背中に翼はないけれど

羊ヶ丘鈴音

背中に翼はないけれど

 朝起きたら、翼が生えていました。

 布団で目を覚まし、パジャマから制服に着替え、瞼を擦りながら洗面所を通り過ぎ。

 そしてトイレから出て洗面所に――鏡の前に立った時、初めて気が付きました。

「えっ……?」

 白くて、ふわふわの、天使みたいな。

 もしかしたら『羽』と言った方がいいのかもしれません。

 でも、どうしてか『翼』だと感じてしまったのです。

「うっそぉ……。どういうこと……?」

 独り言なんて普段はほとんど零さない私も、これには思わず呟いてしまいます。

 ふと振り返ってみても、壁に飾ってあったわけじゃありません。

 私が動けば、髪や襟と同じように翼も一緒に動きます。

 それで手を伸ばしてみましたが、触ることはできませんでした。

 鏡の中でも、私の手は翼をすり抜けています。

 見えるのに、そこにはない翼。

 いえ、そもそも人間には翼なんて生えません。

「あれ? じゃあ――」

 もしかして私、死んじゃったの……?

 居ても立っても居られなくなって、私は駆け出しました。



「あら、カナデ。そんなに慌ててどうしたの?」

 杞憂でした。

 リビングに駆け込むやいなや、お母さんが不思議そうな顔で言いました。

 お父さんが見ているテレビには、見慣れないコーナーが映し出されています。

 画面の左上の時刻表示は、いつもより三十分以上も早いものでした。

「今日って何かあったかしら?」

「え? あっ……、ううん。時計、見間違えちゃったみたい」

「なんだ、そういうこと。お味噌汁はできてるけど、朝ご飯どうする?」

「あ、食べる。食べます」

「じゃ、座って待っててね」

 しかし、これで一つ分かりました。

 どうやら私の翼は、私にしか見えていないようです。

 お母さんは勿論、ちらりと振り返ってきたお父さんもいつも通り。

 それと、もう一人。

 いつもの食卓、いつもの席に座ると、隣には先客がいます。

 弟のハルキです。

 小学校から野球部で、中学二年になった今はレギュラーで頑張っているみたい。

 みたい、と曖昧にしか言えないのは、試合を応援させてくれないから。

 もしかしたらレギュラーじゃないのかもしれない、と少し心配してはいますが、あまり勘繰ってもいけません。

「はい、お待ちどおさま」

 お母さんの声で、私の考え事が途切れます。

 いえ、違いました。

 お母さんの声と一緒に漂ってきた匂いで、考え事なんて霧散してしまったのです。

 白いご飯と、わかめの味噌汁、それから目玉焼き。

「こんなに早く焼けたの?」

「そんなわけないでしょ、お母さんの分よ」

「えっ、いいの?」

「元々カナデが起きてくる前に食べちゃうつもりだったから、むしろ冷める前に食べてもらえたら嬉しいかな」

「あ、うん。ありがと」

 世の母とは、みんなこうなのでしょうか?

 家族のことが一番で、自分は二の次。

 すごく頼もしく思える反面、ちょっと申し訳なくて、いつか自分もそうなるのかと思うと怖くもあります。

 でも、やっぱり今は目の前のご飯。

 言われた通り、冷める前に食べないと勿体ない。

「ハルキ、醤油取って」

 ……っ!

