第52話 決戦の朝





 11月27日の東京都府中市は、朝から晴れていた。

 天気予報でも一日通して晴れの予報で、雨は降りそうもない。


 ジャパンカップのレース当日、アグリキャップの調教はごく軽めである。


 出張馬房の周りを曳き運動で1時間周り、ダートコースに出てからも馬場の外側を速歩トロットで何度も回り、駈歩キャンターは歩様の確認のため軽く1周するだけである。

 調教助手の毛受めんじゅ駈歩キャンターで駆けさせるアグリキャップの動きを確認した久須見調教師は、順調にレース当日を迎えられたことに安堵する。


 小石や木の枝などを踏み蹄を傷める挫跖ざせきなど、ちょっとしたことで競走馬は怪我をしてしまうため、レース本番を迎えるまではまだ気を抜くことが出来ないが、とりあえず現段階でアグリキャップの歩様に異変はない。


 また、昨日レース用に打ち換えてもらった蹄鉄にもアグリキャップが違和感を感じている様子はない。

 アグリキャップの蹄鉄は、笠松から装蹄師の美和みわ正雄まさおが来て打ってくれた。

 美和は親子で装蹄師をしており、正雄は息子の方である。

 美和親子で笠松競馬に所属する馬の装蹄を殆ど手掛けており、笠松競馬の開催もある27日に向けて忙しい中、わざわざ府中まで来て打ってくれていた。

 久須見調教師も馬主の阿栗も、それだけ美和の腕を信頼している。

 今回も美和は、その信頼に違わぬ腕を披露してくれた訳だ。


「そろそろ馬房に戻るか、毛受。帰りはワシがキャップん乗るわ」


 久須見調教師は毛受に代わってアグリキャップの背に乗る。

 うっすらと汗をかいたアグリキャップから湯気が立ち昇っているが、アグリキャップの息遣いは平静そのものだ。


 ジャパンカップに出走する他の馬や、今日組まれた他のレースに出走する数少ない栗東からの遠征馬たちも、大方は引き上げていっている。

 美浦トレセンに所属する馬たちは、当日輸送でレースまでに東京競馬場に来るようだ。


 マシロデュレンやゴールデンキューも今日は軽い乗り運動で引き上げていく。

 米国馬の陣営、特にマイビッグバディの陣営は陽気に時折HAHAHAという笑い声を響かせている。



「Hey, isn't Yukio riding that やあ、行雄は今日その馬には乗ってないのかい?horse today?」


 アグリキャップに乗っていた久須美に、1頭の鹿毛の馬に乗った外人の若い男性が近寄り声をかけてくる。

 その馬も調教を終えて国際馬房に戻る途中のようだ。


 久須見は突然英語で話しかけられて、驚く。

 久須見が乗っているアグリキャップは久須美とは対照的に、知らない馬と人間が近寄って来ても平然としている。


 久須見調教師が相手が何を言っているのか解からずポカンとしていると、アグリキャップを曳いている毛受が「今日、刑部さんは調教に来ていないのかって聞いてますよ」と教えてくれる。


「刑部さんだったら今日はレースんなったら乗るで、って言うてくれ」


「Mr. Osabe is scheduled to 刑部さんはレースの時に乗る予定ですよride in today's race.」


「I see. I saw him in the dormそうなんだ。今朝宿舎で見かけたから、itory this morning, 健闘を誓いあおうって思ったんだけどねso I thought I'd swear good luck.

 Well, I'll talk to youまあ宿舎で会ったら again when I see youまた話すことにするよ in the dormitory.

