是生両儀∼人之怪∼

序ノ壱 【京の、赤き火につつまれし事】

皇紀こうき 一五八一年・如月きさらぎ

 

 京の夜闇は深く、くらく――そしておぞましい。

 闇は闇としてあり、黒き闇の中の“何か”に人々は恐れを成す。

 

 知っていた。

 男は、走っている。

 その男は、確かに知っていた。

 

 夜に出歩くことが、どれほど危うく、

 おろかなことであるかを。

 

 だが、自分の屋敷の中にまで影響が及んでしまえば、あえて危険な道に踏み出し、逃げ出す他なかった。それが罠であることなど知らぬままに、闇の中に飛び出してしまった後で、屋敷の中の方が安全であることを悟る。恐怖にさえ耐えていれば、真の危険に身を晒らすことなどなかったのに。

 

 静まり返った道に、男の呼吸だけが響く。

 走りながら何度も後ろを振り返った。近づいてくるアレの姿が、先ほどから見えたり消えたり――逃げ切れるだろうかということだけを考えていた。助かるためには、あと数町先の陰陽寮へと駆け込む必要があるが、それを許してはくれないだろう。

 背中へと感じていた気配がふっと無くなった。

 静かに、男は足を止めた。

 

 おのが息だけが、闇の中で聞こえる。

 ――いなくなったか。


 安心したのも束の間、近くの屋根の上で不気味に笑う白い歯が目に飛び込んできた。ケタケタ……口からは乾いた笑いと生臭い息遣い……それが鼻に届くやいなや、男は一気に反対側へと駆け出した。目的地から遠くなろうとも構わない。

 必死に足の裏で地面を蹴りつけた。

 

 が、そんなときにこそ、不運は付きまとう。

 頭の焦りに、体が付いていかない。

 足が空回り、地面を捕らえ損ねた。

 男は地面を転がり、屋敷の塀にぶつかってやっと止まった。痛みに耐えつつ顔を上げると、アレはゆっくりと近づいてくる。ゆっくりと。笑みはさらに吊り上がり歪む。

 がぱりと大きな口が開かれた。

 

 食われる、と思った。

 このままでは食われると。

 咄嗟に近くにあった小石を投げつけた――

 

 


 その日、京の北東は大火に見舞われた。

 陰陽寮と内裏は辛うじて被害を免れたが、その間の多くの家屋が破壊された。

 落雷による大火事と言われてはいるが、その原因が一個の小石であることは長い間多くの人間が知らない秘密であった。

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