閃光に灼かれる

閃光に灼かれる

 得体の知れない男だ。煌びやかで、華やかで、それでいて根底に奇妙な渇きがある。俺が安曇あずみ悠輝ゆうきに抱く第一印象は、概ねそんなところだった。

 そんな奴に出会い頭に言われた言葉を、俺は今も覚えている。


逢坂おうさかはさぁ、走ってて楽しいの?」


 楽しいわけないだろ。お前がいるせいで。


    *    *    *


 才能と好意は別だ。陸上は俺を愛したが、俺は陸上を愛すことができなかった。小学生の頃から走りだけは速く、それ以外はからっきしだ。俺の走りを見た親は大いに喜び、友達は口々に称える。周囲からの期待は積み上がっていき、それに釣り合うための努力を繰り返す。

 速く、速く。もっと速く。俺にとっての陸上は、半径数十メートルの世界に存在を認められるための手段だった。


 トラックを駆け抜けるように、世界は目まぐるしく変わっていく。地元中学の陸上部は小さな庭で、俺はそこから更なる称賛を求めて名門校に足を踏み入れる。今にして思えば、それが間違いだったのかもしれない。

 やりたくもない努力でも、結果はそれなりについてくるものだ。愚直なトレーニングが功を奏したのか、俺の走りは名門校でも通用した。無数の快速自慢たちをトラック上で抜き去り、ストップウォッチの数字を上書きしていく。

 存在証明は鮮烈に、記録と記憶に刻みつける走り。その評価を得たのは、俺ではなく安曇だった。


 ラップタイムは申し分ない。無数の人が俺の背中を追うほどの成績だ。それなのに、気付けば俺の前にはいつもアイツが居る。圧倒的なタイムを刻み、安曇の前では誰もが凡百になる。“飛ぶように走る”と評され、俺だけがアイツを天才と呼ばなかった。


「逢坂〜、タナセンに今日の練習休むって言っといて!」

「今月8回目。またサボりか?」

「違うって〜。明日婆ちゃんが死なないレベルの爆発するかもしれなくて……」

「どんな言い訳だよ」


 安曇は何故か俺をよく頼る。同じクラスで出席番号が近いのが原因なのか、それとも俺のことを舐めているのか。優等生を演じていた俺は、周囲に蔓延る「天才からの頼みを賜ることが名誉だ」とでも言いたげな環境圧に渋々屈していた。


 アイツは努力を嫌う。練習には気分次第で不参加を決め込み、そのくせ参加した時にはあらゆる存在を抜き去って注目を浴びる。

 そして、安曇は楽しそうに走る。大地を踏み締めて、風を切るかのように。全てを置き去りにして、自分だけの世界に逃げるかのように。

 心底楽しそうなアイツの走りを見るたびに、俺は安曇のことが嫌いになる。周囲からの重圧を何も感じていないかのような態度に、期待や憧れに従うつもりのない姿勢。それは、俺の今までの人生とは対極の存在だった。


「逢坂は走ってて楽しい? そもそも、何のために走ってんの?」


 それは安曇にとっては何気ない質問で、俺からすれば深刻な課題だった。俺は怒りを悟られないように口の端に力を込めながら、なるべく平常心での受け答えを心掛ける。


「……応援してくれる人の期待には応えないといけないよな」

「へー、俺にはできないわ。勝手に期待しとけ、って思うね」


 冷ややかな声色に聞こえた。その態度がまた癪に障り、俺は安曇と目を合わせるのを止める。

 話したり笑ったりする度に肩まで伸ばした髪が揺れるのも、子供のようにグラウンドを駆けた後の制汗剤の匂いも。全部、全部、全部。アイツの存在そのものが気に入らない。アイツさえいなければ、俺はもっと……。

 アイツの言葉は理想論だ。当然、誰しもが初期衝動のままに走って居られれば順位付けや周囲の期待など関係ないのだろう。

 だが、現実はそうはいかない。井の中の蛙は海水を浴びれば死に、独りの王国はやがて淘汰される。賞賛や期待を断つことができるのは、他人の存在に期待していない奴くらいだろう。


 安曇にとってそれは遊びで、俺にとっては生存競争だった。周囲の期待を糧にしなければ、俺の存在ごと価値がなくなってしまう。走りが速い以外価値のない人間が、唯一の長所すら奪われる。より上のステージでその辛さをアイツが知る頃には、俺はとっくに陸上を辞めているかもしれない。

 追い越す背中は小さく遠い。その実力差を覆せるとしたら、したくもない努力だけだ。練習を繰り返し、他の奴らを圧倒的な速度で抜き去り、タイムを大幅に縮める。それでも賞賛されるのは安曇で、俺の劣等感は加速して、やがて、やがて……。


 目標を阻む壁は、呆気なく死んだ。


 通学中の事故だったらしい。安曇が使っていた机には花瓶が置かれ、顧問の田中は世に出る途中の才能を惜しんで泣いた。花瓶には収まりきらないほどの花が捧げられた。

 きっと愛されていたんだろう。アイツの走りは想像以上に色々な人の脳を焼き、眩しすぎる閃光は散る寸前に無数の残影を残した。それが失われたことに嘆き悲しむ奴らは、安曇にとってはなんの糧にもならなかったのだろう。

 弔列に加わり、俺は心のどこかで安心していた。圧倒的な存在が消え、次は俺が活躍する番だ。安曇の走りはやがて忘れられ、生きている俺が称賛を得る。いつかアイツの記録さえも超えて、残影まで消し去ってやる。


 そこからの俺は順調だった。繰り上がった頂点とはいえ、俺の実力は霞んでいただけだ。蓋を開ければ、ほとんどの奴らは俺の走りを認めた。時折、安曇と比較する声が聞こえるくらいだ。

 そして、大会当日である今に至る。


 スターターが鳴らす号砲が合図だ。クラウチング姿勢から地を蹴り、横にいる奴らを置き去りにする。スピードを上げて、風を切る。俺の背中を追う奴しかこの場にはいない。そのはずだ。そのはずなのに。

 きっと陽射しが眩しいせいだ。俺の視線の先に、ぼやける安曇の影がある。逆光の中でも閃光のように輝いているアイツの背中が、俺を突き放して駆ける。

 幻視だ。アイツはもうとっくに死んで、この場にいない。観客も対戦相手もアイツのことなんてきっと忘れて、俺だけがその走りを脳に焼き付けている。走っても、走っても走っても追い越せないその影は、この世にいる誰よりも自由に見えた。


 何が一番だ。何が賞賛だ。アイツの存在に囚われていたのは浅ましい俺自身で、一番執着していたのも俺だ。嫉妬も憧れも追いつけないその走りに魅入られ、おかしくなったのは俺の方だ。


「……勝ち逃げかよ」


 ゴールする瞬間、周囲の歓声は俺の耳に届かない。ただ脳裏に響いたのは、あの日の安曇の声だ。


『なんのために走ってんの?』


 認められるためだよ。大嫌いなお前に。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

閃光に灼かれる @fox_0829

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