一章 天才か変態か(1)

 コントレイル子爵家に生まれた男児ウィニングは、よく泣く子供だった。

 赤ん坊はよく夜泣きをする。そのせいで育児をする者は夜な夜なたたこされ、睡眠時間を削りながら赤ん坊を寝かしつけなければならないわけだが……ウィニングは決して夜泣きをしない珍しい赤ん坊だった。

 代わりに、よく分からないところで泣いた。

「ふおー、むおー(あぁ……はいはいができるって、素晴らしいなぁ)」

 両手と両脚を使いながら、床をう。

 己の脚で進む感覚を、ウィニングはめた。

 思えば前世では、はいはいすらできなかったのだ。赤ん坊が成長して身につけるような簡単な移動手段すら、あの時の自分には生涯を賭してもできなかった。

「おぎゃーー! おんぎゃーーあ!!」

「あらあら、またウィニングが泣いているわ」

「ううむ、怖い夢でも見たんだろうか」

 両親が心配して近づいてくる。

 いけない、また感激のあまり泣いてしまった。

 見た目は赤ん坊でも、精神年齢は赤ん坊ではないのだ。人前で泣くことが恥ずかしいという一般的な感性は残っている。

「ウィニングは本当に可愛かわいいわねぇ」

「ああ……それに理知的な目をしている。きっと将来は優秀な領主になるぞ」

 親バカな両親がウィニングを見つめていた。

 父の名はフィンド=コントレイル、母の名はメティ=コントレイルというらしい。

 父はひげが立派な灰髪の青年だった。母はサラリとしただいだいいろの長髪が美しい女性だった。

 ウィニングは父の遺伝を受け、灰色の髪をしていた。

 ウィニングは母の髪を見る。灰色はともかく明るい橙……前世ではあまり見たことのない髪色だった。

えず、この世界がどう考えても俺の知っている世界じゃないことは分かったぞ)

 ウィニングはまだこの世界の文字が読めない。

 しかし以前、両親であるフィンドとメティがテーブルに地図を広げていたので、それをこっそり盗み見した。

 絶句した。

 その地図には、ウィニングが全く知らない大陸と国が記されていたのだ。

 明らかに自分の知る世界ではない。

 ここは──異世界だ。

(……なんで俺、転生したんだろ?)

 ウィニングには、転生する直前の記憶が抜けていた。

 地球での日々はちゃんと覚えている。脚が不自由なため、両親はなるべく屋内で過ごしてほしいと言っていたが、ウィニングはたとえ車椅子でしか動けなくても外に出るのが好きだった。

 その日は確か学校を休んで病院に向かっていたはずだ。

 いつも通り、車椅子に乗りながらぼんやりと外の景色を眺めて──やっぱり走りたいなぁ、なんてことを考えていた。

 そこから先の記憶がない。

 気づけば自分は、異世界に転生していた。

 地球にいた頃の自分はどうなったのだろうか? 死んだのだろうか? というかそもそも転生って実在したのか。なんてことを考えるとキリがないので──。

(神様が願いをかなえてくれた、ということにしておこう)

 前世は、周りの人に恵まれていた。行きたいところを告げると連れていってくれたし、食べたいものや読みたい本も用意してくれた。家族、親族、数少ない友人、彼らへの感謝を忘れた日はない。彼らのおかげで人生を空虚に感じることはなかった。

 つまり不便はあるが、それなりに満足した日々を送ることができた。

 だがある日。

 テレビでマラソンの中継を見た時、を自覚した。

 己の脚一つで走り続ける彼らは、皆等しく滝のような汗を流していた。ゴールテープを切った走者は倒れるように地面に横たわり、そのまぶたは震え、唇は閉じることすらままならない様子だった。今にも死にそうなくらい疲労していたが、この上なく充実しているようにも見えた。

 そんな彼らの姿を見て、思った。

 自分は今まで、あんなふうにことがあるだろうか?

 あんなにも命を燃やしたことがあるだろうか?

 気づいてしまった。

 ああ……自分は、これができないのか。

 ──悔しい。

 以来、走るという行為そのものを渇望するようになった。決して届かない夢を見るのはとてもつらく、時折目をらすこともあったが、それでも渇望が消えることはなかった。

 走りたい。ずっと頭の中でそう叫んでいた。

 どこまでも、いつまでも、速く、ぐ、無限に────。

 その願いを、神様が叶えてくれたのかもしれない。

(最高だ)

 今世では、きっと走ることができる。

 ずっと叶えたかった夢が実現できるのだ。これほどうれしいことはない。

「フィンド様、メティ様。お客様が──」

「ああ、もうそんな時間か。すぐに行くから応接間へ通してくれ」

かしこまりました」

 穏やかな雰囲気が、少しせわしないものに変わる。

 コントレイル家が貴族の家であることも、ウィニングは把握していた。というのも、このように客が訪れることが何度もあったのだ。その客が父のことを子爵と呼んでいたため、爵位の確認もできた。

 今のところきょうだいはいないので、ウィニングは自分が子爵家の長男に生まれたことを悟る。

 貴族の長男といえば、色々と面倒な制約を受けそうだが……。

(そんなことより走ろう!!)

 どれだけ我慢してきたと思っているんだ。

 長く積み重なった渇望がやっと叶ったおかげで、ウィニングは前世以上に欲求に従順な性格となっていた。いわば、ずっと目の前にご褒美がるされているようなものである。もうそれしか目に入らない。

(まずは、せめて立ち上がりたいけど……っ)

 筋肉がまだついていないためか、どれだけ力を込めても立ち上がることはできなかった。

 積み上がった本を支えにして立とうとしても、腕に力が入らない。

 もう少し成長するのを待つべきだろうか?

 ──いや。

 幸いこの無力感には慣れているので、どれだけ失敗しても心が傷つくことはない。

 挑戦するだけならだ。何度失敗してもいいから、満足いくまで頑張ることにする。

 立ち上がりたい。

 そして、走りたい。

 そんなウィニングの意志に呼応するかのように──不思議な光が現れた。

(なんだ、これ……? 変な光が、全身にまとわりいてるような……)

 虹色の光が、ウィニングの全身に──特に脚の周りに集まった。

 直後、変化が起きる。

(お? おお……っ!? 身体からだに力が湧いてくる……っ!?)

 今ならきっと──立ち上がれる!

 積み上がった本を支えにする必要すらない。

 ウィニングはゆっくり、焦ることなく、丁寧にバランスを取りながら──その二本の脚で立ってみせた。

「おぎゃーー!!(やったーーー! 立ったぞーーーーーーーー!!)」

 本当は拳を握り締めて天に突き上げたかったが、腕にはあまり力が入らなかった。

 ただ、それでも嬉しい。嬉しすぎる。

 初めてだ。

 前世と今世を合わせても──初めて、自分の脚で立つことができた。

「ウィニングー! どこで泣いているのー!?」

 いつもより大きい泣き声を聞いて、心配性な母メティが駆けつけてくる。

「おぎゃあーー!」

「ああよかった。まったく、いつの間にこんなとこ、ろ、へ────」

 一つないウィニングを見て、メティは胸をろした。

 だが次第に、その目を見開き──。

「フィンド!! フィンドーーー!!」

「どうしたメティ! 何かあったのか!?」

「ウィ、ウィニングが、立ってるわーーー!!」

「なにぃっ!?」

 ドタドタドタ、とフィンドが足音を立てて駆けつける。

「た、立つって……そんな馬鹿なっ!?」

 フィンドは、実際に仁王立ちしているウィニングを見て、目を見開いた。

 それはフィンドとメティにとって、有り得ない光景だった。

「まだだぞ!?」

「おぎゃあ! おぎゃあ!」

 感極まって泣きじゃくるウィニングを、両親は口をポカンと開けて見ていた。

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