 Thank you.ありがとう


 そう言ってその人馬は久須美たちから離れていく。


「何や、刑部さんの知り合いなんか」


「えーっと、確か米国の……ウィズザバトラーと、乗ってるのが騎手の人だったらC.マクレーン騎手ですね」


「刑部さん、何度も海外に乗りに行っとるからなあ、さすが顔広いわ」


 久須見は改めて刑部行雄が日本の騎手の中でも第一人者なのだと実感する。

 そんな日本の第一人者が、今日のジャパンカップでアグリキャップを勝利に導く方法を今考えてくれていることに、久須美は感謝しかない。


 木曜日の午後、刑部にジャパンカップでの目標を問われた久須美は、その日の夕方に馬主の阿栗に電話をし、どこに目標を定めるのかを相談した。


 久須見の電話を受けた阿栗は当初「おいおい、久須美さん、それ、ホンマのことなんか」と面食らっていた。

 先日久須美と話した時に、確かに刑部騎手のアグリキャップに対する評価は高いと聞かされていた。掲示板圏内には行けるかも、とも。

 阿栗としては地方の馬が掲示板に入るだけでも快挙と思って満足していた。

 それが突然、惨敗する可能性が高くなってでも1着を狙いに行くかどうか、と問われたのだ。


 阿栗は一瞬、守りの心理が働き「刑部さんが確実っちゅうんなら、掲示板圏内でも十分なんと違うかな、笠松の馬なんやし……」と口にした。


「確かに、馬を扱ってて確実なことなんか、普通は何にもありゃしませんが、刑部さんが言うてくれるなら、説得力ありますわな。

 ワシなんかだと、絶対走ると確信した馬が走らず馬主さんに呆れられたこと、何度もありますわ」


「そうやな、アンタに勧められて買うた馬が走らんかったこと、この十年で腐るほどあったわ」


「その節はご迷惑をおかけしました。見た時は絶対確実に走るもんやって思うとったんです。でも、それが馬ってもんでしょう。

 実際のところ、誰かが確実に走る言うても、なんやかんや走らんこともある。

 刑部さんが乗った代表馬、皇帝ヨソリノルドルフでも負けることあった訳ですし」


「……確かにな」


「あれも刑部さん、勝つつもりで走らせとった訳でしょう? でも勝てんかった訳です。最初から着狙いして、その通りに行くっちゅう確実な保障がある訳やないんです」


 久須見と話しているうちに、変な守りの考えは競馬において確実ではない、と言う事に阿栗は気づかされる。

 そもそも、阿栗がそんな守りの考えが強い人間であれば、競馬という不確実なものに手を出していないのである。


「……久須美さん、そうやな。

 競馬なんて不確実なもんなんや、そもそも。

 出るからには1着を目指さんといかんわな。ハナから1着狙わん競馬なんぞ、見とってもつまらんやろう。

 それに、刑部さんがわざわざ久須美さんにそれを言うってことは、刑部さん自身、キャップで1着を取りに行く競馬がしたいって思っとるって事やろ?」


「そうかも知れませんな」


「それやったら、1着取りに行こうや。

 例えドンケツになったとしても、ワシら地方の馬にゃそれ程期待されとらんやろうしな。

 久須美さん、刑部さんにそう伝えてくれや」


 阿栗の意向を受けて、久須美は刑部のエージェントの松林まつばやし昭雄あきおに連絡をした。


「そうですか、わかりました。ジョッキーに伝えておきます。

 それで久須美さん、ジョッキーからですが、明日から当日の朝までの調教の乗り役は毛受さんでお願いします、とのことです」


 久須見からの電話を受けた松林は、落ち着いた声でそう返答した。


「確かに今日追い切りやりましたから、明日からは軽い調教だけなんで、刑部さんにわざわざ乗ってもらわんでも大丈夫ですが」


「調教の時間も乗り方を検討する時間に充てたいそうです。ジョッキーは土日の東京競馬場の他のレースに乗る予定が結構入っていますから、時間が少しでも惜しいようですよ。本来ならウェルカムパーティーも欠席したいと言ってました」