 癖で言ってしまってから、後悔しました。

 だって、ハルキは――

「ん」

「えっ?」

「なんだよ、醤油だろ?」

「へ……? あ、うん、醤油醤油。ありがと」

 驚きのあまり、受け取った醤油をご飯にかけてしまいそうになりました。

 ハルキは去年から中学生です。

 だから、なんでしょうか。

 小学生の時は行かなければ拗ねていた試合の応援に、来るなと言うようになったのです。

 夏が陰り、秋に差し掛かった頃でした。

 家では刺々した態度を取るようになって、休みの日にはほとんど家にいません。

 その代わり学校の友達と遊びに出掛けることが増えたので、やっぱり反抗期というやつでしょうか。

 もしかしたら恋だってしているかもしれません。

 そう思うと誇らしいような、なんだか寂しいような。

 恋をするのはいいことですが、誰かと付き合うのはまだ早いと思います。三つ年上の私だって、まだ恋人ができたことはないのに。

 ……そんなことより、今はハルキのことです。

「ね、ハルキ」

「なんだよ」

「学校で何かいいことあった?」

「なんだよ、急に。ねえよ。別にいつもと変わんねえし」

 つっけんどんな態度は相変わらずですが、ちゃんと会話に応じてくれるだけで驚きです。

 いつもなら「んだよ」「うっせえよ」で終わりですから。

「えー。でもなんかさ、今日は優しくない?」

「はぁ?」

「……ごめん、勘違いだった」

 若干引いた眼差しでした。

 私も少し反省します。

 ほんのちょっと昔みたいに話せた気がして、舞い上がっていました。

 これでウザがられてしまったら、元も子もありません。

 頑張って抑えて、抑えて、抑えて……ここ最近のいつも通りで接しましょう。



 しかし、やっぱり嬉しいものは嬉しいのです。

 テレビの占いを見ながら歯を磨いていたハルキが洗面所に行って戻ってきました。

 そしていつもリビングに置きっぱなしの、ノートの一冊も入っていない鞄を手に再びリビングを出ようとします。

 ハルキが家を出るのは決まって朝の占いが終わったタイミング。

 そうすると朝練にピッタリ間に合うのだと、去年の夏前に教えてくれました。

 ただ、あれももう一年前のこと。

 今では「行ってきます」の一言もありません。

 だから、思わず引き止めてしまったのでしょう。

「あっ、ハルキ!」

「なに?」

 そこで立ち止まってくれること自体、実は驚きなのですが。

「何か言い忘れてませんか?」

「は?」

「何か、言い忘れて、ませんか?」

 わざとらしく言うと、ハルキはため息をつきました。

「行ってきます」

「ん、行ってらっしゃい!」

 呆れ半分、諦め半分の声でしたが、久しぶりの朝の挨拶は気持ちがいいものです。

 やっぱり何か良いことがあったのかもしれません。

「もしかしたら、翼のお陰かも? ……なんて」

 リビングで一人、誰にも聞かれないまま呟きます。

 翼の正体は分からないままですが、なんとも気分の良い朝でした。

 今日一日、こんな気分が続けばいいのに――、



 ――そう思っていましたが。

 いつもより随分と余裕を持って玄関を出て、いきなり気が滅入りました。

 ミーン、ミンミンミン、ミーーーン…………。

 こんな朝早くから頑張らなくていいのに、夏のセミたちは野球部員に負けじと早起きです。

 中学と違って、高校までは長い道のり。

 電車通学ならよかったのですが、なまじ近い学校を選んだせいで自転車通学です。

 というか、そもそも高校方面に伸びる線路はありません。

 必然的に自転車を漕ぐしか方法はない……と、分かってはいるものの。

 こんな朝は、益体もなく考えてしまいます。

「はぁ。せめて空を飛べたらなぁ」

 折角こんな翼が生えても、空も飛べないんじゃ意味がありません。

 所詮、我々人間風情は地道に地面を蹴ることしか……。

 その時です。

 ふわり風が吹いた、と思った次の瞬間には、スカートが浮き上がっていました。

「えっ、ちょっ、なんでっ? それはまずっ――」

 わけも分からず咄嗟にスカートを押さえ、誰にも見られなかったかと周囲に目を向け。

 そして、息を呑みました。

「うそ……」

 涼しげな風に乗って、街を一望する私。

 そんなこと、あるんでしょうか?

 私は、空を飛んでいました。



 絶対おかしい。

 絶対何かが絶対おかしい。

 本校舎のすぐ近く、裏門側にある自転車置き場の裏手に人知れず着地して、正門側の昇降口に向かう道中。

 私の脳内はぐるぐる、へこへこと変な音を立てて迷走していました。

 だって、わけが分かりません。

 人間が空を飛ぶ?

 なんで?

 翼も持たない人間が?

