思いもしなかったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます