スイリが好きと叫べ

北巻

喋る猫

 朝の次に昼が来て、昼の次に夜が来る。そんな当たり前な、普通の日だった気がする。特別なことなどなにも無かったはずだ。延々と死なない程度の苦しみを味わい続けている。空虚で渇いたいつもの日常だった。仕事から帰り、食事を済ませ、寝るまでの間に新作のゲームでもしようと考えた。ゲームのお供に、お菓子とジュースを買いに行こう。キャラメルポップコーンとペプシコーラ。近くのコンビニに行くだけなのだから、ラフな格好で構わない。財布以外には何も持たず、部屋着にパーカーを羽織ってドアを開けた。


 当たり前だけど、家から出ればそこは外。じゃあなんで俺は外にいない。家から出たのに、不思議なことに家に入っているのだ。しかも、自分の家ではない。ここは他人の住処だと鼻が教えてくれる。檜だろうか。木材の温かみのある匂いがほのかに漂っている。土間の隅には傘立てが置いてあり、傘が4本、何かの象徴みたいに刺さっていた。その傘立てのそばには姿見が壁に張り付いていて、何が何だか分からないといった様子の間抜けな男の顔が映っている。

「そんなに自分の顔を見てどうしたんですか」

「わぁ」

 声のする方に目をやった。そこには猫がいた。白と灰色の長い毛に全身が覆われており、がっしりとした大きな体をしている。鼻筋はまっすぐ通っていて、アーモンド形の大きな2つの瞳が黄金色に鈍く輝いていた。

「い、いや。別に何も。あの、ここってどこですか」

 俺の声が届いたのか、届かなかったのか、猫は、ははぁんと口にして、にやにやとさも意味ありげに笑い、じろじろとこちらを見つめる。声のトーンは高くもなく、それでいて低くもない。中性的な声をしていた。それでも、足の運び方や表情、目の動きなどの仕草から女性ではないかと推測する。女性的な猫の仕草ってなんだ?俺にも分からない。はっきり知りたいというのなら、ショッピングにでも誘え。数分で済んだら男、数時間かかればきっと女だ。

「お兄さん、面白い人ですね。楽しくなりそうだ」

 一体何が面白いというのだろう。いいや、全く。全くだ。クスリともこないし、楽しくもならない。ただコンビニに行こうとしただけなのに、見知らぬ家に飛ばされ、猫と会話している。どう考えても異常な事態。一刻も早く平穏な日常に戻りたい。戻りたいのだ。だが何故だろう、この状況を少し楽しんでいる自分が存在しているのは。

「家主を呼んできます。その間、そこの部屋で少し寛いでてください。すぐ戻りますから」

 見惚れたというのは言い過ぎかもしれない。しかし、なぜ今まで猫を飼わなかったのかと後悔している。それほどまでに俺は猫という生き物に心を捕まれてしまった。テンポが良い。前足と後ろ足を器用に一段ずつ、丁寧に乗せていく。それに合わせて、ねこじゃらしのようなふさふさの尻尾が左右に揺れている。車のワイパーが猫の尻尾だったらさぞかし素敵な世の中だっただろうな。エンブレムばりにボンネットに乗った猫。雨が降ったら、仕事をしてもらう。家に帰ったら、嫌がるのを半ば強制的にお風呂に入れて、その後は映画でも見ながら、膝の上に鎮座している猫をブラッシングしてあげる。悪くない。叶いもしない妄想をしていたら、長毛の猫が階段を昇るのを止め、くるりとUターンしこちらに戻ってきた。

「どうしたんです」

「いえ、うっかりしてました。一番最初にしておくべきことだったのに」

 俺の目の前に来てから、一度呼吸を整えて口にした。

「私、スイリと言います。お兄さんのお名前は何ですか」

「ええと、白井明人しらいあきとです」

 猫に名乗るなんて生まれて初めてだ。

「明人さん。これからよろしくお願いします」

「よろしく」

 スイリは満足そうに頷き、先ほどよりも速いスピードで階段を駆け上がっていった。視界からスイリの姿が消えるまで見送った。はぁ。緊張を体内から吐き出すような、重苦しいため息が出た。どんな行動を取れば良いか分からない。しゃべる猫が暮らしている家屋の家主を律儀に待つべきだろうか。律儀に待った末にいったい俺はどんな目に巻き込まれるのだろうか。

 逃げよう。そう、それがきっと良い。迷ったなら、リスクのある行動はしない。消極的な生き方だと思うか。だが、この方法が唯一にして最大の危機回避だ。大丈夫、今回もきっと上手くいく。数年経てばいい笑い話だ。友人との飲みの席で話そう。

 はぁ、お前そんなんが不思議な体験かよ。弱い弱い。それじゃあ、絵本にすら負けちまうぞ。女子トイレに黒ずくめの男が入ってきたなんて不思議でもなんでもねぇ。てかそれ、ただの事案だろ。いいか、不思議な体験っていうのはな、例えば猫と日本語で会話するとか、そういうことを言うんだ。えっ、なんだって。ああ、ノルウェージャンフォレストキャットだったかな。いや、マジマジマジ。あっ、そうそうその猫。その毛色が白とグレーの奴と話した。ホントだって。うん、可愛いよね。余裕ができたら飼ってみたいと思ってるんだ。 

 大丈夫だ。きっと上手くいく。後ろを向いてドアを開けた。引き戸だ。勿論、自分の家から出たときのドアは引き戸ではない。引手に手をかけて横に力を入れると、カラカラという音を立てて抵抗なく開いた。

 

 外はすっかり夜中だが、完全な暗闇というわけではなかった。敷石を踏みながら門扉まで走り抜ける。門扉の感触が妙に冷たい。開ける際に、小動物が悲しむかのような音が響いた。左右を確認する。どちらも知らない道だ。俺は転移されてしまった。今になってようやく事の重大さに気づいた。全身が粟立ち、じわじわと汗が噴き出る。服が肌にへばりつき、独特な汗の匂いと体の火照りを感じる。スマホがないから、誰かに助けを求めることもできないし、最寄りの駅を調べることも不可能だ。不安で、怖くて、不安で、不安になってきた。

 どれくらい歩いただろうか。大して歩いてないだろう。目的もなく走っていた。すぐに息が切れ、徒歩に切り替えた。スイリやその家主に見つかってしまうだとか、元の世界に戻りたいだとかいう問題は、最早どうでもよかった。自棄でしかない。とにかくもう苦しいのは御免だ。

 目に付いた自動販売機で硬貨を投入し、ペプシコーラを落とした。当たるはずのないルーレットを無視して、自販機に背を預ける。ペプシのペットボトルを傾けた。空夜くうやに味気ない炭酸を飲む。俺の体は自販機のモノクロームの光を受け、足の前にぼやけた薄い影を作っているのみであった。

「殺すなら、殺してくれ」 

 上を見上げると、不気味な黄色い瞳がこちらを見下ろしていた。

「お月様、お月様、どうか殺してくださいよ」

 うーん、どうしようかなぁ。間延びした低い声がいまにも聞こえてきそうだった。


 薬か、縄か、水か、はたまた鳥ごっこか。そんなことを冗談半分で考えている時だった。

「あっ、いた。いました。すみれさん。あそこ」

 スイリの声がした。

「ん?ああ、いたいた。おーい、明人さん」

 女性が手を振って走ってくる。彼女があの家の家主なのだろう。走っている彼女よりも先に、スイリが全速力で駆け寄ってきた。

「なんでいなくなってしまうのですか。心配したんですよ」

「いや、何というか不安で……。逃げたんですけど、捕まってしまいましたね」

 タハハといった渇いた声が出た。

「もう、本当に心配したんですからね」

 不満そうな、拗ねたような顔をしている。どんな言葉を口にすればいいのか分からない。幼いころから変わらない。俺は話すのが苦手な男なのだ。

「まあまあ、逃げてしまうのも無理はないですよ。むしろ、今まで逃げ出した人がいなかったことが不思議なくらいです」

 家主が遅れて駆け寄ってきた。白いセーターに柘榴色のロングスカートといった出で立ちで、長い髪はアイロンでロールしてある。

「こんばんは、私菫といいます。スミレ荘の管理人です」

 心の余裕さと家庭的な印象を受けた。彼女は、おっとりとした口調で、感じの良い笑顔を浮かべる。顔立ちが整っており、スタイルが良い。

 ある玩具の影響だろうか。人生は度々すごろくに例えられる。すごろくでサイコロを振れば、一から六の数字が出る。良いマスに止まることもあれば、致命的な悪いマスに止まることもある。すべては運任せであり、絶対なんて存在しない。しかし、何事にも例外があるように、すごろくにだって例外がある。星の数ほどいるプレイヤー達の中で、一人だけペナルティのマスを一切踏まないでここまで来た。そんな雰囲気を菫は纏っている。まあ有体ありていにいえば、尋常じゃないほど幸せそうな人だということだ。菫ほどバットエンドが不似合いな女はいないだろう。

「こんばんは、白井明人です。ええと、菫さんとスイリさんはなぜ俺を追うんです?というか、俺はなぜだか飛ばされてこの場所に来て……、アハハ何言ってるか分かんないですよね」

「いいえ、分かりますよ」

 菫さんが笑って返した。

「でもまあ、今日は遅いですし説明は明日にしましょ。帰って、寝て、それからです」

「帰るですか。どこに」

「決まってます。スミレ荘ですよ」

 菫さんの代わりにスイリがそっけなく答えた。

「今度は逃がしたりしませんからね」

 スイリは地面から飛び上がり、俺の肩に乗っかってきた。飛び乗った瞬間に、肩に米袋がかかったような衝撃が走った。

「ふふん、これでもう逃げれません」

「重っ」

 思わず声に出てしまう。

「ああ、レディーにそんなこと言うなんて。いけないんですよ」

 尻尾を無茶苦茶に振り回した。背中や首や後頭部にぺしぺしと当たる。痛いというよりはくすぐったい。ふふふと、菫さんが笑った。

「帰りましょうか」

 菫さんの言葉にええと返して、二人と一匹が帰路を歩く。自分がええと言ったことを以外に思った。静寂が満ちいて、俺と菫さんの靴音だけが響いた。道が分かれるたびに、菫さんがあっちです、こっちですと指を指した。一歩一歩踏み出す度に、スイリの毛が肌を撫でるのがくすぐったい。たまらず顔を上げて、こそばゆさを逃がそうとした。

「わわわ、落とさないでくださいよ」

 ごめんごめん、と謝る。視界の端に月が映った。菫さんの背中を見つめながら、足を動かす。

 お月様、お月様、これから俺はどうなるのですか。うーん、どうなるのかなぁ。間延びした低い声がいまにも聞こえてきそうだった。

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スイリが好きと叫べ 北巻 @kitamaki

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