「そこまで本腰入れて下さるとは……有難い以外ワシが言えるこたありません」


「何。ジョッキーも勝負に生きる者として、勝てるチャンスがあるなら全力で掴みに行きたい、ただそれだけです。

 ですから久須美調教師と阿栗さん、陣営が覚悟を決めてくれて嬉しいんですよ。

 私も集めた資料が無駄にならずに済み良かったです。元同僚に頼み込んでジャパンカップに出走する全馬の追い切り映像とタイムなどをジョッキーに頼まれて集めていたんです。

 この3日間で、ジョッキーが乗り方を検討できるようにね。

 久須美さんと阿栗さんが、勇気を持って前に出れる人たちで良かったです。

 当日のレースを楽しみに待つことにしましょう、では」



 こうして刑部行雄は、今朝の調教には出ずに、今日のレースのことを考えてくれている。


 もはや、陣営としては騎手である刑部に全てを託した。

 そして刑部に全てを託せる状態に一先ひとまずアグリキャップを持って来れたことに、久須美は充足感を覚えている。


 終わった後は阿栗の奢りで、またあの瞬くネオン街に繰り出すのだ。


 そして久須美は、今日のレース終了後には笠松に急ぎ戻らないといけないことを思い出して、少し落胆した。


 アグリキャップが背に乗せた久須美の落胆した様子に気づいたのか、脚を止めて首を少し曲げ久須美の様子をうかがう。


「すまんすまん、こっちごとやキャップ。大したことやないで」


 久須見がそう言ってアグリキャップの首元を撫でると、アグリキャップはまた毛受におとなしく曳かれ、今日が最後の滞在となる2週間強暮らした出張馬房へと歩みを進めていく。


 すると出張馬房の方向から青いメンコを着けた葦毛の小柄な馬がコースの方に出ていくのか、アグリキャップとすれ違う。

 青いメンコの馬は、アグリキャップを見ると威嚇するかのように激しくいななき、アグリキャップに向かって来ようとする素振りを見せた。

 手綱を曳いている男がそれを一生懸命に引き留める。


 アグリキャップは、と言えばその馬の様子を見ても平然としていた。


 どうにか青いメンコの馬を落ち着かせた男は、また青いメンコの馬を曳きながら久須見に詫びる。


「すんませんな、最近はタマも馬が大人んなったから落ち着いてきたと思っとったんですが。

 他の馬とかち合わん時間に乗り運動しよ思たんですが、申し訳ないです」


「いえ、キャップは平気ですし、お気遣いありがとうございます」 


 久須見はそう返し、2頭はすれ違う。


「おい、戻るぞキャップ、どうしたんだ」


 手綱を曳く毛受の言葉を無視しアグリキャップは首を曲げ、馬場に向かうその馬の様子をしばし眺めていたが、それもほんの僅かの間で、また大人しく毛受に従い歩み出す。


 今日のレースの最大の敵の1頭が、あの馬、タマナクロスやってわかるんかな。

 それも大したもんやが、あまり気にし過ぎると東海菊花賞みたいんなるかもわからんからな。


 久須美はそんなことを思った。

 

 








「おはようございます、阿栗オーナーにオーナーの奥様。いい天気ですね。絶好の競馬日和です」


「おう裕司くん、おはよう。よう眠れたか?」


 稲穂裕司は朝、府中市内のホテルの朝食会場で阿栗夫妻と挨拶を交わした。

 阿栗が同じホテルの部屋を稲穂裕司たちのために取ってくれていたためだ。


「いやあ、朝早いのが身に染みついていて、今日も4時前には目が覚めてしまいました。オーナーはどうでした?」


「ん、よう寝れたよ。久須美さんもやるこたやったて言うてたし、鞍上の刑部さんに後は任せるだけや言うとったから、もう安心してぐっすり寝れたわ」


「この人、昨日は一日、私の希望に付き合ってくれて歩き回ったりしたから、だいぶ疲れたみたいで、本当にぐっすりでした」


 阿栗の妻が、阿栗の横で悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「まあ、府中に着く前に甲府で武田信玄ゆかりの史跡や大河ドラマ関連の催し、あんだけ回ったらそりゃ疲れるわ。