「あ、いや、違う、あった! 翼!」

 思わず叫んでしまい、きょろきょろと辺りを見回します。

 大丈夫でした、誰もいません。

 もしかしたら空を飛んでいる間に誰かに見られていたかもしれませんが、そのことは深く考えないでおきましょう。

 ちゃんと高度を上げましたし、見上げても点にしか見えなかったはず。

 まさか早朝から未確認飛行物体を目当てに高倍率ズームしたカメラを空に向けていた人なんかもいないはずです。

 大丈夫、大丈夫……。

 言い聞かせながら教室に行って、そこでようやく、失敗を悟りました。

「およ? カナちんじゃん、珍しー!」

「あ、ほんとだ、カナデちゃんだ。おはよー」

 始業のずっと前に登校してくるのは、何も朝練がある面々だけではありません。

 日直だから、委員会の仕事があるから、ただ友達と喋りたいから。

 どんな理由であれ、校門が開いた後なら教室に誰もいないことの方が稀です。

「えっと、おはよう?」

「なんで疑問形?」

「てか早くない?」

「ええっと……」

「まさか告白っ? 放課後じゃなくて朝指定っ?」

「あ、いえ、違います。ただ時計を読み間違えただけです」

 自転車じゃなくて翼で来たから早かったんだ、なんて言えるはずもなく。

 変な誤解をされる前に、ほんのちょっとだけ恥をかいて誤魔化します。

「おー、遂にカナちんも……」

「遂に? 何が?」

 何かありましたっけ。

「いや、ドジっ子属性が男子に評判だって気付いたのかなって」

「え? マジ? カナデちゃんもモテたいお年頃か~!」

「違うから!」

 断じて違いますから。

 いえ、恋人は少し欲しいですけど……でも、やっぱりまだ好きな人もいませんし。

 しかし、そこは雰囲気を何より重要視する高校生です。

 しつこく引きずることもなく、さっさと話を流してくれました。

「ってまぁ、カナちんは普通にモテてんだけどねー」

「そうそ。去年だってアレでしょ? 卒業生にコクられたとか」

 え、なんで知ってるんですか?

