サビ猫サビーヌの愛情

元之介

第1話 悲しみは突然に

 警察から連絡が来たのは昼休みが終わって午後の仕事を始めた頃だった。

 信太郎は何か現実味のないまま警察署に出向く。

須合すごう祥子さんのご主人ですか?」

 受付で待つと若い制服姿の警察官が出て来た。

「は、はい。妻が、ビルから落ちたって・・・そんな、本当なんですか?」

 信太郎はまだ現実のこととは思えずにいる。

「こちらへ・・・」

 その警察官の後に着いて行くと、部屋の前で上役と思われる年嵩としかさの警察官が待っていた。

 信太郎はその警察官に促されて、部屋に入る。

 部屋では線香が焚かれており、寝台には白い布に包まれた何かがあった。

「ご確認をお願いします」

 警察官は布を少し捲って一歩下がる。信太郎がそこを覗き込んだ。

 祥子だった。祥子は頭を包帯でグルグル巻きにされ、頬や額にも結構大きな傷がある。目は固く閉じられていた。だがそれでも祥子だった。

 今朝、元気に仕事に出たはずの妻がここにいた。変わり果てた姿で。

「いかがですか? 奥様にお間違えないですか?」

 警察官が重ねて尋ねた。

「そんな・・・祥子・・・」

 信太郎は急に身体の力が抜けて膝からくずおれた。それを咄嗟とっさに警察官が支えた。

 それから後のことははっきり覚えていない。気が付いた時には自宅のマンションに居た。

 信太郎の思考は停止していた。

「ニャーオ」

 ところが猫の鳴き声にふと我に返る。チビが足下に来ていた。

 チビは黒、茶が均等にびっしり混じった毛色の猫だ。2色がここまで混じってな色合いになっている。

 これをさび色と言う。少々独特な色合いで希少性は高いのかもしれない。

 また遺伝的には三毛猫の一種なのでオスはめったに生まれない。チビもメス猫だ。

「・・・」

 信太郎は無言で猫の茶碗を取り上げる。いつものように戸棚からキャットフードを取り出した。計量カップですり切りいっぱいを計る。

 チビはニャーニャー鳴きながら信太郎の足にまとわり付いて来る。チビの足を踏まないように気を付けながら部屋の反対側のキャットタワーの下に茶碗を置いた。

 すぐさまチビは茶碗の中に首を突っ込んで食べ始めた。信太郎はその隣の水の入った茶碗を取り上げる。

 キッチンへ戻って新しい水に入れ換えキャットフードの茶碗の隣に置く。

 パリ。パリ。パリ。

チビのドライフードをかみ砕く音が部屋に響いていた。

 信太郎は猫砂の入ったトイレを調べる。チビの排泄物の始末をして、砂を足した。

 一連の動作を終えて、信太郎は再び祥子がいないことに思い至った。

 まだ帰っていないのか? チビがこんなに腹を空かしていたのに。遅いんじゃないか? そんなことを考えていた。混乱していたのだ。陽はまだ高い。

 そして急に現実が信太郎に襲い掛かる。祥子が死んだ。ビルから落ちて死んだ・・・もう帰って来ない・・・そんなこと・・・。

 信太郎は悲しみに打ちのめされた。今日初めて泣いた。警察署では涙さえ出なかったのに今はおいおい、声に出して泣き続けた。

 信太郎はリビングの床に座り込むと膝を抱えて頭を下げた。眠ったわけではない。再び思考が停止してしまったのだ。

 ようやく腹が満たされたチビは、今度は水をちゃぷちゃぷと飲んで、毛繕いを始めた。しかし長くは続かず、最後に顔を2度拭うとリビングを出ていった。

 信太郎は眠るでもなく起きるでもなく、そのまま床に座り続ける。そうして夜になり、朝が来るまでその場を動かなかった。


『おい。母上はどうした?』

 最初信太郎はそれが何だか分からなかった。それで一瞬顔を上げかけたが、再び膝に顔を埋めた。祥子の姿ばかりが頭に浮かんで来る。

『おい。母上はどうしたんだ? 夕べは帰って来なかった。おまえは何かを知っているんだろ?』

 今度ははっとして顔を上げる信太郎。辺りを見回すが、もちろん誰もいない。いるはずがない。信太郎はまた顔を膝に埋めようと首を戻した時、目の前のと目が合った。

 目の前にチビが香箱座こうばこずわりでこちらを見ていた。

 まさか、チビが・・・? 信太郎はそう考えて心の中でそれを否定する。すると猫が、

『あたしだよ。母上はどうしたのだ!』

今度は大音声だった。

 それで信太郎は昨日の夜から初めて体勢を崩した。

「まさか・・・。まさか、おまえがしゃべってるわけじゃないよ、な・・・」

 信太郎がチビの顔を見ながら、声に出して言った。

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