思い出の夕焼けは遥かに遠い(レジーナ視点)

「マストの上でみた夕陽を思い出すわ……リベルタに帰りたい」


 不可能だと分かっている。

 アレックスは大公として再び王位継承権を得た。

 ケインも公爵に叙爵された。

 彼らは彼らの責務を放り出してあの自由で混沌とした地に戻る事をよしとしないだろう。

 時は一方にしか進まない。

 一人リベルタに戻ったところで、大切な人達はこの寒く薄暗い国にいるのだから意味はない。

 無邪気な信頼感をもって共に、あの鮮やかに水平線に沈む夕陽を見ることはもう出来ない。

 嗚咽を漏らすレジーナに飄々とした調子のジョヴァンニが切り出した。


「俺、去年、学生会の雑務を全部一人でやっていたんです。なにもかもうんざりしてた時に、凱旋門ここに登れると知って、それ以来機会を作っては登ってるんです。景色が最高なだけじゃなくて、人もほとんどいない。大声で学生会のクソ野郎共の悪口を言っても誰も聞いてない。だからここでめっちゃ悪口を言ってました。嫌なことや辛いことをここで全部吐き出していったらどうですか?」


 口に出すだけで自分の気持ちがまとまりますし、とハンカチを渡された。

 綺麗に洗ってはあるがアイロンはかけられていない木綿のそれは、柔らかくレジーナの涙をぬぐってくれる。


「リベルタに行く途中の船で、私とケインとママは海賊に襲われて、ケインと私は二人で逃げのびてアレックスに助けられた。目を覚ました時にはじめて見たアレックスは父……陛下に似ていたの」


 ジョヴァンニの空気感に背中を押され、レジーナはずっと心にわだかまっていた思いを声に出した。

 そうしたら、ずっと押しつぶして押しつぶして来たものが限界を超えて溢れ出した。


「その時アレックスにパパって呼んでいいか聞いたら断られた。それは実の父親に使うものだと。アレックスも本当の娘以外にそう呼ばれたくなかったんだと思う。その後、ママは海賊の元から助け出されて少しの間だけみんなで一緒に暮らしていたんだけど、ママは死んじゃった……アレックスがママを殺したの」


 ジョヴァンニの反応は見ず、ただ沈みゆく景色を前にレジーナは続けた。

 一度堰を切った気持ちの濁流は言葉として流れて止まらない。


「ママは私のことなんてどうでも良かった。私は愛されてなかった。ママにとって私は単なる自分のための駒で自分を彩る飾りだったって理解してた。だから私はアレックスの方が大事、ママなんてどうでもいいから私のことは気にしないでって正直に言うべきだった。彼は他の道を提案してくれていたから、言う通りにして、彼から離れるべきだった。でも私はずるい子だからアレックスの罪悪感につけこんで、娘さんと顔が似ているのを利用して、パパになってって、娘にしてってねだって、受け入れさせた」


 ハンカチが絞れそうなほど涙をこぼして、しゃくりあげながらレジーナは続けた。


「パパは優しいから、私の気持ちをくんで父親らしく接してくれていた。レジーナはレジーナで大切な娘だって言ってくれた。でもね、でも、心の病が表れた時はいつも私のことを本当の娘の名前で、ユリアって呼ぶの。そのたびに私は彼女の場所を取った泥棒だって突きつけられる。私の顔が彼女と瓜二つじゃなくて、アレックスの娘を殺した私のママに似ていたら、こんなに良くしてくれたかなって考えちゃうの」


 ジョヴァンニから何も言葉はかけられなかった。ただ、彼は静かに寄り添ってくれている。


「ケインは、アレックスが私のことをユリアと呼ぶのは心が昔に戻っているだけでとくに深い意味はないって言う。パパに愛されているとも。私もそう思いたい。でも……私の母親は彼の家族を殺した。パパが、アレックスが私の母親に対して消しきれない怒りをいまだに抱いているのを知ってしまった今、私はそれを信じきれなくなってしまったの……」


 俯いて口籠ると、ジョヴァンニがほんの少しだけレジーナとの距離をつめて、ためらいがちにレジーナの冷えた手に暖かい手を重ねた。


「辛かったですね……」


 そのたった一言がすとんと胸に落ちて、レジーナはジョヴァンニの胸にすがりついて声をあげて泣いた。

 ずっと辛かった。苦しかった。

 そして怖かった。

 優しく気をつかわれているのを分かっていたから、これを吐き出したらアレックスを傷つけると分かっていたから、関係を壊してしまうと思ったから、レジーナはこのわだかまりを吐き出せなかった。

 泣き続けるレジーナが落ち着くまで、ジョヴァンニはほんの少しためらいがちにレジーナの丸まった背中を撫でてくれた。


「ごめんなさい……」


 泣くだけ泣いて少し落ち着いた時にはつるべ落としの夕日の最後の一片が、地平線に沈んでいくところだった。

 街灯が家々に灯り、ヘリオトロープを思わせる紫がかった空が冴えざえとした紺色へとグラデーションを見せて、染み入るように美しい景色が眼下に広がっている。


「謝ることなんて、なにもないですよ?」


「えっと。聞いてくれてありがとう」


「愚痴を吐き出してって言ったのは俺ですからいくらでもつきあいます。テオドール殿下とあの女の事はまだ聞いてませんけど、まずは暖かい場所に移って暖かい物でも飲みながらにしましょう。夜景もすばらしいですけど、さすがに寒すぎです。ハーヴィーも心配してるでしょうし、商会に戻りませんか? 彼らに聞かせたくないなら、どこか別の暖かい場所にしますけど」


「……商会に戻るわ。ハーヴィーにも謝らないと」


 まだテオドールとマルファの事は胸を塞いでいるが、久しぶりに心が軽くなったと自覚した。

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NTR王子は悪役令嬢と返り咲く オリーゼ @olizet

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