 別に親しかったわけでもなく、ただ同じ委員会で一年過ごしただけの相手です。

 普段の学校生活から仲を勘繰られることもなかったはずですが……。

「あーあー、カーナちーん。そんな不思議そうな顔しないでよー」

「男子はねー、フラれたこと案外ぺろっと喋っちゃう生き物なんだよー?」

「そうなの?」

「そうだよー? だってほら、なんとか笑い話にしなくちゃさ、傷付くじゃん!」

「人に知られた方が傷付きそうだけど……」

「そうじゃないんだよなー」

「まぁでも、いいんじゃないですかい? そういう男心に疎いところも人気の秘訣なんですよ」

「「はぁ……」」

 二人揃ってため息をつくのは、なんだか失礼じゃないでしょうか。

「やめてよ、そういうの」

 確かに私はお断りしました。

 一年間同じ委員会だったといっても、ほとんど話すこともなかった相手です。

 まだしも同級生なら分かりますが、卒業間近という時期に交際を始めても、お互い変な感じになってしまうだけでしょう。

 そもそも、恋人とは好きな人同士でなるものです。

 好きでもないのに交際するのは、なんだか違う気がします。

 そんな私の気持ちは、ちゃんと伝わってくれました。

「それじゃさ、カナちん。今日の放課後って暇?」

 随分と唐突な話題転換でしたが、これくらいで驚いていては高校生活なんて送れません。

「暇だけど?」

「ならどっか行かない?」

「そーそー、さっきまで甘いもの食べたいよねって話してたんよ」

「甘いもの? スイーツとか?」

「おうよ!」

「そろそろ期末じゃん? やっぱパーッと楽しみたいよね」

 スイーツでパーッと……。

 それはつまり。

「スイーツバイキングとか?」

 ハルキが……弟がいたため、家族で出掛けてもスイーツを食べに行くことはありませんでした。精々がチェーン展開のドーナツかアイス、大型デパート内のスイーツ店です。

 だからスイーツバイキングなんて、本当に噂で聞いた程度。

「おっ、それいいじゃん!」

「はいはいっ! あたし良いとこ知ってます!」

「それはどこですかっ!」

「ちょっと前まで改装工事してたホテルの一階が宿泊客じゃなくても入れる超本格レストランになってるらしいです!」

 まるでカンペでも読むかのような台詞。

 あまりに違和感丸出しで、本気なのか冗談なのか分かりません。

「おっ、それいいじゃん!」

 それに応じる声も今さっき聞いた台詞をループ再生した感じ。

「ねぇねぇカナちんは?」

「えっ?」

「どうどう? 超本格レストランのスイーツバイキング!」

「どうって……それ高校生には無理でしょ」

 いくら宿泊客以外が入れるといっても、料金はちゃんと払わなければいけません。

「えー、行こうよー」

「カーナーデーちゃーん、行―こーおーよー」

 それでようやく、確信しました。

 まったく、最初からスイーツなんて冗談だったんです。

「分かった分かった、二人の奢りなら行ってもいいよ」

 そんなん無理に決まってんじゃん。

 そーだそーだ。

 ……なんて具合に好き勝手言い合って、ちゃんちゃん。めでたしめでたし。

「よっしゃ、いいよ! 絶対だからね、カナちん!」

 ……え?

「ふふふ、カナデちゃんになら何万でも何十万でも奢っちゃるよ!」

 ……冗談、ですよね?

「あの、二人とも……?」

「女に二言はない!」

「スイーツバイキング行くぞー!」

「「おーっ!」」

 ……?

 あれ、何が、どうなって……?

 それとも、もしかして…………?



 逃げるようにトイレに駆け込んで、誰もいないことを確かめてから鏡に向かいます。

 鏡の中に立つ私の背中には、今なお翼が生えていました。

 薄暗いせいか少しくすんで見えましたが、その形や私の動きに合わせて揺れる姿は、朝の洗面所で見た翼と何一つ変わりません。

 まさか――。

 その思いは、実のところチラチラとよぎっていました。

 急に素直になったハルキ。

 涼しげな空から見下ろした街並み。

 唐突に放課後の話を始めた二人。

 もし私の想像が当たっているなら……。

 不安と、恐怖と、そんなものでは止められない興奮が胸中に渦巻いています。

 でも、まだ何かの間違いかもしれません。

 だって人が空を飛ぶなんておかしいに決まっています。

 だから何かの間違いなんです。

 そう、だから。



 試しました。

「ねぇ、日直の仕事、手伝わせてくれない?」

 日直だったクラスメイトは、不思議な顔一つせず手伝わせてくれました。

 でも自分の仕事が減るなら誰でも喜び、疑問なんて二の次にするかもしれません。

 だから試しました。

「ごめん、委員会の仕事、代わってくれない?」

 委員会で何回か話した程度だった隣のクラスの男子は、二つ返事で代わってくれました。

 けど、もしかしたらあの卒業生みたいに、私に想いを寄せてくれていたのかもしれません。

 まだ試す必要がありました。

「すみません、外で風に当たってきてもいいですか?」

 授業中、いきなり手を挙げてそんなことを言うのは恥ずかしかったです。

 けれどクラスメイトはノートに目を向けたままで、先生もなんでもないことのように頷いて返しました。

 もっと試さなければいけません。

「ちょっと暑いな」

 雲が出てきて、太陽を隠しました。

「もうちょっと涼しく!」

 急に雲が黒くなって、ほんの一分か二分ほど雨を降らせました。

「お腹が減った!」

 ちょうど通り掛かった先生が焼きそばパンをくれました。

 焼きそばパンを頬張る頃には顔を忘れてしまっていたくらい、見覚えのない先生でした。

「あぁ、本当なんだ」

 衝撃と感動で、焼きそばパンの味も分かりません。

 私の背中に生えた翼は、願いを叶えてくれる魔法の翼だったのです。

「なんでも? ねぇ、なんでも叶えてくれるの?」

 訊ねたところで、翼は何も答えません。

 だったら、代わりの言葉を紡げばいいだけです。

「空を飛びたい!」

「でもスカートは動かさないで! 中も見えちゃダメ!」

「もっと速く飛びたい!」

「もっと高く飛びたい!」

 宇宙にだって行けるかもしれない!

 思いましたが、それはやめておきました。

 息ができないから、ではありません。

 どんな願いでも叶うなら、酸素がなくても息はできます。

 ただ、気付けば随分と長いこと空を飛んでいたようでした。

 もう放課後です。

「学校に帰りたい!」

 自分の居場所も分からなかったのに、翼に願えばひとっ飛びです。

「ただいま!」

「お、カナちんおかー」

「おかおかー」

「それじゃあ行こ! スイーツバイキング!」



 改装工事をしていたホテルは駅前とのこと。

 ですが高校から駅までは距離があり、普通に歩けば十五分はかかってしまいます。

「三人で空を飛びたい!」

 二人は驚き、喜んでくれました。

 徒歩十五分でも、飛翔一分。勿論、空に渋滞なんてありません。

「よっしゃー、食うぞー」

「食うぞー!」

「食べるよー!」

 おー! と三人で声を揃え、ホテルの扉を開けます。

 途端、目の前に広がったのは豪華絢爛な高級レストラン。

 これが本当にホテルのロビーなんでしょうか。

 普段なら気後れしてしまうところですが、今は値札さえ気にしなくていいんです。

 なんなら二人に奢ってもらう必要もありません。

「いらっしゃいませ」

 漫画で見る執事のような燕尾服を着た、ハリウッド俳優みたいな人が出迎えてくれました。

 もしかしたら、これも翼の効果かもしれません。

「スイーツバイキング、高校生三人です!」

「かしこまりました」

 そして私たちを待っていたのはスイーツ、スイーツ、スイーツ……。

 これでもかというほどの、スイーツたちの山!

「ほんとにこれ全部食べていいのっ?」

「全部なんて食べらんないでしょ」

「そういう意味じゃなくて!」

「ううん、食べられるかもしれないよ?」

 翼に願えば、空だって飛べるんですから。

 どんなに食べてもお腹が一杯にならなくて、それどころか太ることもありません。

「ね、二人とも。やっぱり奢ってもらうのはナシね、取り消し!」

 その代わり。

「ここは私の奢り! なんならスイーツ以外も食べちゃおう!」

 ローストビーフにマルゲリータ、お寿司にすき焼きにカレーまで。

 私たちのテーブルはすぐに一杯になって、隣のテーブルをくっつけてもらうほどでした。

 でも、ホテルの人たちはニコニコと笑って頼んだ料理を運んできます。

 お支払いは大丈夫ですか? ――なんて無粋なことも聞きません。

 もしかしたら、私の翼が見えてるのかも?

 そうだったら大変ですが、騒ぎにならないところを見るに大丈夫なのでしょう。

 そんなことより、今はスイーツバイキングです。

 お肉もお魚もいいけれど、やっぱりスイーツを食べなくちゃ始まりません。

 あれを食べたい、それも気になる、どれもこれも欲しい……だったら、願えばいいんです。

 私たちは食べて、食べて、食べて――。

 そして程よい満腹感とともに、ようやくホテルを後にしました。

 支払いは「お願いね」の一言で済んでしまいます。

 ピシッと揃ったお辞儀に見送られ、私たちは街を歩きました。

 どこに行ってもいいんです、どこにだって行けるんです。

 さて、どこに行きましょう?

 少し考え、思い出しました。

「あっ、ごめん。私、学校から飛んできちゃった。自転車取りに行かなくちゃ」

 そうそう、忘れていました。

 私は自転車通学です。

 このまま置いていったら明日も早起きしなければいけません。

 二人と別れ、高校へ向かうことしばし。

 また思い出しました。

「そうじゃん、行きも空飛んだんじゃん!」

 それに空を飛べるんですから、自転車がなくても困りません。

 駅前から玄関までひとっ飛び。

 流石にドアくらいは自力で開けて、半日ぶりの我が家に帰還。

「ただいま~!」

 楽しさのあまり柄にもない大声で言うと、目の前でビクッと肩が跳ねました。

「えっ、おかえり。……遅かったんだな」

 ハルキでした。

 しかも、おかえりなんて言ってもらったのは何ヶ月ぶりでしょう。

「えへへ、ただーいま」

「どうしたよ」

「ね、ね。ハルキは部活終わり?」

「そうだけど?」

「それならさ、一緒にお風呂入らない?」

 野球部員は汗だくです。

 そうでなくとも、男子中学生なんて走り回って汗をかくのに。

「いや、急に何言ってんの?」

「だってさ、もう何年も一緒に入ってないじゃん?」

「そりゃそうだけど」

「あ、勿論あれだよ? 裸じゃないよ? 水着でだよ?」

 でもハルキにお願いされたら……いえ、流石にそれはダメですね。

 いくら弟でも、ハルキはもう中学二年生。

 そこはお姉ちゃんとして、しっかりしなければいけません。

「俺、水着とか持ってねえし」

「いいよいいよ、好きなの買ってあげるよ」

 というか、わざわざ店まで行かなくても、翼にお願いして出してもらえばいいんです。

「私ももう高二なんだし、ビキニとか挑戦した方がいいのかな?」

 胸も、ちょっとは大きくなりましたし。

 ハルキはそっぽを向いたまま、何も答えようとしません。

「ねぇ、ハルキ?」

「な……なんだよ」

「私にもビキニ、似合うと思う?」

 教えて、とダメ押しするべきでしょうか。

 少し悩みましたが、そっぽを向いたままのハルキがぽつり零しました。

「…………風呂、入んなら、ビキニじゃなきゃ困るだろ」

 それは、つまり。

「ほ、ほら! 入るならさっさと入るぞ! 母ちゃん帰ってくんだから!」

 耳まで真っ赤にしてやけっぱちに言うハルキは何年も前に戻ったみたいに可愛くて、これなら裸でも……と思ってしまいますが、いえいえ、ダメなものはダメです。

 すぐさま私とハルキ、二人分の水着を願って、ちゃんと順番に脱衣所で着替えました。

「ねぇ、入っていい?」

「いいから早くしろよ!」

 ぶっきらぼうな口調は、小学生の高学年になった頃からでしょうか。

 いつも私の後をくっついて回っていた低学年の頃は、それはそれは可愛かったものですが、男の子は成長するものです。

 それに、いつまでも小さいままではいられません。

 年相応に大きくなって、羞恥心も芽生えて、いつかは――。

 まぁ、今はその時ではありません。

 翼が与えてくれたチャンスを逃さず、せめて久しぶりに背中くらいは流してあげ

「えっ……?」

 夏の夕方。

 まだまだ暑いはずなのに、私の全身を寒気が突き抜けました。

「……姉ちゃん?」

「え、あ、いや、ううん? なんでもないよ、なんでもない」

 戸惑う声で私を呼ぶハルキに心配させまいと……あれ?

 ハルキって、いつまで私のこと、姉ちゃんって?