 お前がまさかそこまで大河ドラマ好きやとは思わんかった」


「だってカッコイイじゃない、中井貴一。

 それに大河ドラマの放送中に舞台になったところに足を伸ばせる機会なんて、なかなか無いですからね」


「まあ、確かに、ワシも見たかったから良かったけど」


「今夜の放送、やっと武田軍が上洛のために動きだして、三方ヶ原で徳川と対決するんでしょ? 凄く楽しみ」


「なら、夜は飲みに付き合わんで、ホテルで大河見とくか? ワシャ裕治くんらと飲むけど」


「ビデオで録画予約してきたから、私も付き合うわよ。

あなたと一緒に旅行するなんて随分と久しぶりなんだから。嫌?」


「別に嫌なこたないで」


 そんな二人のやり取りの様子を見て、稲穂裕司は微笑ましくなる。

 理想的な夫婦の年の重ね方だな、と感じる。


「ところで、布津野くんは今朝は一緒やないの?」


 不意に阿栗が稲穂裕司に訊ねる。


「あ……はい、布津野くんは千葉の香取神宮に参拝に寄った後、友人宅に行くってことで、私とは空港から別行動です。東京競馬場で合流することになってます」


 稲穂裕司と布津野顕元は、昨日北海道から東京に着いた。

 阿栗が今回のジャパンカップに生産者として稲穂裕司を招待する際に、どうしても布津野顕元も同行させて欲しいと頼んで2人分の航空機往復チケットとビジネスホテルを予約していたからだ。


「合流するって、今日はめっちゃ人出多いやろ? どないするん」


「11時にトキノミノル像の前で待ち合わせてます」


「そうか……裕司くん、布津野くんて牧場で何か変わった様子とか無いか?」


「え? 阿栗さん、10月に布津野くん、何か失礼なことでも仕出かしてたんですか」


 稲穂裕司の表情が曇る。

 スマイルワラビーの仔だけでなく、他のサラブレッドやアラブの仔馬も毎年買ってくれる阿栗は稲穂牧場にとっては大得意先である。その機嫌を損ねたりするのは一大事であり、阿栗の様子に稲穂裕治は敏感にならざるを得ない。


「いや、そういう訳ではないんや。何か布津野くんてミステリアスなとこあるやろ? 10月に美山からの帰りにキャップのレース見に立ち寄ってくれた後、祝勝会誘ったんやけど、一緒に飲めなかったもんでな。ほんでちょっと気になっとっただけで」


「オーナーのお誘いを断るようでは困りますよね」


「いや、それは気にしてないから別にええんや。ただ、普段はどんな感じなんかな~って気になっただけやから」


「普段は……そうですね、特に変わったところとかは無いですよ。馬の扱いも上手だし、新しく入った従業員に牧場仕事をしっかり教えてくれていますし……今回、阿栗オーナーのお誘いに僕と布津野くん2人が来れたのも、布津野くんが新人をある程度使えるようにしてくれたからですし。

 プライベートでは……セラさんとの仲も進展はしてないみたいでセラさんが母に愚痴ってるところを時々見かけますが、他に特に何かある訳でもないですね」


「そうか、ならええんや。ワシャどうしても一度布津野くんと飲んでみたい思ってたんでな。そん時直接聞くわ。

 今夜は裕司くんも布津野くんも大丈夫なんやろ?」


「明日の午後イチのフライトを阿栗さんが予約して下さったおかげで、今回は布津野くんと一緒にお付き合いできますから、安心して下さい」


「そうか。今日のキャップの結果がどうであろうと、キャップの走りをつまみに、盛り上がろうや」


「あなた、あまり羽目外さないようにして下さいね」


「わかっとる、お前もおるんやからそんな羽目外さんて。

 とりあえず、朝食食べよか。

 朝食食べて人心地着いたら、裕司くんも一緒に東京競馬場行こうや」


「はい、よろしくお願いします」


 長くなった立ち話をいったん打ち切ると、阿栗達は朝食バイキングの列に並んだ。







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