 いや、そんなことより、今は。

 再び鏡を見て、背け、目を擦り、また見ても――やはり。

 そこに映る私の背中には、翼が生えていた。

 黒く黒く、闇のように真っ黒な翼が。

「姉ちゃん?」

 違う、違う、何かが違う。

「姉ちゃん!」

 私を呼ぶハルキの声は甲高く、鏡越しに見た彼の背丈は。

「嘘、嘘、嘘、嘘――ッ」

 こんなのは何かの間違いだ。

 昔のハルキは、確かに可愛かったけど。

 でも、違う。

 そんなことは願ってない。

 ハルキはちゃんと成長して、いつか、いつか――。

 絶対に違う。

 間違っている。

 だって、だって、こんな夢みたいな……あぁ。

 これ、夢だ。



   ×××



 布団で目を覚まし、パジャマから制服に着替え、瞼を擦りながら洗面所を通り過ぎ。

 そしてトイレから出て洗面所に――鏡の前に立った時、私は確信した。

「やっぱり、夢だったんだ」

 私の背中に、翼なんて生えちゃいなかった。

 急速に遠のいていく夢の景色が、不安と恐怖と興奮を連れていく。

 変な夢だった。

 空を飛んだり、ご馳走を食べたり。

 でも、もう思い出せない。

 夢とは、そういうものだ。

 手を洗って、リビングに向かう。

 目覚ましを待たずに起きたから、そこにはまだお母さんとお父さん、それとハルキがいる。

「おはよ」

「あら、おはよう。早いのね」

「目が覚めちゃって」

「おはよう」

 ワンテンポ遅れて挨拶を返してきたのは、テレビを見たままのお父さん。

 テーブルで目玉焼きをつついているハルキは顔を上げもしない。

「そうだ。お味噌汁できてるけど、朝ご飯どうする?」

「あ、うん、食べようかな」

「じゃ、座って待っててね」

 ハルキの隣、昔からの定位置に座って、待つことしばし。

 すぐにお母さんが戻ってきた。

「はい、お待ちどおさま」

 朝食は決まって白いご飯と、わかめの味噌汁、それから目玉焼き。

「こんなに早く焼けたの?」

「そんなわけないでしょ、お母さんの分よ。冷める前に食べちゃって」

「ん、ありがと。いただきます」

 寝起きの喉を味噌汁で潤し、目玉焼きに箸を伸ばす。

 と、忘れていた。

 醤油、醤油は……っと、ハルキのすぐ手前にあった。

「ハルキ、醤油取って」

 真横に座る弟に言うが、反応はない。

 まさかイヤホンでもしているのかと横を見るも、綺麗な耳の穴まで見通せる。昔はいつも私に耳かきを頼んでいたのに、いつからか自分でやるようになってしまった。

 まぁ、中学生になってまで耳かき頼まれても困るけど。

「ハルキ、醤油」

「……」

「ハールーキー?」

「……んだよ」

「醤油取って」

「なんで俺が。自分で取れよ」

「あんたの近くにあんじゃん」

「でも手ぇ届くだろ」

「いきなり前に出していいわけ?」

「……チッ」

 舌打ちとともに、醤油を掴んで私の前に置くハルキ。

 私は手を伸ばしていたんだけど、意地でも無視したいらしい。

「ね、ハルキ」

「今度はなんだよ」

「だから――」

 だから?

 あれ? 私は今、何を言おうとしたんだろう?

「なんだよ、早く言えよ」

 怪訝そうにこちらを見たハルキの目と、動けなくなっていた私の目とが合う。

 ちゃんとハルキの目を見たのは、いつ以来だったか。

 背が一気に伸び、追い越されるのも時間の問題。甲高かった声も、気付けば低くなっていた。

 でも、その目だけは変わらない。

 中学生のくせに眉を気にするようになった以外、と但し書きが付くが。

 あと、最近ちょっと反抗的な気がする。私のことをなんだと思ってるんだ。姉だぞ、姉。

「だから、なんなんだよ」

「ね、ハルキ」

「あ?」

「私ってさ、何か変わった?」

「はぁ?」

 戸惑っていた声音が不審げに歪む。

「ええっと、ハルキから見てさ、何か変わったように見える?」

 とうとう眼差しまで揺れていた。

「ど、どうしたんだよ、いきなり」

「だーかーらー。何か変わりましたかって聞いてるんですー」

 頬が少し赤い。

 そういうところはまだ子供で、だから安心できる。

 ここまで露骨じゃなかったものの、私にも反抗期はあった。

 中学でもレギュラーになったって言うくせに試合の応援は来るなって言うし、もしかしたら学校で何かあったんじゃないかと思っていたけど、そう心配することでもなかったらしい。

「えと、その……。髪、切った?」

「切ってないけど」

「あ、ん、そっか。そうだよな」

 しかしまぁ、ハルキにも遂に『とりあえず女が何か言ってきたら髪に言及する』なんて入れ知恵がされたのか。

 お父さんはそういうところ鈍感というか、威厳を保とうとするあまり父が息子に教えるべきことを忘れている節があるから、やっぱり学校で教わるのだろう。

「で?」

「え?」

 考え事をしていたせいか、急に何を言われたのか理解できなかった。

「だから、なんだったんだよ、正解は」

「正解って?」

「は? 姉貴がなんか変えたんだろ?」

 私が?

 何を?

 ……。

 …………あっ。

「ええとですね……」

「お、おう」

 ハルキは気持ち背筋を伸ばし、ぎこちない声で応じる。

 親もいる朝のリビングで深刻な相談などするはずもないだろうに。

「特に何もありませんでした」

「……は?」

「いやぁ、何か言おうとしたんだけど、忘れちゃったんだよね」

「おい」

「ごめん!」

「おい待て、こっちは朝練で時間ねえんだぞ」

 あ、これ本気で怒ってる声だ。

「ごめんねっ」

 とりあえず全力で媚びてみるけど――、

「可愛く言っても無駄だぞ姉貴!」

 無駄だった。

 まぁ、当然といえばとうぜ……ん?

「え、今の可愛かった?」

「……や、別に?」

「あ、可愛かったんだ。ハルキって今みたいのが

「んなわけねえだろ! 誰が姉ちゃんみたいな――」

 姉ちゃん。

 懐かしい呼び方だ。

 ていうか、そういう意味じゃなかったんだけど。

「ほらほら、二人とも!」

 今度は何を言ってやろうかと思っていたら、横槍が入った。

 それも我が家で最強の。

「カナデ、あんたは時間があるからいいけど、ハルキは朝練なのよ? それにハルキも。カナデのちょっかいに一々ムキになってるんじゃありません!」

 ちょっかいって。

 思春期で減りがちになった姉弟のスキンシップじゃんか。

 少しくらい抗議しようかとも思ったけど、そこへ援護射撃が加わった。

「占い、もう終わるぞ」

「え、マジでっ? やっべ!」

 お父さんの忠告を受け、ハルキが味噌汁を残したままバタバタと駆け回り始める。

 ほんの一分足らずで着替えて戻ってきたその頭は、寝癖が跳ねたままだった。

 まぁ、いいか。

 と、すぐに出ていくものと思っていたハルキだが、何故か慌てた様子でリビングを行ったり来たりしている。

 何してるんだ……って、そういうことか。

 いつも帰ってくるなり放り投げるせいで、鞄が変なところに転がってしまうのだ。

 今日に限って、それが見つからないと。

「だから片付けろって言ってるのに……」

 とはいえ、今日こんなに慌てることになった原因は私だ。

 ため息を零し、足元に転がっていて邪魔だったそれを拾い上げる。

「ハルキ」

「なんだよ、もう時間が――」

「鞄。ほらっ!」

 ノートの一冊も入っていない鞄は軽く、私の細腕でも簡単に投げることができた。

 そして野球部のハルキは、いきなりの投球ならぬ投鞄にも平然と応じる。

「ありがと!」

「ん」

 私が原因なんだし、お礼を言われても困るんだけど。

 そういうところが抜けているというか、憎めないというか。

 慌てて玄関に向かう背中を眺めていると、どうにも毒気を抜かれてしまう。

「行ってらっしゃい」

 居心地の悪さを誤魔化すべく、自己満足に投げた声。

「行ってきまーす!」

 そこにまで大声で返されてしまい、なんだか自分の方が馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 リビングに目を戻せば、お父さんが私を見ている。

 不思議そうな顔。

 私も似たような顔をしているのだろう。

 いつもテレビしか見ていないくせに、こういう時は見てるんだから。

「久しぶりだな」

「何が?」

「あぁいや……、カナデがハルキに『行ってらっしゃい』なんて」

 あれ、そうだったっけ?

 そんなこと全然、覚えていない。

 でも、そうか。

 冷静になって考えてみると、ハルキが中学に上がって朝練に行くようになったから、朝のリビングで顔を合わせることもなくなっていた。

 それに、私たちは三歳差。

 ハルキが中学生になると同時に私も高校生になって、そんな細かいところまで意識する余裕がなくなっていたのかもしれない。

「別にいいでしょ、挨拶くらい」

 言わずに怒られるならまだしも、言って文句を付けられては困る。

「カナデ、やっぱり何か変わったんじゃない?」

 お母さんが何か言っているけど、よく分からない。

 私は私だ。

 何をどうすれば変わるっていうんだろう。

 けれども、まぁ、なんていうか。

 こういう騒がしい朝も、悪くはない。

「じゃ、変わったついでにさっさと高校行くかなぁ」

「もう? 早すぎない?」

「教室行けば誰かいるし、家にいるよりは暇じゃないでしょ」

 ついでに、普段は寄れないコンビニにも寄っていこう。

 なんだか今朝は、無性に甘いものが食べたい気分だった。

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背中に翼はないけれど 羊ヶ丘鈴音 @hitsuji_oka

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